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『イタリアの街角から』

 陣内秀信『イタリアの街角から スローシティを歩く』、半月ほど前に読了。西日本新聞での連載をもとに編んだものだという。陣内さんにイタリアを語り続けてもらうという連載を企画・敢行した新聞社を、伊コヒイキとしては(遅まきながら)讃えたい。
 イタリア半島を南から北へと進みながら陣内節が炸裂する。新聞連載だから致し方ない部分はあるが、いくらか既読感ある部分もないではないし、駆け足のイントロにとどまってしまっている残念感もなくはないが、おもしろく読み進めた。わがうちなる伊コヒイキ健在なり。
 ボリュームとしては全体の1割にも満たないとは言え、「イタリアのスローシティから学ぶもの」という章も立てられていて、読み手の持っている問題意識によるにしても、ヒントのカケラはあちらこちらにちりばめられている。抽象的な書きぶりになってしまうが、ここでも「実感」ができる「具体的な空間・場・経験」の重要性が確認できる。

 カバーに連続立面(街並み)の写真が2つあしらわれている。オストゥーニとバルレッタという街だそうで、僕はもちろん行ったことはない(し、名前も知らなかった気がする、という感じだ)。オストゥーニの方は、真っ白な壁面に小さな窓が黒く穿たれていて、極東の伊コヒイキから見ればエキゾチックだしフォトジェニックだ。日本にあったら違和感があるだろうが、日本人旅行者が魅力を感じたとしてもおかしくない街並みだろう。
 一方のバルレッタの方は、年季の入った小割の間口の2階建てから4階建てが並んでいて、これは日本のあちこちに見られる寂れてしまったかつての繁華街と見かけはさほど変わらないじゃないか、との印象だ。日本にあってもおかしくない。いや、似た街並みがあるだろう、という気がする。もちろん、子細に見れば似て非なるところが多々あるには決まっているが、単純にイタリアは美しくて日本は醜い、ということではないはずだ。なのに、変な話なのだが、往々にしてそういう話になる。イタリアの年季の入った街並みに魅力を見出すまなざしで、日本のくたびれた街角を見つめてみる。両者にさしたる違いはない、はずなのだけれど、明らかに圧倒的に違う。その違いがどこから来るのか。そこを掴みたい。イタリアの実見が不足しているところは気にしない方針で。
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by mono_mono_14 | 2010-08-26 07:36 | 本/libro | Comments(2)

Fabrizio de Andre『Rimini』

 夏はやっぱり海でしょう。今年もまた行ってないわけですが。海と言えばリミニでしょう。全く知らないわけですが。
 少し前のBRUTUSが海特集で、その中に海っぽいアルバム紹介のようなコーナーがあり、ファブリツィオ・デ・アンドレの『リミニ』もリストに並んでいた。アルバムどころかアーティストそのものすら知らず、かつリミニのことも何も知らないが、詐称湘南ボーイの伊コヒイキとしては乗らない手はないだろう、とオンライン経由で購入。即納してくれるとのことだったので。
 夏の海が放つまばゆい煌めき。それは、儚い虚構の上に成り立っているひとときのファンタジーだ。このアルバムは、そのことをじんわりと浮かび上がらせている。ファンタジーに身を委ねる陶酔と、それが虚構の中で成り立っていることを知る覚醒と。それらがないまぜになったアンビバレントな白日夢。それが夏の海だと僕は思う。
 『リミニ』に収められている10曲は、寛いだりはしゃいだりしながらも、どれもどこか芯で醒めている。ジャケットやブックレットにあしらわれているモノクロームの写真、そこにも弾けた開放感はほとんど表れていない。どちらかと言えば悟ったような表情が並んでいる。ひとりくらい笑っていてもよさそうなものだけれど、誰もが何かに思いを馳せているような表情だ。確かにそれらは「夏の海」をよく表しているように思う。『日はまた昇る』が夏の喧噪と倦怠を切り取ったように。
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by mono_mono_14 | 2010-08-25 10:45 | 音/musica | Comments(0)

『売り方は類人猿が知っている』

 しばらく前に、「ほぼ日」で特集があり、ホストの糸井重里が「せめて、この本がみんなに行き渡るように、また、がんばります。」と言っていたので、コンテンツを楽しんだ者のささやかな気持ちとして「この本」を買ってみた。ルディー和子『売り方は類人猿が知っている』。読んでみた。半月ほど前に。
 率直な印象を言えば、「消費学」というよりは「人類学」とか「脳科学」のようだったし、真に言いたいことに入るための壮大な「序論」のようでもあった。
 ・・・というような印象になるのは、たぶん、「モノを売る」とか「商品を開発する」というようなことについて、僕が、日々、真剣に考えていない、ということの裏返しなのだろうと思う。そこは猛省だ。だって、小売業ではないにしても、僕だって、何かを提供して買ってもらっている立場のはずなのだ。
 思わず傍線を引いた箇所が3つある。3つしかないのか、3つもあったのかはさておき。そこは、僕が、僕なりに、日々、真剣に考えている事柄に引きつけて考えられる箇所だった、ということだと思う。
 ……もっと、身近で具体的な問題を解決するのに自分が役立ったと実感できるものでなくてはいけません。(p.100)
 ……お金に余裕のある層が罪悪感を感じることなくこれまでどおりの消費生活をエンジョイできるように、自分たちが生活に困っている層を助けているのだと実感できるような仕組みを提供してあげる。(p.103)
 未来のためにCO2の排出量を減らさなくてはとわかってはいても……こういったことを面倒くさく思うのが人間なのです。なぜなら大脳辺縁系は未来に関心がないからです。……消費者は基本的に環境問題には関心は持てないようにできているのです。(p.141)
 未来に関心がない、と言い切られた日には、曲がりなりにも「都市計画」などという、未来に向けた営みに携わっている身としてはどうしたらよいのか(などと大げさなセリフをあててみた)。でも、基本的に未来に関心が持てない、具体的な問題に役立ったと実感できないといけない、そう実感できる仕組みを提供すべき、というようなフレーズは、自分の置かれた状況に照らして何度も反芻するに値した。「身近で具体的な実感」、これこそがまさに都市計画が欠いてきたものだ、と僕は考えていて(さりとて妙手を思いついているわけでもなんでもないのだが)、その路線で考えていていいんだよ、と言われたような気がしたのだ。また、基本的に普通の人は未来に関心がないのだとすれば、計画が見据える未来だとか、未来に向けた道のりの描き方だとか、そういうものだって違ってくるはずだ。そう思うと、ちょっとワクワクする。後日、再読したら傍線が増えている。そうありたい。
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by mono_mono_14 | 2010-08-24 22:08 | 本/libro | Comments(0)

『地域再生の罠』

 久繁哲之介『地域再生の罠』読了。1週間ほど前に。
 きっと著者には必要があったのだろうと思うけれど、僕からするとちょっと無用とも思えるバッシングに満ちている。バッシングに溜飲を下げるような読み方をしても得るものは少ない。バッシングを割り引いて読まないといけない。その努力を払った方が読後に得るものを見つけられると思う(もっとも、そういう努力を読者に強いるべきではない、と僕は思うが)。
 割り引いた残りは、お客さまが望む商品やサービスの提供に傾注する地域とともに歩む地場のスーパー、みたいなスタンスに立った地域再生施策の展開を説くところに落ち着いていく。それはそれで「正しい」と思うが、でももしシャッター通り商店街の店主たちがそういうメンタリティで商っていたら、そもそもそこまでの衰退に陥っていないだろうという罠。いや、タイトルに出てくる「罠」はこういう意味ではないが。
 著者の指摘するとおり、「地域再生」の過程において、適切なソフトの不在や実ニーズとのミスマッチが散見されるのは事実だし、反省もすべきだし、著者の示す「7つのビジョン」や「3つの提言」には的を射ている部分もある。しかし最も難しいのは、何かを実行するには、誰かが「持ち出す」必要があることだ。ビジョンの1つに「私益より公益」と掲げられているが、「そうだなぁ」と思って私益の一部を公益に持ち出す誰かがいないといけない。いかに「持ち出す」か、誰が「持ち出す」か、どう「持ち出す」メンタリティに辿りつくか。そこをみんな超えたいんじゃないのか。そこについての熱弁を読みたかった。バッシングが紛れ込んでいてもいいから。
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by mono_mono_14 | 2010-08-24 19:54 | 本/libro | Comments(0)

白と紅に見た時間(「建築はどこにあるの?」展)

 広いさとうきび畑にはざわわと風が通り抜けるだけなのだとすれば、白いとうもろこし畑には何が通り抜けていくのだろう――。

 強い主張を投げかけるわけでもなく、どちらかと言えばもやのような儚さとともにある白い「とうもろこし畑」は、近寄って見れば、ほとんど狂気のような意志のもとに立ち現れていたのだった。まるで水引のように細い紙製の棒を、シンプルな構成でひたすらに根気強く貼り合わせていく。その気の遠くなりそうな制作過程の現場がどのようなものであったかは知らないが、とにかくその過程を経てこの作品がここにある、ということだけはわかる。どうしたってわかってしまう。誰にでもわかってしまう。パソコンのモニタ上で同じ図形をコピペで増殖させていくようにはつくれない。1本の材を貼り、もう1本貼り、もう1本貼り、と、そのようにしかつくれない。その狂気に満ちた、しかし叫び出すと言うよりは息を詰めるような過程の果てに、この清楚なレースのような佇まいが現れている。驚愕だ。
 白い「とうもろこし畑」には、静寂をまとった人間の意志と時間が、降りしきった雪のように積み重なり、穏やかな光が満ちていた。「とうもろこし畑」、中村竜治の作品。

 白いとうもろこし畑には穏やかな光が満ちていたのだとすれば、紅い縞がにじむ暗がりには何が秘められているのだろう――。

 その空間に足を踏み入れたとたん、辺りがほとんど見えなくなってしまった。床に紅い縞模様が描かれているだけ。そこをおそるおそる歩いてみる。歩いてみただけに終わってしまった。腑に落ちず、脇でたたずむ。別の人たちが入ってきて、同じようにおずおずと紅い縞模様を歩いている。そのシルエットが紅い縞模様で移ろっていく。そうか。歩行者の目線では何も起こらないのだ。外からの眼差しが空間を紡ぎ出すのだ。再び歩く。自分の体を見ながら。紅い縞が浮かんで消える。手を前に突き出してみる。振ってみる。素早く動かしてみる。その都度、紅い縞は、思いがけない軌跡を空間化しながら闇へと戻っていった。何度も繰り返してしまった。建築はどこにあるの? 建築は僕の身振りの中にあった!
 白いとうもろこし畑に積み重なっていた時間、そんな時間のもうひとつの側面、ほんの一瞬で消え去ってしまう時間が濃密に身を潜めていた。一瞬の時間を三次元の空間として確かに浮かび上がらせては、すぐさま暗闇へと解き放ってしまう赤縞。動く自分の身体が「空間」に溶け込んでいくさまが魅力的で、それはおもわず声を出して笑ってしまうほどの愉快さだった。「紅縞」、内藤廣の作品。
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by mono_mono_14 | 2010-08-06 20:57 | 芸/arte | Comments(0)