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黄昏のアジアカップ

 どちらもテレビで観たのだけど、もう記憶は薄れている。サウジ戦のやけに淡泊にもろい守備(失点場面など)、韓国戦の前へ行く気配の薄さ。なんともがっかりさせられる2試合だった。
 フットボールは、基本的にボールキープのゲームだ。ラグビーはボールを後方へしか投げられないなか、ラックやモールなど、ボールを奪われないように注意しながら少しずつでも前へ進んで行こうとする。アメリカンフットボールは、もっとシステマティックにできており、4回の攻撃チャンスのうちに最低でも10ヤード進みなさい、というルールになっている。得点に至るまで、10ヤードずつ、ボールを失わないようにしながらじわじわと進んで行こうとする。サッカーも同じだ。拙速にゴールを目指すよりもマイボールの状態を保つことが基本的に大事だとする見方がある。だからこそ、テレビ中継でボール保持率が頻繁に紹介されるのだ。しかし一方で、90分間ボールをキープしていても1点も奪えなければその試合に勝つことはできない。ラグビーもアメフトもフィールドの向こう端にボールを運び入れないと点にならない。サッカーは、この3競技の中では最もゴールが狭い。幅7.32メートル・高さ2.44メートルのゴールの枠の中にボールを入れ込まないといけない。従って、この3競技の中では、ボールキープと得点が最も結びつきにくいスポーツなのだ。
 日本のボールキープの技術は、アジアでは頭抜けている。豪州戦でもサウジ戦でも韓国戦でも単なるボール回しをさせれば日本が明らかにうまいと思う。「で?」という話なのだ。最後は枠にボールを入れ込まないと得点にならない、というところが、どうしても弱い。シュートが入らない、という以前の問題として、シュートに至らない。拙速なシュートはチームの士気を下げるのは事実だが、シュートを打てない状態もチームとしてはしんどい。特に最終ラインにとっては切実な問題としてしんどい。点が取れない以上、勝てないわけだから、点を取られないように頑張るのが主たる役割の選手たちにとって、点を取ろうとしている姿勢が感じられない状態は、ものすごくきついのだ。以上は、僕の草サッカー的経験論なので、日本代表に当てはまるかどうかは不明だが、日本代表の最終ラインだって、前線が軽率にボールを失ったり、シュートチャンスにトライしないという状態を後ろから眺めているのは心地よくはないだろう。
 そういうわけで、拙速と果敢の境はとても曖昧で、勝てば官軍・負ければ賊軍みたいなところはあるけれど、もう少し、果敢さのあるチームに育ってもらいたい。
by mono_mono_14 | 2007-07-28 23:59 | 蹴/calcio | Comments(0)

日本対オーストラリア

 コンディションの差はあったのかも知れないけれど、プレー内容には歴然としたクラスの違いが感じられ、にも関わらず勝敗の行方はPK戦に持ち込まれてしまうところが、日本の歩む道のりの険しさと言うか果てしなさを示していた。
 でも大会を進んでいくことは重要なので、手痛いトラウマ的な敗戦の記憶をぬぐい去ることはできなかったとしても、まあ、よしとしたい。本当は3対1で勝ちたかった。プレーのクオリティとしては、それくらいの差があったようにテレビでは見えたから。もっとも、オージーの前の方は一人で斬り込んで来ることはできそうだった。それでも、日本のサッカーの方がレベルが高かったと思う。
 ドイツでもこれくらいやれたんだろうけどなあああああ。宮本と阿部、柳沢と巻、福西と鈴木、中田と中村憲。前者が見劣りするとは思えないもんな。後者が劣るということではないけれど。鈴木と中村憲はこのチームの要に足るシゴトぶりを披露しているわけだし。
 それにしても、高原は自信をつけているんだなあとしみじみ。中沢の強さも素晴らしかった。おそらく、彼らには体感レベルのリベンジ感があったんじゃないか。いや、たぶん、彼らはそんなところで足踏みしたりはしていないのだろう。
 イラクと韓国、サウジと日本。アジアカップっていう感じ。ここに名を連ね続けることは、たぶん、とても大事なことだ。他の3つがどう入れ替わっても、日本の名は残り続けるようであってほしい。
by mono_mono_14 | 2007-07-21 23:59 | 蹴/calcio | Comments(0)

rodrigo y gabriela

Con solo due chitarre acustiche questa musica e' creata. Difficile crederci ma sarebbe la verita'. Rodrigo e Gabriela, ora si deve provare.

 「All the percussive sounds you hear on this album come from Rod and Gabs acoustic guitars」。うそだろ。弦楽器の音ではないよ。バスドラムやパンデイロみたいな音が頻繁に鳴り響いている。「A lot of people, when describing our sound, say we play flamenco. We don't. We blend a lot of styles into our playing, but this area of music is not one of them」。そうだろ。だから僕もフラメンコとは描写しないことにする。スパニッシュな薫りは色濃いが、フラメンコとは違うと思う。この喩えでイメージを掴める人は少ない気もするが、ヘヴィメタル/ハードロックの早弾きギタリストが、アルバムにちょこっと混ぜるアコースティック・インストゥルメンタルのようだ。マイケル・シェンカーとかが演ってたニュアンスがある(古いギタリストだったらすまん。四半世紀前の記憶だ)。実際、ツェッペリンとメタリカがカヴァーされており、そっち系(どっちだ)をたしなむアーティストでもあるのだろう。
 あ、まだアーティストを紹介していない。僕が聴いているのはロドリゴとガブリエラ(rodrigo y gabriela)。2台のアコースティックギターで奏でるぶ厚いインストゥルメンタル。アルバムのタイトルは不明。ユニット名を冠したアルバム(セルフタイトル)なのかも知れない。爬虫類っぽい目のクローズアップ写真に、彼らのライブパフォーマンスの様子がうっすらと浮かび上がるジャケット。やや気色悪い。しかしひるんではいけない。オマケのDVDもおトク感満載の素晴らしさだし、何よりも聴ける人は聴くべきパフォーマンスなのだから。
 ・・・なんだ、この最後の当たり前の一文は。いや、万人に広く勧められるわけではないと思うわけで。ギター、ロック、ワールドミュージック。こういった辺りに馴染みがある耳(と脳)でないとしんどいかも知れない。ということで、試しに彼らのウェブサイトのビデオクリップをチェックしてみてほしい。伊コヒイキ党としては、「Rodrigo y Gabriela performing 'Tamacun' on Italian National TV RAI Uno on Oct 12th 2006.」と題されたクリップをクリックしてほしいところだ。必ずしも、それが録音として最も優れているわけではないのだけれど。
by mono_mono_14 | 2007-07-18 19:11 | 音/musica | Comments(10)

10年ぶりのジェノヴェーゼ

 山盛りのバジリコが届いて、やけに美味しそうだったので、ジェノヴェーゼ。ま、バジリコが届いたのは頼んだからなのだけれど。
 ざっと10年近く前、友人たちを家に招いた時にチャレンジしてみた中の一品がジェノヴェーゼだった。その時は、イイカンジで玉砕した。その時にどの玉が砕けたのかは怖くて確認していないのだけれど、ともかく冴えない出来だった。我が家のフードプロセッサーと言うよりはジューサーミキサーには、大量のバジリコをすりすりしていく作業が重荷だったのか。韓国のお袋さんはオモニだったのか。思いついたことを書き挟んでいるが、空転するバジリコに潤滑油を入れすぎたのが敗因のひとつだと思う。そんな苦いと言うか油っぽい思い出に包まれつつ、例によって嫁入り本を開く。
 ちぎったバジリコ、オイル、松の実、パルミジャーノのすり下ろし、塩少々を、長らくふて腐れていたジューサーミキサーに放り込む。もちろん放り込む手順はいろいろだが、それはここでは教えられないな。秘伝だからね。いや、手元に教科書がない状態で書いているだけですが。やはり空転気味で軽く焦るが、だましだましペーストっぽい状態に持ち込んでいく。
b0018597_19442926.jpg じゃがいもとどじょうインゲンとパスタを一緒に湯がく。もちろん投入するタイミングは別々だが、それはここでは教えられないな。秘伝だからね。いや、以下略。ところで。ドジョウインゲンというのは僕の知っているインゲンでいいのか。そそくさとネット検索し、何となくよさそうという当たりはつけたが、ま、違ったところで、僕の手元にはいわゆるインゲンしかないわけだから、これを使うしかない。半分に切る。さらにタテに半分に切る。タ、タテ? ・・・た、立つんだ、ドジョー。そういうことか、ドジョウインゲン。タテに割ろうと試みるも、案外、難しく、早々にヨコに切ることにする。つまり4等分だ。簡単だ。
 3種類も湯がくので、長らくふて腐れていたパスタロボを抜擢する。いいヤツなのだが、洗うのが面倒なので、つい出番がなくなってしまう。すまん。今日は張り切ってくれ。沸騰したので、フタを外し、バジリコ・ペーストを入れておく。ソースと和えられますよ、というのがパスタロボのフタのウリだ。たまの出番ともなれば、それくらいの活躍の場を与えねばなるまい。茹で上がったパスタとジャガイモ、ドジョウインゲンをフタで和えて出来上がり。出来栄えは写真の通り、読者に言葉を選ばせるが、味まではわかるまい。安心して自皿自賛。
by mono_mono_14 | 2007-07-16 23:59 | 味/buono | Comments(0)

地中海な夕べ(過言)

 スペインなサラダとシチリアなポークソテー。
 『タパス』を眺めていて、簡単そうで、材料が揃うレシピを発見。「ツナ入りピカディーリョ」。ピカディーリョは細かく刻んだ野菜のことだそう。ツナ入り刻み野菜。心なしか魅力値が下がったような…。正確にはオリーブがなかったのだが、これは前から手を伸ばそうと思っていた食材なので、適当な瓶詰めを買い足してみた。工程はいたってシンプル。ピーマンとトマトとタマネギを細かく刻んでオリーブオイルとワインビネガーと和えてツナとオリーブを載せるだけ。それにしては美味しい。いざとなったらツナとオリーブを省いても大丈夫だと思う。おすすめ。
b0018597_19404956.jpgb0018597_19411361.jpg 『ちゃんと作れるイタリアン』を眺めていて、マリナーラソースをつくってみたかった。プッタネスカの素だが、そのページの片隅に素っ気なく載っていたのが、この「豚ロースのシチリア風」。マリナーラソースは、要はアンチョビ入りトマトソースで、アンチョビ好きには堪えられない。なぜ今までつくったことがなかったんだろう。もっとも、入手できなかった「オレガノ1枝」を端折っている。悪いのはオレかの。・・・。でもって、この教科書の構成上、マリナーラソースのつくり方は丁寧に解説されているが、「豚ロースのシチリア風」の方は「ま、こんな感じでつくってみてよ」というくらいの端折った説明になっている。教科書クッキンガーとしては、なんとも微妙な心持ちだが、写真がとても美味しそうだったのだ。僕の写真にはそんな訴求力がないわけだが、そこには触れないのがオトナのイイトコロだ。もちろん自皿自賛。
by mono_mono_14 | 2007-07-15 23:59 | 味/buono | Comments(2)

タコのガリシア風の田舎風

 以前にも挑戦したことのあるタコのガリシア風。その田舎風という一皿に挑む。冷凍庫にタコの足の凍ったのが眠っていたから。繙く教科書は、おおつきちひろの『タパス』。工程はとても簡単だけれど、レシピ的に「パプリカと唐辛子2本」なところを「チリパウダー」のみにしてOKかというところが不安材料ではあった。我が家にパプリカのストックはなく、台風接近に伴うそれなりの降雨があるなか、買い出しに行くのも微妙にナンセンスだ。と言うか、買い出しに行くのを回避するために冷凍庫からタコ足を引っ張り出してきたのだった。
 タコ足を水から茹でるというので、凍ったまま鍋に放り込む。タコを柔らかくするからというのでタマネギも入れる。前回につくった時もタマネギを入れたが、タコはなかなかに硬かった。タコはこのまま放置し、ソースづくりに移る。たっぷりのオリーブオイルでニンニクの薄切りを揚げる。その後、ローリエ1枚とチリパウダー大さじ1を放り込み、煮立たせる。ぶくぶくと泡だってきたところにワインビネガーを注ぎ入れ、塩をする。おしまい。何て簡単。ただし、繰り返すが、レシピ的にはパプリカと唐辛子のみじん切りのところをチリパウダーに一本化している。一抹の不安は残る。あと、ふつふつと煮えるオリーブオイルに注いだチリパウダーが焦げに焦げているような風味も感じられ、それもやや不安だ。従って二抹の不安と言ってよいだろう(よくない)。ちなみに、ほのかに焦げたニュアンスをたたえたチリパウダーの香りはスナック菓子を開封した時のようだった。
b0018597_1432344.jpg ほとんど完成も近づいたところで、茹でたジャガイモを下に敷くというところに改めて気づく。ジャガイモはある。しかし生だ。レンジで茹でる(?)ことにする。100gで1分の法則に従い、2個で200gのジャガイモを電子レンジで2分加熱する。竹串を通すと、まあ、OKな手応えだったが、もう1分追加した。指先を何度も水に当てながら皮をむき、くし形に切る。実際は、微妙にくしではなかった。気にするな。
 お皿にジャガイモを敷き、一口大にブツ切りにしたタコを並べ、チリオイルをかける。オイルはざっと100ccほどあるわけだが、それを全部かける必要はないことは、これまでの教科書クッキングで学んでいる教科書クッキンガー、ざっと半量を回しかける。完成だ。あとは、星3つを与えつつ自皿自賛。二抹の不安もどこへやらだ。例のごとく、それが伝わらない写真を添えておく。
by mono_mono_14 | 2007-07-14 23:59 | 味/buono | Comments(0)

中沢新一の紡ぐ小宇宙

 中沢新一の『ミクロコスモス I・II』を読む。完走しただけが取り柄の長距離走のように、読み終えたというだけで、理解したとは、とても言えない。悲しいことではあるけれど、まあ、仕方のないことでもある。2枚組アルバムのように出版されたこの2冊は、「ミクロコスモス I」の方がオフィシャル色が強く、「ミクロコスモス II」の方がざっくばらんな気配が濃いそうで、言うまでもなく、僕が読みやすかったのは「II」だ。書名の「ミクロコスモス」は、バルトークが書いた膨大なピアノ曲集に由来する。このピアノ曲集は、バルトークが私的に編み始めたピアノ練習曲を源流に持つのだそうで、そういう曰くに惹かれがちな僕としては、中沢が紡いだミクロコスモスに次いで、バルトークが編んだミクロコスモスの世界を少し覗いてみたいような気持ちがしている。
 まえがきやあとがきを除くと、長短全27編の文章がある中で、僕がいちばんおもしろかった1編は「庭園は民衆の阿片であった」であった。であったであったってウルルンか。この文章は、中沢が「愛・地球博」の準備に燃えていた(?)頃に書かれたランドスケープ試論で、日本の里の風景(そして、その背景にあった暮らし)が携えていた価値に、改めて光を当てている。「耳のための、小さな革命」もおもしろかった。日本人が脈々と受け継いできた(はずの)ものの考え方に依って立てば、日本人こそが、「指輪物語」に登場する「ホビット」になり、混迷する世界を救える可能性を秘めている、という主題には、小さく勇気づけられるところがある。もっとも、トールキンの「指輪物語」を読んだこともなければ、5点満点で10点を与える評者がいるほどの傑作だったらしいシリーズ映画「ロード・オブ・ザ・リング」も観ていない僕には、ホビットがちょびっとわからないのであった。少し冷えましたか? 「芸術とプライバシー」もおもしろかった。
 ともあれ、例えば、グローバルスタンダードや成果主義、データで説明できないことを顧慮しない態度などからこぼれ落ちていく、叙情的だったり神話的だったりする価値観を再評価しようという、この作品を貫くテーマメロディは、僕の耳に、ずいぶんと心地よく響いたのだった。とは言え、おそらくこの2枚組アルバムのハイライトトラックであろう「哲学の後戸」や「孤独な構造主義者の夢想」の前には、あっさりと白旗を掲げつつ膝を屈したのであった。悲しい。
by mono_mono_14 | 2007-07-13 16:32 | 本/libro | Comments(0)

1年越しのnegramaro

Dopo un anno da un clic annullato dall'HMV finalmente ascolto negramaro che mi ha portato l'Amazon ieri.

 ちょうど1年前くらいにHMVにオンラインで注文し、約7ヶ月にわたり入荷を待った挙げ句に「廃盤/生産中止」との連絡が入った1枚が、数日前にふと覗いたAmazonで「1点在庫あり」と記されていて驚いた。買った。届いた。聴いた。negramaro『000577』。
 正直、このアーティストについての予備知識はほとんどない。某所である人が推挙していたことだけが、まあ唯一の決め手なのだけれど、そのくせ、その推挙していた人の音楽感はほとんど知らない。こう書くと、すごいな、オレ。たかがCDとは言え、よく買えるな、こんな流れで。
 耳馴染みのあるタイプのロック。やや翳りあるポップと呼ぶ方が合っているかも知れない。大英帝国辺りからよく聞こえてくるタイプの音楽だ。ラーズとかブラーとかキャストとか。リリックがイタリア語である点が、唯一、そしてとてつもなく違う。メロディアスと言うよりは音を解き放つ感じのメロディラインで、どこかしらアヴィヨン・トラヴェルを思い出したりする。ポップ・ミュージックのフォーマットに則ってはいるけれど、地中海を取り巻くいろいろな土着の音楽の要素が混淆しているように感じられた。ときおり織り交ぜられるファルセットも特徴的。アルバムの中盤、ドラマティックな厚みにふと耳を澄まして聴き入ったりしてしまう「apnea」や「genova22」の辺りが、僕は気に入った。これらに続いて「mono」というタイトルの曲が収録されていた。え? うん、そう。この件はこれだけ。微妙な曲だったわけですよ。でも、そのうち味わいが出るかもね(come me!?)。
 どうやら本国イタリアでは新譜が出たっぽく、それにはジョヴァが参加してるっぽい。買いだ。また7ヶ月待って袖にされよう。渋谷のHMVかタワーに行けば置いてあったりしないかな。近ごろ、多くのCDショップで「イタリア」の棚はめっきり縮小傾向のような気がするから、多くは期待できないけれど。
by mono_mono_14 | 2007-07-12 20:50 | 音/musica | Comments(6)

Adriana Calcanhotto『Maritmo』

 つい先頃来日したマリーザ・モンチのライブは予想だの期待だのに違わずものすごく素晴らしかった模様だが、たぶん、じきに来日するアドリアーナ・カルカニョットのライブもきっと素晴らしいことだろうと思う。僕自身は、マリーザ・モンチの公演を見送ったのと同様に、アドリアーナ・カルカニョットのライブも見送るだろうと思う。そういう時期なのだ。
 しかし、来日公演に合わせてCDが再プレスされたり、店頭での品揃えが充実したりするのはありがたく、公演は見送るのだとしても、アドリアーナの昔のアルバムを1つ2つ手にしてみるくらいのことはしてしまったうちの1枚、『MARITMO』。海をテーマにしただの、これまでのキャリアでの最高傑作だの、そんな感じの惹句によろめいた、といういささか恥ずかしい真相はさておき、いや、なかなかよい。
 トンガり加減とベタさがお互いほのかに混じり合ったアレンジと味わい深い声。まあ、あの国では、ものすごく多くの女性アーティストがごくごく当たり前のように味わい深い声で歌うので、味わい深い声は特筆に値しないことのような気がしてしまうが、それは単なるうっかりであって、やはり味わい深い声の魅力は特筆に値する味わいなわけなのだ。くどいな、ここ。

 オープニングの「Parangole Pamplona」のイントロがちょっとウェラー風味で、それだけで僕的にはもうオッケーだ。続く「Maritmo」は、海っぽいニュアンスのある心地よい曲。「Vambora」のピアノはスタカン時代のミック・タルボットのようだ。オサレ路線ってことだな。穏やかなまどろみのよう。ドリヴァル・カイミとの共演だという「Quem Vem Pra Beira Do Mar」は、シゴトのことをみじんも思い出さなくて構わない午後のビーチに連れ出してくれる。ギター1本の伴奏に乗せたデュエット。和む。「女カエターノ」の称号(?)を持つというのが何となく頷けるパフォーマンスの「Mao E Luna」、心持ちエッジの立ったクラビィなアレンジの「Pista De Danca」、カエターノをサンプリングした(と思われる)「Vamos Comer Caetano」といった実験的、野心的なナンバーを挟み、「Mais Feliz」。ベベウ・ジルベルトの手になる佳曲。夜の気配を漂わせながら歌う。「Asas」に続いて、前のめりなポップ感が弾ける「Dancando」。伴奏は必ずしも僕の好みではないけれど、このボーカルは僕的ハイライトトラックと言ってもよい。インストの「A Cidade」、なぜか泣きのギター(どことなくゲイリー・ムーア調)が炸裂したりする「Por Isso Eu Corro Demais」、ジャジーな「Cancao Por Acaso」と続き、エンディングは「Cariocas -Remix 96」。微笑ましい陽気さとスタカン風味のブラスにまったり。
 僕が手にした3枚目のアドリアーナ・カルカニョットは、思った以上に多彩な音が詰まった興味深い世界だった(ちなみに1枚目は「Cantada」、2枚目は「Publico」)。それにしても、またもやCDケースのヒンジ部分が破損していたのだけれど、これは僕の開封技術が稚拙なんですか。ヒンジが壊れたCDケースは、もはやケースの用をなさなくて困るんですが。
by mono_mono_14 | 2007-07-03 21:52 | 音/musica | Comments(0)

『都市田園計画の展望』読了

 僕のシゴトに関わるややマニアックな話題である旨、冒頭にお断りしておく。

 ずいぶん前から手元に置きながら、どうにも読み始められずにいた『都市田園計画の展望』(トマス・ジーバーツ著・蓑原敬監訳)を読み終えた。読み始めてみると、なんだか、とてもおもしろかったのだが、それは、それなりの背景がある。簡単に言えば、必要に迫られて読み始めてみたら、僕の中で形をなさないまま悶々としていた関心領域に、いい感じでフィットした、ということだと思う。

 この本は明らかに「業界向け」だと思うので、この場では細部に立ち入らないことにするが、その内容をごくごくかいつまんで紹介すれば、日本では時に「ファスト風土」などと批判されたりもする郊外市街地をポジティブに再発見する、と言うか、郊外のその存在感をもう認めざるを得ないのだから、きちんと受け止める都市計画を考察すべきだ、という感じになろう。 

 この問題意識は、先日の日伊景観シンポジウムでも話題になった「打ち捨てられた景観(paesaggio abbandonato)」、「何てことのない日常の景観(paesaggio ordinario)」に、新たな価値を与えながら、都市を再構築しようというスタンスとも重なるところがある。ヨーロッパの都市計画におけるイシューのひとつに、こういう「ファスト風土」的に括られる空間・生活・文化の問題があることは明らかなようだ。つまり、日本と同じ、ということである。「ヨーロッパのような美しい街」というのは、日本において景観を語る時によく用いられる常套句だが、当たり前と言えば当たり前ながら、決してヨーロッパが隅から隅まで美しい街並みで彩られているわけではないのだ(そう言えば、そういうヨーロッパの風景が「In-between」シリーズの写真にも多々散見されていたのを思い出した)。
 パリやローマの魅力から学ぶのもいいが、たぶん、日本の文脈にうまく翻訳しきれないと思う。むしろ、ヨーロッパが挑み始めている郊外の都市計画の歩みに歩調を合わせていく方が実り多いのではないか。ヨーロッパがそういう状況に立ち向かっているということに、日本も勇気づけられるべきだし、地道なストラグルを起こすべきだと思う。
 この本の中で、クリストファー・アレグザンダーやケビン・リンチの有効性が指摘されていたが、この辺りをちゃんと読もうとも思っていたところだったので、その部分でも背中を押してもらったような感じもした。早いことに今年も折り返し地点なので、地道に勉強する後半戦にしたい。偽装エントリにならないように注意しよう。
by mono_mono_14 | 2007-07-02 19:40 | 本/libro | Comments(0)