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周杰倫『Jay』

Il mio quinto disco di Jay Chou e' il suo primo disco.

 セール&Wポイントを機会として、周杰倫のデビューアルバム『Jay』など聴いてみる。これで僕的には5枚目ですか、そうですか。すげえな、おれ。聴きすぎじゃないですか、大丈夫ですか、そうですか。
 一通り聴いてみて、ある意味で驚きであったのだけれど、どちらかと言えばアダルト・コンテンポラリーでアーバンでメロウなソウル(どんなだ)が並んでいて、ジャケ写はぶっきらぼうなハニカミ王子(どんなだ)のようなあどけなさなのに、ずいぶんと老練と言うか熟した音楽を演っている。何て言うのか、山下達郎が夜中のFMでかけそうな感じ(どんなだ)。メロディラインは穏やかで美しく、アレンジはシンプルでロマンティック。トンガッた感じはあんまり見られない。もちろん、オカズ的なアソビはところどころにちりばめられているが、曲のコンセプトに据えられているとまでは言えない感じだ。「印地安老斑鳩」や「完美主義」辺りは後年のトンガリ系の芽かも知れないし、「娘子」の歌詞の乗せ方とギターのアレンジなども個性的でおもしろいけれど、後年の作品から聴いている僕の耳には全体的にずいぶんとおとなしく響く。この路線で黒人に勝つのは至難の業だなと思う。そう思うのは中華色がほぼゼロということの裏返しかも知れない。もっとも美メロ系の才能はすでに存分に発揮されている。以下、ひとことずつ。
可愛女人:サビにどこかしら80年代洋楽っぽい空気がある。ドラム(マシン?)がちょっと浮いてる。
完美主義:愁いのあるピアノの旋律とノイズ。メロウなラップ。狭いけど深い洞穴みたいな広がり感。
星晴:さざ波のような(あ、星空のようなと言うべきか)手堅いエモーショナルな東アジアのバラッド。
娘子:独特なリズム感に乗せたメロウなラップと印象的なギター。ちょっとソウル色あるコーラス。
鬥牛:音の響きがユニークだが(チョッとかショッという撥音)、曲自体は僕にはあまり響かなかった。
黒色幽黙:伸びやかで感傷的。たぶん東アジアに共通するポップ感というのがあり、そこを射抜いてる。
伊斯担堡:ジェイらしい優しくてきれいな曲。こういう曲がどれだけでも書けるんだろうな、きっと。
印地安老斑鳩:緩やかなソウル・ファンク。グルーヴィ。サビよりAメロの方が雰囲気がある。アレンジもいい。
龍捲風:ジェイ印なイントロが美しい。印象的な三連符のサビ。上方に広がっていくスケール感。
反方向的鐘:ドラマの挿入歌かエンディングテーマっぽい曲。どんな印象だ、それは。
 僕的ベスト3を挙げれば「龍捲風」、「印地安老斑鳩」が当確、3点目は迷った末に「完美主義」という感じ。「娘子」もおもしろいと思う。「印地安老斑鳩」のグルーヴィなクロさはなかなかいい。題でいいのは断然「可愛女人」だなーってそれは視点がまつがってる。
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by mono_mono_14 | 2007-05-31 23:59 | 音/musica | Comments(4)

『新しい戦略 景観』

I paesaggi sarebbero potuti situare per le nuove storategie urbane anche in Giappone. Sono andato ad un seminario "Nuove strategie di paesaggio" all'Istito Italiano di Cultura. Ho potuto sapere che anche in Bel Paese ci sono dei paesaggi peggio e gli urbansti cercano le soluzioni che mi hanno confortato.

 仕事は押していたが、朝から晩までシンポジウムに出てみた。イタリア文化会館のアニェッリホールで開かれた『新しい戦略 景観』と題されたシンポジウムは、一部、期待はずれの部分を含みながらも、なかなかに刺激的なものだった。アルベルト・クレメンティ教授とモゼ・リッチ教授のプレゼンテーションが興味深かった。クレメンティ教授が編集したというビデオは売ってほしいほどの内容だった。彼らの講演や発言がイタリア語で理解できたら、もっとよかった。わりとゆっくりと話してくれていたけれど、僕のイタリア語能力でどうにかできるわけではなかった。

 観光客として駆け足を披露する限りではあまり気づかないことかも知れないが、イタリアにだって、日本と同じように、インターチェンジ周辺の乱雑で大味な景観もあるし、リゾート法に踏み荒らされた後に見捨てられた海岸や山麓もあるのだった。当たり前か。でも、そういうことが当たり前だとは思っていなかったし、そういうことは伝えられてこなかったのだ。
 いま、イタリアで大きな力が注がれていることのひとつに、身近などうってことのない景観に価値を見出し、その価値を高めていくことのようで、そのことを聞けただけでも、このシンポジウムに出た甲斐があった。そういうアプローチは日本にだって必要なはずだし、いま、僕が関わっているとある仕事にも、ほとんど直結していると言ってもいいほどの眼差しなのだった。脳のどこかがちょっぴり覚醒した感じがした。血管が詰まったんじゃないだろうな。
 この後、夕方6時半を回ってから会社に戻り、会社を出たのはそのほぼ12時間後ということになってしまったのだけれど、でも、よかった。

b0018597_1335265.jpg このシンポジウムは、事前の参加申込は必要なのだが、無料だった。にも関わらず、簡単なランチが振る舞われた。カポナータ、ラザーニャとラビオリ、パン(と言うかグリッシーニとケーキ)のワンプレート。飲み物つきで飲み放題。驚くべきことにと言うべきか、当然のことながらと言うべきか、その判断は迷うが、ワインも並んでいる。昼食時間に割り当てられているのは1時間半(長)。昼休みの始まりは13時半(遅)。いろんなところがイタリアなのだった。
 初めて入ったアニェッリホールは、そのシートがカッコよくて驚いた。本革張りだ。カッコはいいものの座り心地が悪そうな見た目だが、その予想を裏切る快適さで、また驚いた。その辺の映画館なんて到底敵わない。デザイン王国の底力を見せつけられた思いがした。いろんなところがイタリアなのだった。
 シンポジウムの時間割は、ふたを開けてみればめちゃくちゃで、45分の見積もりが20分程度で終わってしまうところもあれば、150分の見積もりの中に180分を超えるような企画が並べられていたりした。午後の部はいかにも消化不良に終わってしまった。いろんなところがイタリアなのだった。
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by mono_mono_14 | 2007-05-30 23:59 | 伊/italia | Comments(2)

ホタテとトマトとアスパラのパスタ

Ho provato gli spaghetti di capesante e asparagi.

 春にアスパラガス、夏にとうもろこし、秋にじゃがいもが届くというセットを夏から申し込んだ僕の手元に、本来はトップバッターであったはずのアスパラがアンカーとしてやってきた。1週間ほど前のことだ。とうもろこしやじゃがいもを相手にしたハートウォーミングでピースフルな僕の格闘ぶりを披露したように、アスパラを相手にした奮闘模様もお伝えしたかったのだが、いかんせん茹でるか焼くかして終わってしまう。アスパラを用いた教科書クッキングを披露してお茶を濁すこととしたい。

b0018597_16393545.jpg 手元の教科書にあるのは小柱とトマトと枝豆のスパゲッティだが、小柱をホタテに、枝豆をアスパラに換えてトライ。
 価格と品質が少しアッパーなスーパーMでホタテを探すも、閉店近い時間のゆえか数がない。なかなかの姿形をしたホタテだが4個しかない。これでは足りない。とりあえず買って、価格と品質が少しローワーなスーパーPへ。そこには、ずいぶんとみすぼらしい姿形のホタテ10個入りがあった。とても同じ貝とは思えない。ともあれ、とりあえず頭数は揃った。
 ニンニクと唐辛子のオイルをつくり、薄切りにしたホタテを投入。ホタテM(仮称)は3枚おろし、ホタテP(仮称)は2枚おろしにしてある。リチェッタ的にはホタテに塩をしておかなければならなかったのだが、忘れた。表面の色が変わったら取り出す。と言われても、入れた瞬間から色が変わってると言えば変わってるわけで。たぶん、プロ的に見れば火を入れすぎた、教科書クッキンガー的には十分イケてる感じにホタテが上がる。水揚げだ(誤)。これは、概ね、3つ口コンロの左前で行われた。
 一方、右前のコンロではパスタを茹でるお湯が沸かされるわけである。このお湯でトマトの湯むきを済ませる。ふっふーん。軽くプロっぽい流れにご満悦の教科書クッキンガー。調子に乗ってこのお湯でアスパラも茹でる。ふっふーん。あったまいいー。アスパラを引き上げる。お湯が緑色に染まっている。おお。このお湯でアスパラ茹でちゃだめじゃん。このお湯でパスタを茹でるべきか、それとも沸かし直すべきか。それが問題だ。ハムレットばりに苦悩する教科書クッキンガー。青臭いパスタになるかとは思ったものの、今さら沸かし直してらんないし、ということで、ほんの数秒の苦悩を経てこの湯で前進することが決定された。なお、一部から疑義も上がっているのだが、僕は几帳面さには定評のあるA型だ。AboutのAだと思われます。
 貝のエキスと白ワインのうま味を煮詰めたオイルに乱切りトマトと薄切りアスパラを放り込み、茹で上がったパスタも放り込む。水揚げされていた(違)ホタテも戻し、ちゃちゃっと和えて完成。ソースを煮詰める過程も少ししくじってる手応えがあったが気にしないことにする教科書クッキンガー39.9歳・A型。例によって自皿自賛で食す。しかし、もう少しうまく盛りつけられないのか。
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by mono_mono_14 | 2007-05-20 23:59 | 味/buono | Comments(4)

パンツァネッラとタリアータ

Ho provato la panzanella e la tagliata.

 教科書を見た瞬間からチャレンジしてみたかった2品に挑む。パンツァネッラとタリアータ。結論から言えば、相変わらず不格好で、微妙にしくじり、自皿自賛でもりっと食べた。結論から言ってはいけないね、いつもいつも一緒だから。

 パンツァネッラは知らない料理だったが、たぶんパンチラとは関係がない。たぶんじゃねえだろ。簡単に言えばパン入りサラダだ。
 パンを用意する。ちょうど食べ残して固くなっていく一方だったバゲットがあった。これを小さくちぎる。1〜2センチとリチェッタにはあるのだが、そんなサイズにちぎろうとしたら、粗いパン粉ができるばかりだったので、3〜4センチくらいの大きさで手を打った。この辺りに不格好の芽が潜んでいるのだ。塩胡椒をして手で混ぜる。赤ワインビネガーを回し入れて手で混ぜる。オリーブオイルを回し入れて手で混ぜる。僕の指をなめつつ1〜2杯はいけそうな仕上がりだ。
 野菜を用意する。リチェッタにある野菜でつくるのが美味いと書いてある。ある意味、自皿自賛の教科書クッキンガーにふさわしい自示自賛な教科書だ。トマト、キュウリ、タマネギ、バジリコ、ニンニク。これらを等価に「野菜」と言ってのける感覚がいまいち掴めない駆け出しの教科書クッキンガー。前の3つと後ろの2つは微妙に違う気がぬぐい去れない。ぬぐい去れなくても一向に差し障りはないわけだが。トマトは湯むきして種を取り乱切り。キュウリはいぼいぼをはつって乱切り(「はつる」は料理には使いませんか?)。タマネギは薄切り。バジリコはちぎる。ニンニクは叩いてみじん切り。塩胡椒をして手で混ぜる。赤ワインビネガーを回し入れて手で混ぜる。オリーブオイルを回し入れて手で混ぜる。僕の指をなめつつまた1〜2杯はいけそうな仕上がりだ。もうへべれけ(嘘)。
 パンを入れた器に野菜をどちゃっと放り込み、手で和える。僕の指を(略)。これで完成。とても簡単。

 タリアータはずいぶん前にお店で食べたことがある。そんな記憶が微かに残っている。ルッコラとパンツァネッラで余ったタマネギをお皿に盛ってスタンバイ。塩胡椒で下味をつけた肉を焼く。こんなものかな? チラッと覗き見る。でへへ。あ、鼻の下を伸ばす必要はなかったか。おもむろにひっくり返す。油がはねて熱いんですけど。そろそろ味つけに入っていいのだろうと思い、フライパンの余分な油を捨てて、赤ワインビネガーを注ぎ込む。一気に揮発する酢の成分が目に沁みるんですけど。強火で一気に行けとあるので一気に行っているが、どちらかと言えば火事に近い煙が立ちのぼる。肉を取り出す。バルサミコを大さじ3。オリーブオイルをその倍量。揚げ物でもするんかという鍋模様だ。そして小さなBOSCOの瓶は一気に軽くなった。ソースというよりは、熱いドレッシングをつくるつもりで、よく混ぜながら煮詰める。混ざらんっちゅうに。バルサミコとオイルは鮮やかな2色模様を描きっぱなしだ。煮詰まらんっちゅうに。鍋の液体は一向に減ることなく溜まりっぱなしだ。そうこうするうちに油が焦げている気配がする。どちらかと言えば火事に近い気配が立ちのぼる。撤収だ、撤収だ。鍋の中にはメタボリークもついひるむたっぷりのオイル。このちっぽけな肉にこのオイルを全部かけたらいかんだろうことは薄々察しがつく。経験っていいな。
 肉を薄切りにする。教科書の写真は鮮やかなミディアムレアだ。そんな切り口が現れ出ないだろうことは知ってはいたが、完膚無きまでに叩きのめされたように火の入った肉肌だ。ウェルダンどころではないが、ウェルダンというのはグッジョブと同義ですか? ビバ、ウェルダン! 鍋の底の方に沈むバルサミコ色を狙ってスプーンを射し入れ、肉にかける。バルサミコ色をすくい、肉にかける。鍋に残った油の量はどうなのよ。大さじ2でよかったんじゃないか。僕のなけなしのBOSCOを返せ。ま、いいんですけど。
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 あんまり寄ってはいけないね。このお肉は中華ですか?
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by mono_mono_14 | 2007-05-20 23:59 | 味/buono | Comments(0)

今宵のフットサル

Sarebbero stati gli ultimi giochi di calcio (calcetto) nei miei trentenni.

 ふぇー。いやはや堪えるのう。それどころかいつお陀仏してもおかしくないわい、ふぉっふぉっふぉ、げほげほげほ。ぜぇはぁぜぇはぁ。お迎えが来るんかのう。
わしも昔はもう少し軽やかに動いとったんじゃよ。まあ、たかが知れとる話じゃが、それでも、もう少し動きに「直線」とか「鋭角」というものがあったんじゃよ。いつの間にやら「鈍角」すら失せて、今は「円弧」や「波線」や「破線」や「点」しかのうなってしもうたよ。昭和は遠くになりにけりじゃ。ずずー。ペットボトルのお茶は味気ないのう。
 あの頃はサロン・フットボヲルと言ったんじゃよ、お若いの。今は、フットサルと言うそうじゃな。フットサルだけにフッと去るのが老兵の美学かのう、うひょひょひょひょ。何を黙っておるのじゃ、ほれ、お若いの、ビールにせんか、ビールに。ボールはだめでもビールならまだまだ行けるんじゃ。まあ、アッチはもう引退同然じゃがな、かーっかっかっ、ぺっ。お若いの、年はいくつかな? ・・・え、僕たち同級生だっけ?

 今宵のフットサルが僕の30代最後のプレー機会になるだろうと思う。サッカーと出会ったのが10歳だったりするので、かれこれ30年間が経っている。わお。あの晩秋の校庭から30年が経った初夏の晩に、浮き浮きとユニフォームに身を包んで生死の境を彷徨っているなんてこと、10歳の僕には想像もつかなかっただろう。教えてあげたいよ。嫌がるかもな。
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by mono_mono_14 | 2007-05-18 23:59 | 蹴/calcio | Comments(2)

『エレクトリックな頭脳、アコースティックな心』

Le tante varie di musica locale costruiscono un mondo. Quelle musiche sono diverse ed allo stesso tempo sono simili. Un lavoro di un brasiliano Silverio Pessoa ha un carattere simile ad un lavoro di un napoletano Daniele Sepe.

 シルベリオ・ペソーア(Silverio Pessoa)の『エレクトリックな頭脳、アコースティックな心(Cabeca Eletrica, Coracao Acustico)』をいくたびか聴いてみる。21世紀民謡。コーコとかフォホーとかフレーボとか、僕は初めてその名を聞くブラジルのトラディショナルな音楽が、表敬されつつ今日的に再解釈されて演奏されている。例えば、M02「Coco de Chegada」のたおやかで重層的なリズムと詩を吟じているようなボイス。M04「Sambada e Massape」、M05「Disposto a Tudo」はアコーディオンや多弦ギター、トライアングルなどの素朴な調べやお人好しなほどに伸びやかな歌声が印象的。M06「Na Boleia da Toyota (Cinema Nos Cafundo)」は、『セー』でカエターノが披露したようなロックチューン。うねるビートが疾走する。軽快なドラムロールからホーンが炸裂するM08「Sabore de Frevo」は、イヴェッチ・サンガロなどとも相通じるカルナバルの薫りだ。
 これはブラジルの音楽なのだけれど、例えば、南イタリアの土着音楽の再評価とか、バルセロナ・ミクスチャーとか、そういう音楽と共通するところがある。同じヴァイブを感じる。シルベリオ・ペソーアのこのアルバムと、例えばダニエレ・セーペの仕事なんかは、とても近しい。ペソーアのブラジル北東部へと送るまなざしとセーペの南イタリアへと注ぐ愛情は、とても近しい音楽世界を紡ぎ出している。地域の固有性を手がかりとする音楽が世界各地で展開され、それがどこかしら通底しているのは、なんだかおもしろいことだなあと思う。海、とか何かの鍵かも知れないな。などと思ったのは、アルバムのエンディング曲(M14)に、眩く輝く青海原とそこを渡り来る風を感じたからだ。もっとも、「Nas Terras da Gente(みんなの大地で)」という海っぽくないタイトルがついてるのだけれどね。
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by mono_mono_14 | 2007-05-18 13:51 | 音/musica | Comments(0)

GENNOSHIN『Oh! Bola!!』

Bello.

 これはかっこいい。そうとうかっこいい。最初は夏っぽい1枚かと思ったのだが、後半に行くに従い、夏っぽいニュアンスというわけでもなくなった。でも、そんなことはどうでもいいことだ。GENNOSHIN『Oh! Bola!!』。腰の重い僕らしく未見のフォンチのパーカッション、安井源之新の初めてのソロ・アルバム。
 アルバムの存在自体は、しばらく前に知っていたのだけれど、入手は「中南米音楽」とかを経由しないといけないのかなーという感じで二の足を踏んでいるうちに、何もかもが忘却の彼方へと送り込まれていった・・・。先日、特に目当てなく立ち寄ったタワレコに並んでいたのだった。どどーんと並んでいた。買うわけですよ。
 アルバムを通して、GENNOSHINのパーカッションが躍動する。メロウな曲でもシックに躍動する。グルーヴィだ。ビバ、パーカッション! んー、ライブ観たい。いい加減フォンチに行けっていう話だ。
 「あおあおみどりあお」のSaigenjiのパフォーマンスもいいし、それに続く「JABRA」がすごい。フルート(テコ・カルドーゾ)、ギター(フィロー・マシャード)、ベース(パウロ・パウレリ)も異常ならば、GENNOSHINが放つリズムのグルーヴもすさまじい。ボリューム上げたい。上げちゃうか。上げちゃおう。えい。わお。「Naima」がまたかっこいい。メロウなナンバーも沁みるが、前のめりの曲の方がグルーヴの威力は増す気がする。終盤の組曲(?)もいい。いやー、よいです。コレ、決して大ボラではありません。
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by mono_mono_14 | 2007-05-15 18:34 | 音/musica | Comments(0)

『ペルジーノ展』

Sono andato a vedere una mostra intitolata "Perugino: il divin pittore". E' stata molto interessante nonostante non sono quasi mai preparato per vedere quelle pitture.

「ペルジーノ展に行ってきたよ。おもしろかったよ。」
「ペルジーノ? おいしーの?」
「・・・何だか寒めだねぇ。食い物じゃないよ。画家さ。『甘美なる聖母の画家 ペルジーノ展』というんだ。」
「画家? がっかり。」
「・・・。」
「黙ることないじゃないか。こんなに食いついてるのに。どんな絵を描いてた人なのさ。」
「よし、教えてやろう、いいか、よく聴けよ。ペルジーノっていうのはな、えっと、ラファエロが・・・」
「何、ちらちら見てんのさ? 僕にも見せてよ。なになに、『ジュニア版ブックレット』? 子ども用の解説じゃないか。」
「いや、これがすごくよくできてるんだよ。まるで展覧会に行った気になるよ。」
「行ったんじゃないのかよ。」
「いや、行ったんだよ。行ったからジュニア版ブックレットが買えたんじゃないか!」
「キレないでください。」
「キリスト教や聖書を絵解きしたルネサンス期の宗教画だね。おもしろかったんだけど、もう少し基礎知識があるともっとおもしろいんじゃないかな。」
「なるほどね。でも、無知でも無知なりに楽しむことはできるだろ、無知なりに。」
「そう無知って強調するなよ。面映ゆいよ。」
「別にほめてないから。」
「でも、無知なりにと言うか無知ゆえにインパクトを受けたのが「ケルビム」ってやつでさ。」
「ケルビム? 聞いたことないなあ。」
「なんか鴨の羽みたいなのを蜘蛛の脚みたいに生やしてる頭しかない物体なんだよ。しかも、それが天使階級ではいちばん偉いって言うんだぜ。」
「キミの言ってることがさっぱり理解できないんだけど。」
「そういう時に、このジュニア版ブックレットを開くのさ。ほら、ここにいるよ。」
「これが天使なの? これは、あれだろ。トレインスポッティングでみんながラリッてる間に死んじゃった赤ちゃんの幻影。ほら、天井を這ってた。」
「すごいのになぞらえたね。でも、実は僕もそう思ったんだよ。」
「じゃあ、さしずめ、それを見上げてるこの坊主頭がユアン・マクレガーだな。」
「ユアン・マクレガーは出て来なくていいんだよ。それは聖フランチェスコさ。清貧を説いた人だね。」
「ああ、あの清貧パスタのフランチェスコか。じゃがいもで増量してチーズで味つけするパスタで、地味だけど、案外、美味しいよ。」
「つくってやったのは僕じゃないか。そうそう、ちょっとおもしろかったのがさ、板に油彩って「olio su tavola」っていうんだよ。料理用語みたいだろ。」
「ああ、確かに、何となく。テーブルにオリーブオイルか。あれ? いま、なんかヌルッとしたぞ?」
「あ、それ、僕がこぼしちゃいました。オリーブオイル。拭いたつもりだったんだけどな。」
「なんだよ、ちっとも料理用語じゃないじゃん。敢えて言えば、うっかり用語だよ。」
「おかしいな。おっと、こっちには醤油が。」
「あ、それは僕がこぼしました。」
「拭いとこうよ。もうオトナなんだから。」
「ジュニア版ブックレット買ってる人に言われたくない。」

付記。本エントリの形式は、『住宅都市整理公団』の麗しき「団地データ」群のぐっとくるダイアローグへのオマージュである。「ペルジーノ? おいしーの?」と「画家? がっかり。」を思いついてしまったばっかりに、この形式を採ることとした。もしかすると、「渋松対談」へのオマージュにもなっているかも知れない。住宅都市整理公団については、最近では、その総裁がタモリ倶楽部に出演したことなどが広く知られている。オマージュについては、最近では、W田Y彦画伯がAルベルト・Sギ画伯に対して表したことが広く知られている。
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by mono_mono_14 | 2007-05-13 23:59 | 芸/arte | Comments(0)

『藤森建築と路上観察』展

Mi sono visto una mostra architettonica. La stessa mostra e' stata esposta a Venezia in 2006. Che se ne sono visti gli italiani?

 オペラシティのアートギャラリーにて開催中の『藤森建築と路上観察』に出かける。壮大な夏休みの工作のような、あるいは屈託のない文化祭のような、脳天気──と言うのは、きっと、スコーンと抜けるような青空からピーカンの陽射しが降り注ぐような、脳が喜んじゃってシゴトどころじゃないお天気のことだ──なヴァイブが、オペラシティのアートギャラリーを満たしていた。夏休みのようなにおいがする。実際に、木や草のにおいに溢れている。と言うか、木や草がてんこ盛りだ。靴を脱ぎ、むっとする草いきれにむせそうになり、竹を編んだ秘密基地(ちっとも秘密になっていないが)で路上観察のビデオをまったりと鑑賞する。建築展なんですか、ほんとなんですか、ほんとですか、そうですか。ヴェネツィアへ持って行ったんですか、ほんとなんですか、ほんとですか、そうですか。路上観察とか、イタリアのコンテクストでも楽しんでもらえるんだろうか。
 キワモノかイロモノと思っていた藤森建築は、まあ、確かにキワモノ感やイロモノ感もないではないのだけれど、展示を観ているうちに、これはこれで真っ当な存在だなと感じたし、むしろ過度に手の痕跡が残るディテールは、好もしく見えさえした。実物を体験したい。どこがいいだろう。やはりラムネ温泉館か。ラムネ温泉館ってどこにあるんですか、大分ですか、そうですか。大分に行くなら違う温泉に入りたくなってしまうような気がするな。
 藤森の卒業設計が展示されていた。図面を丁寧に読んだわけではないけれど、今の藤森建築からは想像もできないような、どこかしらアーキグラムとメタボリズムが合流したような思いがけないメガストラクチャーの設計案だった。当時の藤森のアイドルは磯崎新だったそうだし、時代もそういう時代だったのだから、当たり前と言えば当たり前のことだけれど。1970年頃の卒業設計が「東京計画2107」だったらおかしいもんな。

 建築は、どうにかこうにかしてつくられなければならない。それは、コンピュータが複雑な形態を導くようになっても変わらないことで、そのことを伊東豊雄が同じオペラシティのアートギャラリーで催された展示で物語っていた。藤森建築は、ずいぶんとプリミティブなところへ立ち戻って組み立てられているが、それは、建築がどうあっても逃れられない大命題=どうにかこうにかしてフィジカルにつくられなければならない、という地点から改めて遙か彼方を見晴るかしてみたら見えてきた建築なのではないか。この視線や態度の先に、滅びつつある(?)日本の「手の技術」が再び興ってくることがあったら、それはどんなにか素敵なことだろうと思う。
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by mono_mono_14 | 2007-05-13 23:59 | 文/cultura | Comments(2)

藤森照信『人類と建築の歴史』

Ho letto un libro tascabile sulla storia di architettura scritto da Terunobu Fujimori chi ha fatto la mostra nipponica nella decima Biennale di Venezia. Un mezzo di questo libro mi e' parso un ghiribizzo e l'altro mezzo mi e' sembrato un gran sogno. Cioe' e' bello, forse.

 いくらか思うところがあり、藤森照信『人類と建築の歴史』など読んだ。いまさらながら。2年も前の本。ちくまプリマー新書というシリーズで、たぶん、子ども(幅の広すぎる定義だが)にも読めて理解できることを念頭に編まれているのだと思う。
 いちおう建築史の本だが、建築史的な知識を学べるわけではない。と言うか、いわゆる建築史的な知識はほとんど学べない。ヨーロッパの旅行ガイドブックの方が遙かに建築史的知識に溢れているだろう。では、そんな本をなぜ読んでいるのかと言えば、いくらか思うところがあるからで、それは伏せる必要もないので明かしてしまえば、日曜に著者の藤森照信の展示を観に行く予定だからだ。実は、より主たる理由があるのだが、そちらはいささか照れるので伏せておく。

 この本のすごいところは、その構成にある。我々の祖先がマンモスなどを食していた頃(旧石器時代)から現在までの建築の歴史を6章立てで説いているのだが、第1章から第4章までかけてもまだ青銅器時代にしか到達していない。そして、続く第5章で青銅器時代から産業革命までを一気に語ってしまうのだ。そして第6章で20世紀をさらって終わる。
 この本で示されているのは、まさにタイトルの通りに、人類が建築に何を託してきたか、人類の歩みが建築にどう表されてきたかということだ。学術的な確かさはさておいたファンタジーでもってそれを熱く語っているのだ。半ばははったりで、半ばは夢なのだ。そういう本だと思って読む方がいい。そういうふうに読んだ方がおもしろく読めるし、それでいて、どこかしら核心を突かれたような読後感が得られる。
 ね、こうだったらおもしろいと思わない!? いやぁ、こういうことがやりたいんだよねぇ。といった類のことを、ややもすると周りをうんざりとさせたりしながらも、ワクワク語るような成分(人間なので性分と書いてもいいが)に欠ける僕は、この本から溢れ出で続けるそんな成分=性分を煎じ薬にして飲み干したいような気分がした。
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by mono_mono_14 | 2007-05-12 13:54 | 本/libro | Comments(0)