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川本三郎『言葉のなかに風景が立ち上がる』

 川本三郎『言葉のなかに風景が立ち上がる』を読み終える。日本現代文学における風景に思いを馳せる本。こういう本が出しやすくなってるんだろうなあと思う。以前に読んだ『壊れゆく景観』は、和歌などに詠まれた由緒ある景勝地の悲惨な現状を題材にしたものだったが、その本を読んだ時も、よく、こういう本が出版にまでこぎ着けられるなあ、と思ったものだった。それだけ、いま、「景観」だの「風景」だのという言葉が社会的な訴求力があるものになっているんだろうと思う。僕の職域だの関心領域だのからすれば、それは決して悪いことではない。もっとも、それは、状況が悪化していることの現れでしかないかも知れないのだけれど。

 『言葉のなかに風景が立ち上がる』は、「芸術新潮」への連載をまとめたもので、簡単な前置きに引き続いて22本の文学作品を通じた風景論が並んでいる。以下、列記してみよう。
野呂邦暢『鳥たちの河口』(1973)[×]
角田光代『空中庭園』(2002)[△]
井川博年『そして、船は行く』(2001)[×]
重松清『定年ゴジラ』(1998)[△]
堀江敏幸『雪沼とその周辺』(2003)[○]
佐藤泰志『海炭市叙景』(1991)[×]
水村美苗『本格小説』(2002)[○]
後藤明生『四十歳のオブローモフ』『挟み撃ち』(1973)[×]
長嶋有『猛スピードで母は』(2002)[△]
江國香織『神様のボート』(1999)[△]
吉田修一『ランドマーク』(2004)[△]
古山高麗雄『湯タンポにビールを入れて』(1971)[×]
佐伯一麦『鉄塔家族』(2004)[×]
宮沢章夫『不在』(2005)[×]
松本健一『エンジェル・ヘアー』(1989)[×]
車谷長吉『赤目四十八瀧心中未遂』(1998)[×]
いしいしんじ『麦ふみクーツェ』(2002)[×]
柳美里『ゴールドラッシュ』(1998)[△]
丸山健二『いつか海の底に』(1998)[×]
多和田葉子『容疑者の夜行列車』(2002)[○]
日野啓三『ユーラシアの風景 世界の記憶を辿る』(2002)[△]
清岡卓行『太陽に酔う』(2002)[×]
 上記リストは、著者『作品名』(発行年)[僕の場合]となっている。僕の場合というのは、4種類の記号(×:名前も知らない、△:名前くらいは知ってるけど読んだことはない、○:別の作品を読んだことがある、◎:この本を読んだ)で、その本についての僕の場合を示している。◎が多いほど偉いというわけでもなんでもないのだが、とは言え、◎どころか○すら少ないことはどうにも恥ずかしい。最近の人気作家がこれだけ並んでいるのだから、3人というのはあまりに低くないか。なお、弁解がましく書き添えれば、『定年ゴジラ』を読み終えたので、今は[◎]だ。
 それぞれが手頃な長さなので読みやすい。作品に対する川本の思い入れには、どうもブレがあるようで、入魂の1編もあれば、あとがきで書いた読書感想文を思い出させるようなものもある。
 ときおり版画が添えられているのだが、この版画がほんわかと素朴で素晴らしい。本ではモノクロ印刷だけれど、オリジナルはカラーだ(と思う)。ポストカードにしてくれたらいいのに。

 僕は、こういうふうに風景に着目しながら文学作品を読み進めた経験はあまりないけれど、なんとなく風景が押し迫ってくるなあということを感じながら読んでいることはある。ここで紹介したものでは、例えば、ヴァージニア・ウルフの『灯台へ』とか。あるいは、少し記憶が薄れかけているけれど、エミール・ゾラの『居酒屋』とか。風景というよりも都市生活とか都市文化を感じたのはアーネスト・ヘミングウェイの『日はまた昇る』とか。なぜ、外国文学ばかりなのか。それは、音楽同様、日本のものにほとんど手を出さずに馬齢を重ねてしまったからなのであって、これって、けっこう恥ずかしい。
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by mono_mono_14 | 2007-03-22 20:33 | 本/libro | Comments(2)

純粋なクラシック

 純粋なクラシックの演奏会に足を運んでみた。純粋な、という意味は、オペラとかでなく、という意味で、壇上にオーケストラがいて、ピアノ協奏曲とか交響曲とかを演る、というスタイルのコンサートは、たぶん初めてなのであった。
 東京オペラシティのコンサートホール(タケミツメモリアル)で開かれたこの演奏会は日本フィルの定期演奏会というヤツで、なにゆえこんな機会を持ったかというと、招待券が回ってきたので、という、受け身というか他力本願というか姑息っぽいというか、そんな理由だ。でも、空席にしているよりはいいんじゃないかと思う。演奏家にとっても、招待券を配った人にとっても。たとえ、その席に座っている人が舟のこぎ手だったとしても。

 プログラムは、シェーンベルク「ピアノ協奏曲」、バルトーク「バレエ組曲《中国の不思議な役人》」、モーツァルト「交響曲第41番《ジュピター》」。正直に告白しよう。3曲のうち、曲がりなりにも聴いたことがあるのは3曲目だけであり、2曲目は作曲家の名前は聞いたことがあるという程度(確か磯崎新がバルトークのことを書いていたのを読んだんじゃなかったか(超うろ覚え))、1曲目については作曲家の名前すら知らない。招待券で席を埋めたのは、こんなオーディエンスだったのだよ、各方面に謝罪。すまん。
 初めて聴くシェーンベルクは、漠然とした予想に反してちょっと前衛的というか実験的な音楽だった。昔の映画か現代舞踊につけられる音楽のようでもあり、建築の展示とかでもかかってたりしそうな、まあ、そういう音楽だった。それ以上、訊くな。意表を突かれたこともあり、そこそこおもしろく聴いた。
 同じく初めて聴くバルトークは、実は少し期待していたというか、興味を持っていたのだが、えっとですね、舟をこいだ模様。あまり記憶に残っていないのだ。事前の予想では、こちらの方が前衛気味かと思っていたのだけれど、1曲目の方がトンガッていたような気がする。
 3曲目。CDで少しくらい聴いたことのある曲。ではあったのだが、まあ、初めて聴いたようなものだったな、うん。弦楽器の響きが1曲目とまったく違ったことに驚く。あの音色も演奏だったことを知る。ホール特性みたいなものかと思っていた。すまん。楽章間でほんの一息のブレイクがあるのだが、そこが妙に間抜けだと思った。風邪の残る季節ということもあり、客席からはここぞとばかりに咳払いが炸裂するし、壇上のオーケストラも気の抜けた所在なさをぽそんと吐き出すし、何だか、えええ? という感じの違和感を覚えてしまった。まあ、きっとそういうものなのだろうけれど。曲の持つドラマティックな起伏みたいなものは心地よかった。
 終演を迎え、2階のバルコニー席からはブラボーの(ような)声がかかる。正直に言って、ほんとうにブラボーだったかどうかは判断がつかなかった(もっとも、この感想が、やっぱりほんとうの超一級だったわけではない、ということの証明のような気はする。やっぱりほんとうの超一級って、受け手側の準備によらず、きちんと届いてしまうものだと、僕は思っているからだ。なんてことを素人に言われたくはないだろう。失礼極まりなく、各方面に謝罪。すまん)。初めての純粋なクラシック、おもしろかったことはおもしろかったが、いかんせん経験不足は否めない。リベンジを期したい。ゆえ、また招待券を回してください。誰に向かって言っているのか。

 ほんとうは、招待券はもう1枚あったので、思い切って誰かを誘ってみようかと思ったりもしたのだが(その時に僕の脳裏に浮かんだのは、なかなかにチャレンジングなチョイスであったりもした)、終演後、すぐに帰路に就かないといけない状況だったこともあり、同行者を見つけることを断念し、ひっそりひとりで出かけてみた次第。
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by mono_mono_14 | 2007-03-16 23:59 | 音/musica | Comments(0)

定年ゴジラさん

 どうやら僕は涙もろくなっている。ああ、歳を取ったのだ。そうでなければ花粉症になったのだ。ちなみにくしゃみは出るし、目は痒い。これは、やはり歳を取ったのだな、うん。花粉症なんかじゃないやい。

 わりと最近に出た本(奥付には2006年12月30日発行とある)を読んでいて登場した、あ、この本は読んでみようと思ったわりと古い本(単行本の初版は1998年3月に出たと文庫本の末尾には記されている)を読んでいる。重松清『定年ゴジラ』。1963年生まれの著者が父親世代の定年後のセカンドライフを描いた連載的短編集だ。
 これはある種の計画的住宅地開発批評(必ずしも批判ではないし非難ではましてない)として読めそうだと思ったのが手にした理由だった。僕自身は住宅地開発に直接的に関わったことはないけれど、それは僕が身を置いている業界の仕事であることは確かなのだ。そして、確かに都市計画の観点からこの本を読むことは、フィクションの世界とは言え、可能なことではあった。でも、どう考えてもこの本は、父親とその傍らに常にいた母親とに捧げる物語だと思う。

 僕の父はすでに何年か前に定年を迎えている。まだ、週に1日だか2日だかはどこかに出勤しているようだが、のんびりライフだ。定年までは、その世代の働くオトーサンの例に漏れない毎日を送っていた。『定年ゴジラ』の山崎さんのようだったのだろう。東京まで2時間とは言わないが1時間半はゆうにかかる分譲住宅地の片隅に小さな小さなマイホームを構え、歯を食いしばってローンを返した。長い1日を終えて遅い電車で帰ってくる。寝ぼけ眼の母が温めたご飯を食べつつ、キリンビールの栓を抜く。ニュースでもやっていればテレビをつけ、夕刊に目を通す。ほんの何時間かが経てばまた朝が来て、父は朝刊を片手にトイレを占拠し、鳩が豆食ってパ(のオリジナル版)を唱えて家を出る。そして帰ってくるのは、また出かけることになる朝のほんの何時間か前なのだ。照る日も降る日も。暑かろうと寒かろうと。父が帰ってくると2階へと引っ込んでいく息子たち(そのうちの1人が僕だ)を気にするふうでもなく。
 ・・・と当時のばか息子その1は思っていたのだ。ほんとにばかやろうだ。僕が喘息の発作をこじらせたり、弟が不登校になったり、そんな時、父はどんな思いで我が家での何時間かを過ごしていたのか。ハードワークの日々をこなしていたのか。そんなことに今ごろやっと気づいたのか、このばかやろうめ。『定年ゴジラ』を読みつつ、こんなことにも思いを馳せながら、会社だろうと電車の中だろうと、つい目が真っ赤になってしまったりするのは、これは、やっぱり花粉症になってしまったということなのかも知れない。ちっ。
 僕が不惑を迎える同じ日に父は古稀を迎える。
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by mono_mono_14 | 2007-03-15 19:49 | 本/libro | Comments(4)

アレハンドロ・サンスを聴いてみる。

 アレハンドロ・サンスというスペインを(あるいはスペイン語を)代表するらしいポップ・アーティストを聴いている。僕がこのアーティストにたどり着くに到ったささやかな奇跡とも言えるしあわせな経緯は、とてもひとことでは言えるようなシンプルなことなのだけれど、でも言わずに心の底の方にしまっておきたいようなことでもあるがゆえ、ここでは触れない。

 僕はアレハンドロ・サンスについての予備知識はほとんどないわけで、少しネット検索をしてみるに、フラメンコにルーツを持つアーティストのようだけれど、音を聴く限りではアダルト・コンテンポラリーなソウル・ポップだ。たまたま母国語が英語であった人たちにはつくり得ないポップス。いや、そんなことはないか。アダルト・コンテンポラリーなソウル・ポップだもんな。でも、ユニークに響く部分が確かにある。だとすれば、この演奏にそんなオリジナリティを与えているのは、少し枯れたしかし厚く艶やかな声と、スペイン語そのものの響きだと思う。少し翳りのあるロマンティックな旋律に情熱的な声を乗せていく。
 どこかで聴いたことのあるようなニュアンスがあって(そこがコンテンポラリーな感じなわけだけれど)、しかし、それが誰だったか、ちっとも思い出せない(というか思い浮かばない)。ユニヴァーサルだけどユニークだということの証か。でなければ健忘症な。ともあれ、近しい世界観の表現者がMPBにけっこういそうな気がする。

 僕は、あるアルバムを聴いているわけではなく、板さんのおまかせ握り1.5人前みたいな、CDから溢れんばかりに盛り込まれた15曲を聴いている。印象の強かった曲をいくつか記してみよう。
■Corazon Partio:上質なラテン・ポップ。炸裂するフラメンコテイスト、サルサっぽいピアノのフレージング、彩りを添える女声コーラス。ラテン・ポップのボキャブラリが満載だ。なぜかイタリアも感じたりした。
■Quisiere Ser:スケールの大きなサビの豊かな世界観がたまらない。そこに到る道のりは朴訥とした朗読のような趣で(過言)、そのギャップがとてつもなく心地よいわけで。アレンジが割とシンプルなのもよい。
■El Alma al Aire:ほのかな哀愁を湛えたドラマティックなメロもさることながら、歌詞の流れが素晴らしく印象的(意味ではなく音としての歌詞な)。スペイン語の魅力(あくまでも音としてのな)が炸裂だ。エンディング、ホーン・アンサンブルとの掛け合いで繰り返されるサビメロの陶酔感。
■12 por 8:アフリカというかブラジルというか(敢えて選べばアフリカ)、そんな空気感を感じるパフォーマンス。他の楽曲と較べるとやや異色だが、僕は好きだな。
■Regalame La Silla Donde Te Espere:ポジティブなヴァイブに満ちたロマンティックで力強いサビメロが美しい。ペンライトを振りかざしつつ涙しよう。するな。ほとばしる清流のようなフラメンコ・ギターも好感。

 何て言うか、ロマンティックなサビメロが簡単につくれてしまう人なのかも知れない(自分で書いているんだと思う)。ほとんどの曲で、全体としてはやや凡庸に聞こえたとしてもサビメロだけは印象的なつくりになっているから。「Llega, Llego Soledad」とか「Me Ire」とか。僕の好みの問題でしかないわけだけど、あんまりオシャレにまとめすぎない方が魅力的に仕上がると思う。あと、おまけ的に書き足すと、ふとクイーンを思い出すことがちらほらとあった。確かに、ベタなほどにドラマティカルというかシアトリカルというか、そういうアレンジだと言えなくもないな。そのことが悪いということではなく、むしろベタな感じを大事にして、ヘンに気取らない感じで行ってほしい。大きなお世話か。

 ネットでディスコグラフィをちらちら見るに、MTVアンプラグドが出てる。アレンジよりもメロディと声そのものに魅力のあるアーティストなので、アンプラグドはアタリなんじゃないか。と、僕の浅薄な経験が言っているが、さてどうだろう。とりあえずCDショップを覗いてみることにする。
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by mono_mono_14 | 2007-03-01 18:45 | 音/musica | Comments(3)