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九龍酸辣麺@九龍飯店

 地下鉄の階段をのぼり市ヶ谷駅前の交差点に出た。桜の木が満開だ。信号を渡りひとつ角を折れると、駅前のささやかな喧噪はもはや感じられない。この道をまっすぐ行くと、四ッ谷駅へと続く心地よい散策路がある。きっと今は桜が美しく咲いているはずで、その代償とでも言うのか、お花見対応の臨時ゴミ捨て場や仮設トイレ、張り巡らされたロープ、場所取りのビニールシートなんかも否応なく目に入ることだろう。しかし、今日はそこへを歩みを運ぶわけではなく、角を曲がってすぐの小さなビルに入っている小さな中華料理屋でお昼ご飯を食べるだけなのであった。
 ずいぶんと老舗らしい「九龍飯店」というそのお店に着いたのは12時半を少し回った頃。まさにランチタイム真っ盛りで、それはそれは繁盛していた。お世辞にもオシャレだとかキレイだとかいう形容が難しいそのお店は、同じくそのような形容を特に必要としない客たちの昼食へかける意気込みに満ち溢れている。デイタイムのハイライトがランチというのは、豊かなことのような、寂しいことのような...。僕はまだそういうことは考えなくてもいいコドモだということにしよう。うん、そうしよう。
 ここに連れてきてくれた会社の人ともども店名を冠した「九龍酸辣麺」をオーダー。辺りを見ていると、それを頼む人も多いが、定食の人もいるし、炒飯も美味しそうではある。店内は座席数に対して95%程度の入りを保っている。出る人があれば入ってくる人が必ずある。その繁盛ぶりのおかげか、中華そば1杯を画期的なほど待つことになった。
 たぶん30分ほど待ったと思う。ようやく運ばれてきた器は、溢れんばかりに盛られており、と言うか、事実、溢れたりするのだろう、ソーサー付のどんぶりだ。溶き卵と細切りタケノコ、豚肉が薄飴色の餡に包まれている。レンゲを差し入れるとふわーっと酢の香りが立ちのぼる。スープを一口すすり、くるくるーっとラー油を回し入れた。コドモながらにラー油大好き人間の僕なのであった。酢がとてもいい味わいを醸し出していて、ほぼ二徹明けのコンディションでもするする食べられる。どうやら酸辣麺の方もそれに応えようとしているらしい。食べても食べても麺が湧いてくるタイプの一品だった。具もたっぷりとあるのだけれど、主張は控えめで、スープのうま味とトータルの食感を味わうような料理だと思う。激しく旨いというタイプではないけれど美味しかった。それに、何て言うのか、オトナのお昼ご飯を堪能した感じがした。コドモだもの、そういう背伸びな感じには憧れる。言うまでもなく実際は背伸びでも何でもなく、何の違和感もない客として空気のように溶け込んでいたに違いないのだけれど。少し気になるメニューもあるからまた来てみよう。もう少し待たなくて済むといいんだけど。ランチは2時までっぽかったので、1時半過ぎを狙ってみるか。
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by mono_mono_14 | 2006-03-29 23:59 | 味/buono | Comments(0)

Lovely lovely

b0018597_221385.jpg 湘南ボーイ(詐称)にとって、中央線はあまり馴染みのない路線で、四ッ谷で働くようになってからも新宿より先の中央線各駅にはさほど縁がない(もちろん同僚には住民もたくさんいるのだけれど)。中野にもあまり足を運ぶことはなかった。目的的に中野に来たのは、今日が初めてと言ってもいいのではないか(誇張)。

 ポール・ウェラー日本公演初日。中野サンプラザ。完売。

 「チケットください」。たどたどしい日本語を書きつけたボール紙を手に佇むイギリス人(推定)の脇を寝不足の軽やかなステップで通り過ぎる。大きな吹き抜けの階段ホールを上がり、あまりにも狭いホワイエでサンドウィッチをつまみ、前寄り3分の1くらいの左側の席で開演を待つ。定刻を10分ほど過ぎて客電が落ちた。今日は椅子があるからよかったなと思う間もなく、ウェラー御大ご一行さまがご登壇の瞬間からやはりスタンディング。椅子、意味なし。

〜忘我の2時間強〜

 2度目のアンコールをせがむ拍手を優しくいさめるかのように客電が点いた。
 4人編成の小さなバンドで、ステージの端の方が余ってしまうほどの飾り気のないセッティング。しかし、解き放たれるグルーヴ感はすごかった。アルバムもいいけれど、ポール・ウェラーは根っからのライブの人だと思う。2台のギターとベース、ドラムス。時折ウェラーがギターをキーボードに換える。こんなシンプルな構成で、ものすごいグルーヴ感を引っ張り出してくる。ホーンセクションがなくても艶やかで、ストリングスがなくても荘厳だった。そして、芯のところは揺るぎのないロックだ。衰えること知らずの入魂のロック。
 ウェラーは終始リラックスして楽しそうだった。よかった。日本の客はおとなしすぎるのが気に入らないという逸話は、ファンには広く知られており、誰もがさながら強迫観念のように自分なりの精一杯の盛り上がり感を披露しようと努めている。のだと思う。少なくとも僕はそうだ。でも、僕にできることは、あんまりない。シング・アロングやシャウト・アウトは無理なので、せいぜいノリながら、それもかなり控えめにノリながら聴き入り、曲のたびに猛烈な拍手を送るくらいのことなのだ。しかも、あろうことか前倒しの四十肩野郎には腕を高く掲げたクラッピングすら難儀になっていたのであった。猛省。
 半分も聴き取れていないMCによれば、26年前、初めて日本に来た時の会場が中野サンプラザだったそう。そんなセンチメントもあってか、フレンドリーなリラックス感に満ちたライブになったんじゃないか。客席の僕らを「Lovely lovely audience」と呼んで感謝の意を表した。31日は泣く泣く見送り。東京最終日には少なくとも「Malice」の歌詞をおさらいして臨みたい。

※セットリストはブログ等で各自お求めください。
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by mono_mono_14 | 2006-03-29 23:59 | 音/musica | Comments(0)

三森ゆりか『外国語を身につけるための日本語レッスン』

Grazie a tutti nel mondo dell'internet che mi stimolano ne sono molto contento. Il giapponese e' diverso molto dalle altre lingue come l'inglese, francese, italiano, tedesco ecc, e sia importante di conoscerlo per usare quelle lingue.

 努力の足りない他力本願な現実逃避型ロマンティストな僕に(とか自分で言うな)、玉石混淆の果てしないインターネット銀河の中から奇跡的に届いた一条の光(って大げさな)。「ネット経由で僕のアンテナに引っかかったインフォにまんまと乗ってみよう企画」の第二弾。Vai!

 世の人がどれくらい「議事録」というものを書くのか、正直、見当もつかないのだけれど、会議を重ねてモノゴトを進めていくタイプのシゴトに関わっていれば、大なり小なり会議の記録を取ったことはあるんだろうと思う。僕がつくる議事録には、大まかに2種類ある。1つは決まったことをノートしておく簡潔なタイプで、シンプルで間違いがないことが生命線。もう1つは、雑誌なんかでもよく見かける座談会の記録みたいなタイプで、こちらは誰がどんなことをしゃべったかを触発的な余韻も含めてうまく再現することが大事。僕は、自分で言うのも間抜けだけれど、後者のタイプの議事録がちょっぴり上手い方だと思う(ただし時間がかかる(=致命的))。ポイントは、会話の場ではコンテクストに依拠して了解できた内容を、文章で読んだ時に意味が通るように、語られなかったコンテクストを文章に表すことと、発言者がほんの少しだけ賢者に見えるように調整してあげること・・・なんていう、僕のシゴト上のコンテクストでしか役立たないtipsはどうでもよく、何でこういう話をしたかと言うと、三森ゆりかさんの『外国語を身につけるための日本語レッスン』という本で、「「あれ」の中身を確認する」という項があって、僕が会議の録音を文章に起こす時に頻繁にやっている作業が取り上げられていたからだ。
 このセクションでは、例えば「でも、今みたいな話だとアレだから、むしろ逆側から攻めて行った方がアレなんじゃないですかね」などという大先生のありがたい発言を、曲がりなりにも読んで意味の通る文章に直すという僕の作業が、当然の必要として語られていて、同時に、そういう「アレ」を使わずに話せるようになること、そういう話の組み立て方、話術、言語技術を学ぶ必要がある、という話が説かれている。このセクションに限らず、この本は、そういう言語技術の必要性と、そのためのトレーニング法の一端で構成されている。
 恥ずかしながら、この本で、欧米では言語技術というのを習っているということを初めて知った。言われてみれば、イタリア語講座でもこの本に書かれているようなレッスンがあったなーと思い当たる。質問が来たらハイかイイエで答えた上で理由を言わされる、とか。かなりの部分は、彼らが習ってきた方法で教えてるだけなんだな。そして、きっと彼らは、僕らがそのような方法で国語を習っていないなんて、夢にも思わないんだろう。
 しかし、国語の時間では何を習っていたんだろう。「く・から・く・かり・し・き・かる・けれ・かれ」とか? これは古文だけど。しかもこれが何だったかもう思い出せないし。教科書で知って心に残った作品はほとんどないし、図書館に別の作品を探しに行くこともなかったし。ほんとに何をやっていたのだろう。今度、学校の先生をやっている友だちに会う時に訊いてみよう(そのまま酔っぱらって忘れる公算が大きいけれど)。

 ふと思うに、この本は、ビジネス書として売った方がいいんじゃないか。何となく、「外国語を身につけるため」よりも、「すんなり通る企画書を書くため」とか「世界のビジネスで勝つため」とかの方が一般的には訴求力がありそうな気がする。ここまでの必然性に迫られて外国語を学ぶ人よりも、シゴトの場面で論理立てて物事を説明しなければいけない人の方が多いんじゃないか。とは言え、この本の内容は、コトバに興味がない人にはあまり響かないかも知れず、すると、やはり「ビジネス書」ではなく「語学書」となるのかも知れない。ビジネス書だったら僕は手にしてない気もするし。んー微妙(ソノ「ビミョウ」ハドウイウイミデスカ? ・・・察してください!)。

 著者は、日本語(およびそれを用いる文化)があまり“論理的”ないし“構造的”でないことが、諸外国語(およびそれを用いる文化)と比べて劣っているということでは決してない、と注意深く繰り返し断っているけれど、劣っているように読めてしまうところがあるのが、小さな難点と言えば難点。まあ、本の性格と紙幅の都合からやむを得ないところだと思う。本当の難点は、Amazonならともかく書店で見つけにくいこと。僕は「英語学習法」の棚で見つけた。文脈と当事者に多くを依存する構造の日本語に胸を張りつつ、卑屈にならずに読まれたし。得るところあると思います、コトバかブンカかコミュニケーションに興味があれば。
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by mono_mono_14 | 2006-03-26 23:59 | 本/libro | Comments(2)

串揚げ『ひら乃』

 おフランスの底力をひけらかすかのようなステキ気味の日仏学院のブラスリーでアフリカン・ポップな夕べを過ごすか? などというオサレな目論見は、「ひら乃、行こうぜ」という友人の一声で雲散霧消、どこかへ消えてしまったのだった。『ひら乃』は鎌倉の焼き鳥屋。
 はやる心で店へ向かうも、焼き鳥を食べるためだけに23区から夕方6時の鎌倉まで繰り出してきた酔狂な我々の眼前で、「都合により臨時休業」の文字がアフリカンなビートで踊っているのであった。いやアフリカは関係ないけど。
 途方に暮れそうになりつつも、目と鼻の先にある串揚げ屋に変更する。焼き鳥屋と同じところがやっている串揚げ『ひら乃』。存在はずいぶん前から知ってはいたものの、あそこまで足を運べば必ず焼き鳥屋に入ってしまうので(焼き鳥から串揚げのハシゴは困難だ)、今日まで未踏の地になっていた。試すなら今日しかないだろう。
 焼き鳥屋よりはこざっぱりしているけれど、定員は焼き鳥屋より少ないくらいのこぢんまりさ。串揚げは1本110円から300円くらい。串揚げ屋というものにほとんど行ったことがないので、相場がさっぱりわからないのだけれど、たぶん、高いということはないんじゃないか(ただし東京基準。大阪にはとても敵わなさそう)。
 カニのキス巻きとか、青唐辛子の豚バラ巻きとか、串揚げ屋ならではのメニューを堪能しつつ、焼酎を飲み過ぎる(当社比)。名実ともに酔狂と化している。6時過ぎから9時前まで、およそ2時間半、本格的に腰を据えつつ、周辺の客の倍以上の客単価を誇示して店を出た。
 美味ではあるけれど、意外な盲点だが、揚げ物ばかりだった。ってこれは明らかに盲点じゃないな。でも焼き物ばかりの焼き鳥屋より揚げ物ばかりの串揚げ屋の方が心なしかシンドイ。たぶん、僕は、調理法として、焼く方が揚げるよりも好きなんだと思う。ううう、焼き鳥、食べたい。
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by mono_mono_14 | 2006-03-25 23:59 | 味/buono | Comments(0)

乍憚歌舞伎見物

 はばかりながら歌舞伎など見物する夕べ。招待券をもらった(という人からもらった)ので。半蔵門にある国立劇場にて、演目は『當世流小栗判官』。小栗判官。名前こそ聞いたことがあるものの、どういう人がさっぱり知らない。でも、確か神楽坂の居酒屋紹介の文中に登場したのをうっすらと覚えているので、神楽坂と縁薄からぬ人なんじゃないか。そのうち浅く調べるかも知れない。

 結論から言えば、最初の一歩としてはという話だけれど、歌舞伎は難解でもなければ、高尚でもなければ、取っつきにくくもないのであった。と言うか「お江戸でござる」と紙一重だ。書き割りは気持ちいいまでに書き割りだ。例えば、新感線の舞台セットは建築家肌なまでに構築的な空間を浮かび上がらせるけれど、歌舞伎の舞台は構築的な空間は最小限で、胸を張った書き割りが居並んでおり、壮観だった。

 この演目は、とても長いものらしく、昼間に前半をやり、夜に後半をやる。僕が観たのは後半だけだ。後半のキックオフに先立って、前半のハイライトをウィークエンダー(lo conosci?)顔負けに再現してくれる。ハイライト過ぎてストーリーはイマイチわからないのだが。前半の最大の見せ場(馬の曲乗りのワイヤーアクション)は、なんと大判の写真で見せてくれるという、ありがたいんだか、バカにされてるんだか、極めて微妙なハイライトであった。
 後半の試合展開は、あれやこれや盛りだくさんのドタバタ劇。特にあらすじを追うことはしないけれど、印象的だったのは女形の所作振る舞いと声の芯のある弱さ(なんだそれ)。特にヒロインの照手姫を務めた市川笑也は素晴らしかった。残酷な失恋を味わい非業の死を遂げたお駒を務めた市川春猿もよかった。

 思うに、歌舞伎小屋は、映画『ニュー・シネマ・パラダイス』のあの映画館、トトとアルフレッドのあの映画館みたいな場所なんじゃないか。ああいう感じがとても似合うと思う。もちろん、国立劇場の座席に収まった僕たちは、みんなお行儀よく観ているわけだけど、何となくくつろいだわくわく感が似合う場所だな、と思ったのだ。コテコテのベタベタ。だけど、長い時間を積み重ねた領域だけが放つオーラも感じられる。知識としては何も知らないのだけれど、いかにも歌舞伎! な例えば、足の運び、見得、発声、音楽、衣裳などなど、これらのディテールも興味深かった。また行きたい。この週末、WOWOWではパルコ歌舞伎『決闘! 高田馬場』を生中継のはず。こちらも楽しみ。
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by mono_mono_14 | 2006-03-23 23:59 | 芸/arte | Comments(0)

小枝ビター

 アロラまあ例えば徹夜で資料を準備する羽目に陥って本人的にもいささか不本意な部分をはらみつつもどうにかこうにか体裁を整えて臨んだ会議で軽く鼻白まれ気味な評価を食らったりした日には正直なところ凹むと言うかキブン悪いと言うか簡単に言えば悔しく苦いビターな後味がいつまでもいつまでも残って困るのだけれどそんな悔しく苦い後味のまま次の徹夜へと歩みを進めなきゃいけない風変わりなヲジサンがふとした合間に書いてみたこんなエントリなんて読み手にとってはスプーン1杯ほども得るものはないのだからうっかりこれに目を留めてしまった不運な皆さまには心の底からごめんなさいねスクザテミ。

 しかし小枝のビターはビターなポッキーみたいで小枝のよさが影をひそめてたな。普通の小枝が偉いと思う。
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by mono_mono_14 | 2006-03-23 23:59 | 雑/quotidiana | Comments(2)

b0018597_18363073.jpgb0018597_18364489.jpg 国立劇場へ向かう道すがら。九段下から坂を上り、千鳥ヶ淵を左に折れる。この辺りは桜の名所。お花見ハイシーズンに備えてライトアップの準備が進んでいた。たぶん、照らし出された夜桜は美しいのだろうと思うけれど、投光器をくくりつけられた桜の木は、ちょっと痛ましいほどの哀れな姿になっていた。もう少し、木にも見た目にも優しい設営が工夫できないんだろうか。日産の提供でニューデザインを編み出してもらえないか。
 ふと見上げると、ほころんでいる花があった。桜は年々早くなっているような気がする。この日、東京で開花宣言が出たのを、夜のニュースで知った。
 ついでに、イタリア文化会館を初めて裏側から見たのだけれど、億ションの皆さんが勘弁してくれとクレームつけたくなる気持ちもちょっとわかる佇まいだった。
 さらについでに、例によって見づらい写真ですみません。
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by mono_mono_14 | 2006-03-21 23:59 | 雑/quotidiana | Comments(0)

cotone banane cacao e cafe'

 「Un'altra via d'uscita」、「30 modi per salvare il mondo」。「もうひとつの突破口」、「世界を救う30の方法」。こんなに真っ正面からというか真っ正直にというか曲をつくってアルバムの最後に収めたりするイタリア人アーティストたちは、日本の音楽マーケットにおいてはどこか異端というかどこに居たん? というか(寒)、そんなポジションをマイペースでたゆたっている。上の2タイトルの後者を書いたのはジョヴァノッティで、彼はイタリア的にはメジャーな存在だと思うけれど、前者を書いたダニエレ・セーペはどうなんだろう。

 ドメニカなのにどうにかならんか(寒)の休日出社&ナポレオン睡眠であわあわと資料を準備して3時間にわたる会議をしのぎ、へろへろと会社に戻り次なる締切に向かう僕が作業の友に取りだしたCDは、なぜだかダニエレ・セーペの『日雇い人夫』(Jurnateri)。我が身のコンディションに照らせば同じセーペの『限界労働』(Lavorare Stanca)でもよかったか。何となく冒頭に記した曲を聴きたくなったから。これを聴くのは超々久しぶり。もしかすると数年ぶりかも。
 岡本太郎(ゲージュツがバクハツした人ではない)の名が記されたライナーによれば、ダニエレ・セーペは1960年生まれのナポレターノ。演っている音楽は、イタリア民謡+スペイン民謡+アフリカ民謡+ジャズ+ポップ+ブラスバンド+オリーブオイル+ポモドーロ、そんな感じ。物憂げだったりハチャメチャだったり、まあ好き放題なんだけど、たまたま『限界労働』を買って初めて聴いて以来、僕はどこか気に入ったのだった。
 久しぶりに聴いたダニエレ・セーペは、痛快な疾走感と沈鬱な悲愴感が交互に訪れるような、ある意味、ナチュラル・ハイな聴き手とは非常に馴染みのよいスキゾ(死語)なアルバムだった。

 お目当ての「Un'altra via d'uscita」は、髪とともに薄れゆく僕の記憶にあった色合いよりも、ずいぶんと音のツブが立った佳曲だった。
 この歌は、例えば星をたくさーん飾った国旗に代表される一握りの国々とその手先企業たちが、プランテーション農園で汗水垂らして必死で働く人たちを蹂躙しているさま、コットン、バナナ、カカオ、カフェといった作物を巡るアンフェア極まりないトレードに対する異議申し立てだ。アンフェアなのは誰か(違)。こんな主張をとてもかわいいメロディとアレンジ(搾取される地に捧げてると思う、アフリカやカリブが混ざった抜けるような明るいアレンジだ)に乗せて歌う。
b0018597_2201610.jpg だけでなく、フェア・トレードを訴える学校向けのアニメーションがセットになっている。このアニメーションがかなりかわいい。手がけたのはこちらの模様。キャプチャをお裾分け。QTプレーヤのフレームも入れとくから、偶然スナップに映像が写り込んじゃった、くらいで著作権さんも目をつぶってくれないか。つか不問なくらいの不鮮明さではありますが。
 ライナーで岡本太郎が、「こうしたセーペの姿勢はイタリアの心あるアーティストに共通するもの」と書いているが、こんなテーマを真顔で曲にしてしまう、よく言えばウブで悪く言えばベタなカンジが、どこかしらイタリアっぽいなぁと思う。いえ、根拠はあんまりないんですが。
 で、この曲、教育用ということもあってか、たぶん、とてもシンプルなイタリア語で書かれたリリック。歌詞カード、クリアな発声の録音がありながら、「たぶん」と書かざるを得ない僕の心中察しつつウィンドウのクローズボタン(かブラウザの戻るボタン)を軽くクリック。ご静読ありがとうございました。
 しまった。シゴトの友に聴いてたはずなのに、こんなの書いてた。
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by mono_mono_14 | 2006-03-20 22:05 | 伊/italia | Comments(0)

Fania『Naturel』

 某SNSの早耳さんたちの雑談に耳を傾けていたら、来週(つか今週?)、ファニアという、ちょっとクセのありそうなアフロ=ヨーロピアン女性アーティストが東京でちまちまとライブをやるらしいことを知った。そのひとつが東京日仏学院のブラスリーなんだそう。おぉ、あのブラスリー(どの?)で、というところにすごく惹かれる。もうとっくに定員かも知れないけど、問い合わせてみようかな・・・という思考回路とセットになって、アルバムを買ってみたもの。実は師走にブルーノートで公演があったのだけれど、その時はなぜだかあまり反応しなかったんだよな。もしかして日仏学院のブラスリーに反応したってことかしら? いずれにせよ、アフリカの音は久しぶり。Fania『Naturel』。
M-01「Yaye」:開幕を告げるための短い、しかしおそらくはアルバムのテーマを携えた重要な、1曲。お祈りみたい。こういう構成のアルバムにときおり出会うけれど、多くが越境するしなやかな魂たちが送り出した作品なように思う。ファニアはセネガルからパリへ渡った人。
M-02「Refenta」:好み。穏やかで伸びやかで柔らかなメロディ、ポリフォニークなコーラス。屈託ないギターの音色。イントロのアコースティックも、声の裏側で鳴るエレクトリックも。途中、ちょっと演歌と相通ずるものを感じる部分あり。こういうのって不思議だ。
M-03「La Lune」:おーアフリカン・ポップ! M-02に引き続きと言うかそれ以上に特徴的な単音ギター。それにしても、ギター、どうしてこんなにかわいい音で鳴るのか。何か名前が付いてたんだよな、この音色に。んー思い出したい。
M-04「J'ai deux amours」:母国とパリに愛を捧ぐ歌だな。微笑ましいアレンジ。パーカッションが小気味よく、アコーデオンがいかにもパリっぽいニュアンスを醸す。3拍子なのもパリっぽい。かわいい曲。歌っている方も楽しそう。ジェードゥザムール、モンペーイ、パリー♪
M-05「Sentouna」:ギターとヴァイオリンによる物憂げな叙情的なアレンジ。メロディはあるけれど詩の朗読みたいな雰囲気に包まれる。ライナーの短いフランス語のフレーズを読む(ふりをする)と、愛の希望を歌い上げている模様。
M-06「Tous des etoile」:どこかしらグループサウンズのようなギターに導かれて始まる。タイトルのコーラスがうねるように繰り返される。エンディング、再びグループサウンズなギターに乗せて響く打楽器、グルーブ感たっぷり。
M-07「Sigui」:すごくきれいで軽やかなアコースティックギターに乗せて、アフリカのコトバ(chante' en mandingueと書いてある。どうやら日本語ではマンディング語と呼ばれるらしい)が解き放たれる。佳曲。気のせいか、少し沖縄な旋律が聞こえたり。
M-08「Kaya Kholma」:再びきれいな単音ギターと明るいアフリカのコトバの響きが溶け合う。何て言うか、気負いのないポジティブさが風にそよぐ感じ。・・・こんなレビューですが、ついてきてくれてますか? アフリカのギターは気持ちいいな。
M-09「Yaye (2e partie)」:オープニングのオルタナティブあるいは2番。Yayeは母に感謝を捧げている歌らしい。
M-10「Naturel」:アルバムのタイトル曲。意を決した感の漂う少し翳りのあるロック=ポップ。題と曲調からして自然体宣言(勘)。ギターのフレージングとか、UKっぽい感じがする。
M-11「Africa Diambar」:祈祷的な歌唱に導かれてアフリカの打楽器、リズムが響き渡る。ずいぶんとソフィスティケートされたアレンジになっているけれど、すごいグルーヴ。
M-12「Fama」:この曲のエキゾチック感は何だろう。ひとつの弦楽器をバックに訥々と流れる声。アフリカのようでもあるし、南米のようでもあるし、中近東のようでもあるし、モンゴルのようでもあるし、琵琶法師(?)のようでもある。圧倒的にエキゾチックなのにどこか汎世界的。不思議。
M-13「M'Beugue」:夕日に祈る歌(そんなことを英語で言っているような気が(無自信(恥)))。弾むような打楽器のリズムに乗せて、正体がわからないけれどハープとかハープシコードみたいな音でシンプルな旋律が印象的に繰り返される。ライナーから「cora」というのが怪しいなと思いつつググったところ、あっさりとコチラに行き当たる(ビバ、インターネット!)。たぶん、これの音。
 ボーナストラックは割愛。大半の曲をウォロフ語で歌っている(chante' en woolof とある)。セネガルで公用語のフランス語を押さえる勢いで使われている民族語なのだそう。関西弁みたいなものか(違)。
 どちらもユニバーサルな音を紡いでいるのだけれど、ジェイを聴けばアジア(中華)だと感じ、ファニアを聴けばアフリカだと感じるのは、当たり前のような不思議なような。そして、そのエスニック感に立脚した音が、時に汎世界的に響くのも不思議。
 なお、コトバの表記をはじめアフリカの諸知識についてはWikipediaさんに強烈にお世話になりました。
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by mono_mono_14 | 2006-03-19 21:59 | 音/musica | Comments(2)

周杰倫『七里香』

Grazie a tutti nel mondo dell'internet che fanno stimolarmi ne sono molto contento. Finalmente oggi mi sono incontrato alla musica formosana.

 努力の足りない他力本願な現実逃避型ロマンティストな僕である。玉石混淆の果てしないインターネット銀河の中から、僕にとっての玉を発掘すべく奮闘する日々が続く。って大げさな。ま、何のことはない、「ネット上で僕のアンテナに引っかかったインフォにまんまと乗ってみよう企画」の記念すべき(?)第一弾。Allora andiamo...!

 周杰倫『七里香』。勝手にもっとトンガッた音楽を想像していたのだけれど、プレイボタンを押すと、ヘッドフォンから流れて来たのは磨き込まれた優しくメロウでインターナショナルなポップスだった。これが中盤から後半にかけてどんどん重くなっていき、やがてまた穏やかで透き通った余韻を残すエンディング。コンセプトアルバム? と思ったり。アレンジやメロディラインには時にかすかに時に色濃く中華が香る。ところが、食わず嫌いの意表を突いて、これがまったく気にならない。率直に言ってコトバの響きはとても無国籍な感じ。
M-01「我的地盤」:まさにチャイナ・ミーツ・ウェストな感じ。オープニングとして心地よいインパクト。タイトルから察するにささやかな俺流宣言か。でなければ国政選挙の歌だな(違)。脱線風味の感想として、劇団☆新感線の舞台音楽(特に「七芒星」とか)を思い出した、という点を記しておく。
M-02「七里香」:ちょっとあざといくらいに優等生なポップソング。サビのメロとか正しすぎなほど。漢字じゃなくてアルファベットな音が響く(なんだそれ)。ストリングスの使い方、きれい。ポール・ウェラーよりだいぶ上手い気がする。
M-03「藉口」:青春とか友情とかそんな感じの照れるような真っ直ぐなメロディ。海に沈む夕日のような歌。と湘南ボーイ(詐称)なコメントを書いてみた。迂闊にデートのドライブで聴いたりしない方がいいと思う。あ、聴いた方がいいのか? おふたりに任せます。
M-04「外婆」:佳曲。軽いラップ。ラップの部分はジョヴァノッティと通じるニュアンスがある。
 M02-M04は、王道的美メロな感じの上質なポップソング。感情移入肌の人なら、もしかするとうっかり涙落ちたりするんじゃないかというセンチメンタルなメロディライン。曲の雰囲気がずいぶん違うから難のある喩えだとは思うけれど、思い切って言えば桑田佳祐みたいな優れたポップなメロディメーカーなんじゃないかと思う。ボーカルは桑田佳祐よりだいぶロマンティックだけど。そのメロディもいいんだけど、とにかくアレンジが上手いと思う。
M-05「將軍」:曲調ガラリと変わる。まさに風雲急を告げる感じに。不安ラップ&ポップ(なんだそれ)。不安という語がネガティブ過ぎたら「控えめな決意」と言い換える。
M-06「擱淺」:僕が思い描く典型的な東アジアのポップソングな感じ。台北でもソウルでも上海でも香港でもこういう曲が流れてそうな、っていう。もしかするとJ-POPでもこういうメロはあるんだろうなという気がする。ってことは東京でも流れているってことか。
M-07「亂舞春秋」:馥郁たるエキゾチックな香りは、しかしながら土着的でなく逆輸入っぽい仕上がり。イケてない表現だけどコスモポリタンなヴァイブ。坂本龍一とか、ときどきこんな音を出してると思う。中国語(幅広くてすまん)は、もしかすると英語なんかよりよっぽどラップに向いているコトバに聞こえる。効果音使いすぎ? という気もしなくはないけれどネグリジブル。ちょっとクオリティ高い1曲。アルバムの僕的ベストトラック。
M-08「困獸之鬥」:おぉロックだ。イントロの重くシンプルなリフ、ボーカルの裏側で鳴る哀愁風味のアルペジオ。ヨーロピアンなロック。僕が聞き慣れたタイプの音楽と一番近いつくりの曲がこれのような気がする。
M-09「園遊會」:とってもきれい。もしかして、こういう曲が朝飯前的につくれたりするのか。だとしたらすごい。QUEENの「Spread Your Wings」みたいな空に広がっていくような世界観。翼を広げて空高く自由に…でも芝生の庭っぽいタイトルがついてるな...。ストリングスがやっぱり上手い。
M-10「止戰之殤」:淡々とした告白のような曲。雨のパリっぽい(根拠薄弱)。この曲もそうだけれど、全体としてシークエンシャルな風景、人の動きみたいなものが思い浮かぶ曲が多い気がする。
 思った以上の佳作。と言うか稀代のメロディメーカーなんじゃないかという気がする。ヴェネツィアのジャケ写のアルバムも買ってみるかも。
 インプレッションを書こうとして、ATOK様から漢字を呼び出すのに少し苦労したりした。呼び出せば出てくるからすごいよな。「亂」は「乱」だったか。「乳」かと思ったよ。よく考えれば、次の字が「舞」な時点で「乳」より「乱」を思い描く倭人でありたかった。
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by mono_mono_14 | 2006-03-17 23:59 | 音/musica | Comments(2)