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驚異のメキシカン・マリンバ

 世界遺産の街のセントロで聴いた爺ちゃんたちのメキシカン・マリンバの野外演奏がとてもよかった旨の現地報告を目にして、へぇ、どんなもんだろう、と試しに入手してみた『驚異のメキシカン・マリンバ』。その邦題も驚異だ。
 メキシカン・マリンバという楽器のことは、知らない。マリンバという楽器のことも、「木琴?」という程度にしか知らない。僕が勝手に思い描いていたのは、ティト・プエンテ的なイメージだった。プエルトリカン・ヴィブラフォン。メキシカン・マリンバ。仲間を感じるだろう。そして、CDプレーヤーから流れてきたのは、全く違う音楽だった。とても素朴な、村の秋祭りのフォークダンスのような、大道芸のストリートオルガンのような、ともかく、グルーヴィでタテノリなラテンではなかった。えー、聞いてないよー、と思った。確かに、聞いてないままに買ったのは僕だ。
 しかし、そんな第一印象(というか思いこみとの違い)ではあったのだが、案外、スルメだったのだ、これが。熱心に聴き込んだりはしていない。ただ、環境のようにそこに流しっぱなしにしている。すると、じわじわじわーと染みこんできて、ちょっと凝ったところを軽く指圧して、去っていく。ヒーリングとか癒しとかいう感じではない(のは、その語感を僕が好かないということもある)。適当な言葉を探すと、ストレッチとか足湯とかキャッチボールとかそんな感じ。たとえが三者三様すぎるが、ほぐれ感のイメージは何となく伝わるのではないか。伝わらないか。
 曲調や演奏自体は、僕が好んで聴いてきたラテンとはかなりおもむきが違う。敢えて言えば、ときおりブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ的なニュアンスが漂う時があるが、それくらい。ストライクゾーンにピタッときた曲というわけでは必ずしもないのに、ついついかけてしまうのは不思議だ。好ましく感じつつ、引き込まれすぎない、というのがシゴト中の環境として、ピタッときた、ということなのかも知れない。しかも、気がつけば、何となく気分も前向きになってきたりしていて、ちょっと驚く。確かに、驚異のメキシカン・マリンバだ。
by mono_mono_14 | 2012-02-25 21:02 | 音/musica | Comments(0)

希望学への第一歩。

"La speranza e' una voglia per qualcosa da realizzare tramite azione". Mi sono divertito una conferenza sulla "speranzologia".

 玄田有史さんの希望学の講演を聴いてきた(「大震災と希望学」)。会場となった某T大の教室はしんしんと冷えた。でも、それを忘れさせるくらいに、講演はとてもおもしろかった。実際には寒さを忘れることはなかった。僕は階段教室の後方に座っていたので、前方の席よりは天井が近かった分、多少は暖かかったのかも知れない。
 希望学に関する本は、まだ1冊も読んでいなかった。実は、2年前に退職した僕の恩師的上司から、勉強しようと思ったけど、ここまでは手が回らなかった、あなたに預けていくよ、みたいなセリフとともに、僕は東大出版会から出ている4冊セットの希望学の本を譲り受けていた。文字通り預かっただけになっていた。
 講演がとても刺激的でおもしろかったので、購入を迷っていた『希望のつくり方』を帰りがけに買った(くだんの4冊セットから入るべきかも知れないが、それは若干ヘビーで…)。よし、あの本を買うぞと決めた帰り道に、駅を降りたところにある書店がたまたま開いていて、お目当ての本がたまたま書架に残っていた、というようなことを、ちょっとした運命的なできごとのように過大評価するのが、僕は好きだ。
 パラパラと眺めてみると、今日、講演で聴いたうちの少なからぬエピソードが載っている。講演が先で本が後であることを喜んでいる。この本で予習していったら、講演は既視感のあるものとなり、僕をこんなにわくわくさせなかったかも知れないから。今日の講演では掴み損ねていたような内容を、本でゆっくりじっくり味わうことができるかも知れないから。くどいようだが、こういうたまたまを過大評価するのが、僕は好きなのだ。
 今日の話で、2010年11月発行のこの本に載っていないのは、震災後のことだ。釜石の防災教育の大いなる成果は、単なる防災教育だけでなく、地域教育、歴史教育と三位一体的に展開したから、成果を上げられたのだ、という話。もし被災地の復興に関わるのなら、「一生つき合う」と言う必要があるよ、という話。日本にはリーダーがいないと言われるが、復興の現場を含め、リーダー不足は心配していない、むしろ、人間サンドバッグのようにあちこちから叩かれる損な役回りを引き受けながら、リーダー同士をうまくつなぐ事務局的人材の不足を心配している、という話。質疑応答の中で出た「「希望」と「計画」は概念定義の点ではとても似ている」という話。などなど。おもしろかった。
by mono_mono_14 | 2012-02-16 23:57 | 雑/quotidiana | Comments(0)

公共事業が日本を救うとして。

 藤井聡『公共事業が日本を救う』。読み終えたのはしばらく前のことで、手に取ったのはさらにずいぶん前のことだ。

 乱暴に要約してみる。
(1)実は日本の公共施設(道路、港湾、ダムなど)はまだまだ足りない。遠からぬうちに訪れる首都直下地震などを考えると、耐震化・不燃化を急がなければいけない既存施設(道路、橋梁、学校、住宅等々)も山ほどある。
(2)そんな財源はないというけど、デフレの今は国債をじゃんじゃか発行して大丈夫。いざとなればお金を刷りまくれば必ず借金(国債)を返せる。ユーロを刷るわけにはいかなかったギリシャとは違う。大丈夫。心配ない。デフレがインフレに転じるまではこの作戦で問題ない。
(3)デフレ脱却には、誰かがおカネを使いまくらなければいけない。現在、おカネを使う目的があって、おカネを使う余力があるのは政府だけ。ちまちま配るのではなく、自分で使わねば。使い道としては公共事業が最適だ。
(4)せっかく公共事業に投資するのだから有意義に使わなければいけない。不要な穴を掘って埋めるというようなことではいけない。つくらなければいけない公共施設はまだまだあるのだから、それをつくるような公共投資を急がねばならない。
(5)以上より当然の帰結として、デフレがインフレに転じるまで、「日本を救うための真に必要な公共事業」を「日本経済を救うためのマクロ経済政策」としてどんどん進めるべき。公共事業が日本を救う。

つづき
by mono_mono_14 | 2012-02-14 18:09 | 本/libro | Comments(0)

日本人はどう住まうべきか?

 『日本人はどう住まうべきか?』。解剖学者・養老孟司と建築家・隈研吾の勝手放談。震災復興、都市開発、エネルギーなどを巡る。日経ビジネスオンラインでの連載対談の加筆修正版だそう。簡単に読めてしまう。
 都市計画とか、もうほんと言われたい放題。それを売り言葉として読んでしまったら、たぶん、得るものはとても少なくなってしまう。中には言いがかりに近い指摘もあると思うし、場合によっては好き嫌いの問題に過ぎないという場合もあると思う。でも、半ば悔しく半ば嬉しいことに、ヒントに富んでいる部分も少なくない。フンと鼻白んで本を閉じてしまう、そもそも読もうとしない、という選択肢もあるだろうが、僕は、自分にとって有益なようにいいところ取りをする方を選ぶ。
 僕が備忘的な傍線を引いた箇所をいちいち挙げるようなことはしないけれど、ものすごくつづめてしまえば、「都市計画は、大局観を持って長期的な未来を考えながら、「だましだまし」やれ、「だましだまし」やるその現場を大事にしろ」という感じ。・・・「だましだまし」はこの本(対談)のキーワードのひとつ。ただ、都市計画に引き寄せたときのそのニュアンスの捉え方は難しい。・・・「だましだまし」の感じがうまく捉えられないのは、たぶん、「都市計画」の未来の描き方に問題があるのかもしれない。・・・などということをあれこれ考えてみる誘い水にはなるはず。
by mono_mono_14 | 2012-02-14 00:17 | 本/libro | Comments(0)

夜の公園

 街の小さな書店の片隅。呼び止められたように、ふと目がとまったタイトル。その時は、空耳だったことにしたのだが、後日、そのタイトルを書架に探していた。川上弘美『夜の公園』。単行本発刊から3年ほどしてなった文庫化、そこからまた3年ほどが経過した、間抜けなほどの今さらながらに、僕は呼ばれたようだった。

 リリ、幸夫、春名、暁という4人の、それなりにもつれた恋愛模様が、それぞれのまなざしから順繰りに描き出されている。裏表紙に載せられた短い紹介文には「長篇小説」と書いてある。読んでいるときには短篇集のように読んでいたような気もするけれど、読み終えたいまの感じからすると、やはり長篇、ひとつのものがたりだったのかなと思う。いつの間にか読み終えてしまった。

 恋愛に限らないことだけれど、気持ちのやりとりにおいて、誰もが、いくらかは相手を痛めつける加害者になり、いくらかは相手に痛めつけられる被害者になる。痛めつけるが過言であれば、重荷になっている、憂鬱にさせている、というくらいに言い換えてもいいが、そういう気持ちのバランスシートに、誰もが、どうにか折り合いをつけている。帳尻を合わせている。その帳尻合わせは、とても冷静で孤独な作業だ。その冷静で孤独な帳尻合わせの上に、淡々とした日常がある。もしかすると、その帳尻合わせのことを日常と言うのかもしれない。いったん帳尻を合わせ損なうと、暁の兄の悟のように無理心中を図ったりすることになるのだから。

 僕自身も、いろいろなところで冷静に(あるいは冷静を装って)帳尻を合わせている(だろうと思う)のだけれど、じゃあ、そこで取り繕っているのはいったいなんなのさと問えば、どうしようもなくちっぽけな自尊心の切れっ端にすぎないように思われて、そのことも僕をいくぶん哀しい心持ちにさせたりもするのだけれど、それよりもなによりも、そうやって保ったなけなしの自尊心みたいなものの向こう側に、僕としては何としても結実させたいんだと願うようなふつふつとしたナニカを、ひょっとしてほとんど持ち合わせていないんじゃないの、という、慄然たる思いがふとよぎることが、哀しいを通りこしておそろしい。ヘコむ。(こんな感じにヘコむたびに、そうだ、また教科書クッキングの日々を取り戻さねば、などと思ったりするわけなのだけれど、なかなか行動が伴わずにいたりするわけでもあるので、ここに記して尻をたたいてみたわけなのだけれど、さて。)

 僕が「呼ばれた」のは、「公園」という単語にだった(と思う)。この作品のなかで、公園が占めていたのはどういう位置だっただろう。考えた。「公園」は、あらゆる帳尻の合わせ方を肯定して、受け入れてくれる機制のように思えた。街のなかの公園が、そこにたたずむ人を、静かに肯定してくれるような場所であったとしたら、そういうふうに公園のことを考えたことはなかったけれど、それはちょっぴり素敵なことのように思える。
by mono_mono_14 | 2012-02-13 22:49 | 本/libro | Comments(0)