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ボスニア・ヘルツェゴビナ戦

サッカー日本代表を応援しよう! ボスニア・ヘルツェゴビナ。どこですか? なんていう失礼な状態はよろしくなかろうということで、こっそりググる。旧ユーゴから独立した1国で、トリノの前の前の前の前の前の前の冬季オリンピックの会場となったサラエボを首都とする国であった。紛争があって、孤児になってしまった子がたくさん出た。『HELP』というチャリティCDが駆け足でつくられて、ポール・ウェラー御大もポール・マッカートニー卿と演った「カム・トゥゲザー」を収録している。マクラ長すぎ。

 開始早々、ボスニア・ヘルツェゴビナのエース、バルバレスをゴール前で真っプリーにしてしまう。ヒヤッとする場面。と言うか本来あり得ない。しかし、総じて決定的なシーンは双方つくれない。日本はなかなか撃てないし、ボスニア・ヘルツェゴビナのシュートも確度が高い場面はほとんどない(ヒヤッとするところはある)。福西が3列目から飛び出して中村からの柔らかい浮き球のパスをフリーで受けた場面が最大のチャンスだったが、福西のロブは詰めてきたキーパーにブロックされてしまった。
 日本の中盤は運動量があるわりには、あまり効果的な連携になっているようには見受けられない。中村からのタテパスとか、中田のサイドチェンジとか、クォリティの高い単発パス、小笠原のトルクの高そうな突っかけるドリブルなどが見られるくらいで、小気味いいパス交換は影を潜めている。ピッチ・コンディションがベストとは言えないことがあるにしても、少し寂しい。久保の存在感も薄い。
 ロスタイム、コーナーから高原がヘディングで先制。マークについていたのはハンブルガーで同僚のバルバレス。ついていくのをサボった。キーパーの飛び出しもハンパになってしまった。高原のゴールにケチをつけるつもりではないけれど。

 後半。開始早々、怒濤の攻めを食らう。能活の表情も険しい。リズムをつかめないまま、PKを取られる。スローで見れば明らかにシミュレーションだけれど、その前の振り切られ方がマズかった。たぶん、バルバレスを追いかける中澤もヤベッという思いがかすめたと思う。まんまと行かれてはいけないワンツーでやられてしまったから。
 中村のフリーキックから高原のヘディングで決定的なチャンスを掴むもキーパーに防がれてしまう。絶妙のボールにうまく合わせたが、正面に飛んでしまった。その数分後、今度は久保の左足ミドル。いい弾道で枠に飛ぶもキーパーが指先で弾き出す。こういうリズムのうちに加点しておきたかったのだが、不用意気味なファウルで与えたフリーキックから追加点を許してしまう。中澤がヘディングを競り負け、能活も足下に来たボールを小さくファンブルしてしまい、フリーの選手に押し込まれてしまった。
 消化不良感。ディフェンスのコンビネーションもちぐはぐ。高い技術に裏打ちされた中盤でのパス交換もまばら。ディフェンスがやりにくそうに見えるのは、最終ラインが4枚だからじゃないか。2枚のセンターバックの間に自由に入り込まれる場面が散見される。加地とアレックスの両サイドも攻守ともに後手に回っている感じがする。3枚のセンターバックの方が、たぶん宮本がやりやすいんじゃないか。そんなふうに見える。
 久保と高原のツートップで始まった試合は、ラスト10分を切った段階で柳沢と大黒の2枚になった。えっと、スタートの2人は日本的にはプリマ・プンタ(アドリアーノとかヴィエリとか)で、最後の2人は典型的なセコンダ・プンタ(デル・ピエーロとかカッサーノとか)のような気がするけれど、こういう組み合わせで試してみるのは、ちょっと不思議な感じがする。それにしても、日本はチャンスらしいチャンスがつくれず、組織だった守りらしいところも披露できていない。総じてばらばらなチームな感じがする。不安だ。ベンチのジーコもすごい表情だ。大ピンチでお腹痛い、みたいな顔。
 またもやロスタイム、またもや中村の正確なクロスから中田がヘディングで押し込んだ。素晴らしいボールに素晴らしいヘディング。ただ、公式戦なら貴重な勝ち点1だけれど、練習試合だから見かけの引き分けに安堵したり喜んだりするわけにもいかない。ちょっと暗雲たちこめ系の1戦だった。
 
 どうでもいい話。女子フィギュアスケートの村主さんを観ている時は「ちょっと俊輔みたいなコだよなー」と思っていたのだけれど、今日、俊輔を観てみると全然似てない。おかしいなあ。
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by mono_mono_14 | 2006-02-28 23:59 | 蹴/calcio | Comments(0)

『パウル・クレー展 線と色彩』

 たぶん大学2年の冬だったと思う。と言うか、クリスマス頃なのだけれど、クリスマスにちなんだカセットテープ(んー時代感出まくり)をもらったことがある。お、ロマンティックなネタですね! と思ったあなたはまつがいです。くれたのは同級生の男子だ。え、カミングアウトなネタですか? と思ったあなたもまつがいです。彼がひとりでだったか、友だちとふたりでだったか、曲をつくって、演奏をして、録音もすれば、トラックダウンもした、という、カッコよく言えば、インディなミニ・アルバムをくれたのだった。21世紀のMacなら、こういうことはずいぶんと簡単にやれるようになっているんだろう、きっと。つくった以上は誰かに配りたくなり、その中のひとりに僕も含まれていた、というわけ。確か「Green Christmas」と題された数曲入りのカセットからは、友だちのダウナー系ボーカルが流れ出し、何ともビミョーな心持ちがしたのを覚えている。
 そのカセットのジャケには、子どもの落書きっぽい線画のイラストがあしらわれていて、僕はてっきり彼のオリジナルのイラストだと思い込んでいたのだけれど、後年、それがパウル・クレーの「忘れっぽい天使」という有名な作品だったことを知った。二十歳の頃、僕は、パウル・クレーなんて、たぶん名前すらも知らなかったのだ。

 お昼のついでに足を伸ばした大丸ミュージアムの『パウル・クレー展 線と色彩』は、最終日だったこともあって予想以上の混みっぷりだった。多彩な展示だったのだけれど、僕がより惹かれたのは、鉛筆やペンによるデッサンふうの線描画と、油彩かパステルの抽象的なグラフィック。特にグラフィックは、茶、ベージュ、オレンジなどを中心にした色彩がすごく好みだったし、図象も好感が持てるものだった。中沢新一の本に出てくる未開とされる民族が描く宇宙的・神話的なビジョンに似ているなあと思った。抽象画を描く画家の眼(あるいは脳)は、トランス状態に入り込んだ未開民族のシャーマンたちが認識する宇宙と、どこかでつながっているのかも知れない。そう思ったとたんに、抽象画の私的位置づけが少し動いた感じがした。うまく言えないけど、抽象画の必然性みたいなものがほんの少し認識できたように思えたのだった。

 作品としては「子供の肖像」、「パリスケッチ」、「無題(死の天使)」の3点がとりわけ印象的だった。
 「子供の肖像」は、セピア色のモノトーンで描かれた水彩画。緻密な描写ではないのに、瞳、前髪、頬の質感、衣服のだぶつき等々、ディテールがものすごい存在感で瑞々しく迫ってくる。
 「パリスケッチ」は、厚紙に墨で描かれたパリの街並みなんだと思うが、とてもパリには見えない。と言うか街には見えない。だけど、すごく魅力的な絵で、画面から立ちのぼってくるのは、確かに街が放つヴァイブのようだった。
 「無題(死の天使)」は、カラフルながら穏やかで、華やかながら翳りがあり、暗く沈みそうながら淡く軽やかで、怖いようでありながらユーモラスで、奥行きのある何ともフシギな世界観に満ちていた。
 「記念書籍」という風変わりな紹介をされていたので、いわゆるカタログではないかも知れないけれど、CDケースを一回り大きくしたくらいの正方形のかわいらしい1冊も購入。持って帰るのに便利で大助かり。・・・あ、アマゾンにあった。フツーの本だった。

 今回の展示、スイスのベルンという世界遺産の街に、パウル・クレー・センターというのができたそうで、そのプロモーションを兼ねての展示だったようだ。大丸ミュージアムで展覧会をやることが、ベルンにあるセンターのプロモーションとしてどれくらい効果的なのかは疑問だけど、案外、日本人は出かけていくかも知れない。このパウル・クレー・センター、手がけたのはイタリア人建築家のレンツォ・ピアノ。関西国際空港のターミナルの設計者だ。3連の連続アーチを描く鋼材を並べることにより架構される空間は、伏せるようであり、伸びやかに跳ね上がるようでもある、何ともリズミカルな建築。ちょっぴり行ってみたいけど、パリやバルセロナやシチリアやUCLよりも優先されることはないわけで、そして僕が海外旅行に割ける時間と予算はとても限りがあるわけで、つまり行ける見込みはずいぶん低いのだった。
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by mono_mono_14 | 2006-02-28 17:03 | 芸/arte | Comments(0)

ポール・ウェラー日本独自企画盤を聴く

 「来日記念」というナゾの理由で「日本独自企画盤」という1枚が出たりするのは、日本のオーディエンスとしてはホメられてるのかナメられてるのかイマイチわからない。ま、買ってしまうわけですが。Paul Weller『COME ON/LET'S GO -JAPAN ONLY EDITON』。なお、「EDITON」はママ。何度見直してもEDITON。心なしか愛が足りない1枚であることのメタファーなのだ(嘘)。なお、この1枚が「来日記念」盤かどうかはわからないけど、事実上、そうなってしまった感ありあり。
 こういう企画の王道として、シングルのC/W曲やアルバム収録曲のリミックスやライブ音源やデモ・テイクなどが収められている。このお気に入りのカットソー、つい色違いで揃えちゃいました♪ みたいな感じがどこかしら漂うことになる。ま、買ってしまうわけですが。ちなみに、服について言えばお気に入りの同型を色違いで持つのは悪くないことだと思う、サイフとクローゼットに余裕があればね。
 それでは、以下、必死で全曲レビュー。何とかリミックスとかがくっついていて無闇にタイトルが長いので割愛。気になる人はこちらを参照。

全曲レビュー
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by mono_mono_14 | 2006-02-27 23:59 | 音/musica | Comments(0)

誰も寝てはならんかった

"...All'alba vincero'! vincero'!! vincero'!!!" ...Si'!!!!

 中学や高校の音楽の時間にどういう「名曲」の数々を聴いていたんだろうなあ、と、ときどき思う。たぶん取り立てて珍しいことではないと思うけれど、姑息小心人畜無害なロック小僧だった若かりし僕は、クラシック音楽にはあまり関心が持てずにいて、どんなのを聴いたのか、さっぱり覚えていないのだ。そんな僕も、即時撤退責任転嫁な社会人になるうちに、いつの間にやらほんの多少とは言えオペラやクラシックも聴きかじるようになったりしていたわけで、すると、ほんとなら雷に打たれるような衝撃な出会いになってもよかったような名曲も、知らずに音楽室で聴かせてもらっていたんじゃないだろうか、と思ったりするのだった。ヴェルディやプッチーニも聴いていたんだろうか。
 オーチャードホールで勅使河原三郎が演出した良くも悪くも話題を呼んだ「トゥーランドット」を観たのは、どうやら1999年の春だったらしい。3大テノールが(と言うかパヴァロッティが)必ず歌ったドラマティックなアリア「誰も寝てはならぬ」を楽しみにしていたけれど、期待ほどではなかったような記憶がうっすらとある。まあ、それはどうでもいいです。今年、フィレンツェ歌劇場がその「トゥーランドット」を引っ提げて来日するが、そんなチケットが予算的にも確率的にも取れるはずがないのであった(試みもしていないけど)。ああ、それもどうでもいいです。
 「夜明けに私が勝つのだ」と高らかに歌い上げるそのアリアを、パヴァロッティはトリノ五輪の開会式でも歌った。イタリア語で「vincero'」、英語に直訳すれば「I'll win」と宣言する歌は、戦いの幕開けにはなかなかにふさわしい。そして、今日の夜明け。アスキーアートみたいな笑顔の大和撫子が、頂点に上り詰める華麗な4分間を、そのトゥーランドットの旋律に乗せて世界に披露したのだった。「vincero'」に合わせて繰り出されるスピン。フィニッシュのポーズと100点満点の笑顔。素晴らしすぎた。誰も寝てはならんかった。僕は寝てたけど(そんなオチか)。

 メダルなんてどうでもいいじゃないのさと思いつつ眺めていたトリノ五輪だけど、やっぱりメダルってものすごい。

*こういう時事にかこつけたエントリは控えようと心がけているんだけど、でも今日はいいだろ、と思うことにしました。
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by mono_mono_14 | 2006-02-24 22:45 | 雑/quotidiana | Comments(4)

インド戦

サッカー日本代表を応援しよう! インド相手にああいう試合運びでいいんどすか?・・・寒。

 覇気という言い方でいいのかわからない。少し違う気もする。ただ、リラックスして高い技術を披瀝していたけれど(小野も小笠原もハンパなく上手い)、でも、もっと違う雰囲気の試合になってもいいんじゃないのか、と思う。何か緩い。締まりがない。どうも不満だ。そんななか、長谷部はいきいきわくわく走っていたように見えた。そういう弾けたキブンたちがもっとピッチの上を奔放に行き交っていてもいいのになあと思う。あるいは、少し風変わりなコンセプトではあるけれど、マイボールをできるだけ長く楽しく愛おしみ慈しみたいというポリシーなのであれば、もっともっと流れるようなトロけるようなワンタッチのパス交換を魅せてほしいと思う。細かいところで達者な手数をかけているけれど、うっとりできない。つまるところ、攻めのイメージがぼやーんとしすぎているように思えてしまうのだ。
 インド戦を観ていてひとつ気づいたこと。僕は巻の佇まいが好きだ。たぶんちょっと腰が長いんじゃないかと思う。ってどんな見方だ。

 昨秋以来、代表戦ではどうしても加地を気にしてしまうのだけれど、今年の加地は一味違う感じがする。まず、本人的には恒例行事なのかも知れないけれど、たぶん相当追い込んでフィジカルを仕上げてきていると思う。そして、攻め上がってボールを持った時の勝負マインドが格段に高まっているように見える。さらに、クロスの精度(危険度)もグンと上がっているように感じる。フォロースルーを取らないコンパクトでインパクト重視の蹴り方を試しているように見えた(けれど、その当否は自信ない)。間違いなく意識的な自己変革のトライアル課程にあると思う。本人、ワールドカップ本大会に賭ける思いがフツフツと沸き立って来ているんじゃないか。以前にも増して要注目。
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by mono_mono_14 | 2006-02-22 23:59 | 蹴/calcio | Comments(0)

ひとまねこざるとジャック・ジョンソン

 ひとまねこざる。お猿のジョージと黄色い帽子のおじさんののどかな冒険譚。こどもの頃、大好きだった。今も実家には残っているだろうか。それとも何度か引っ越すうちに捨てちゃっただろうか。
 その「ひとまねこざる」こと「Curious George」、どうやらアニメ映画ができたらしい。で、サントラをジャック・ジョンソンが手がけたらしい。Jack Johnson and Friends『Sing-A-Longs & Lullabies for the Film Curious George』。タイトル長すぎ。店頭では「ジャック・ジョンソンの新譜と思っていいです」という、つまるところ「新譜じゃないんです」ということをはっきりと教えてくれる手書きレコメンが掲げられていた。あー、もう何でもいいです、買います、買います。
 黄色いジャケットの真ん中にギターを抱える“キュリアス”ジャックがあしらわれている。よく考えれば紙一重のジャケなんじゃないか、これは。ティエリー・アンリやエトーだったら怒ると思うな(という一言の方が問題か)。このデザインは国内版のジャケのようだけど、僕が買ったのは値段も仕様も輸入盤だった。よくわからん。US盤はジョージが1人4役を務めるフォーピース・バンドのイラストのようで、無意味にかわいい。ちなみに、このイラストは僕が買った盤のライナーに掲載されていた。
 肝心の曲。おなじみのジャックらしいギター・カッティング、和むグルーヴ(ちょっと矛盾か)。ちょっぴり音づくりとかフレージングとかマンネリ気味な部分も感じないではないけれど、これは言いがかりのレベルだと思う。ときおり“フレンズ”の皆さんが登場すると、何だか軽く違和感を感じたりして、それはつまり、HMVの店員さんじゃないけど「JJの新譜と思っていいです」ということだと思う。サーフィンとか関係なく気持ちいい音楽。好きだ。

 ジャック、4月に幕張で1日限りのライブを演るらしい。幕張かー、微妙に遠いなー、4月はウェラー先生来日記念貧乏期だしなー、またスタンディングはヲヂサンにはキビシそうだよなー、でもチケット代の支払時期は別だからうやむやになっちゃうと言えばうやむやになっちゃうだろうなー、行ってみたい気はするよなー。・・・という感じでしばし無意味に悩もうと思う。しかし、こういう時こそフォーラムとかでやってくれればラクラク行けるのに。
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by mono_mono_14 | 2006-02-20 23:59 | 音/musica | Comments(2)

Tania Maria『Via Brasil Vol.1&2』

 タニア・マリアの30年前の録音が昨秋頃にリイシューされていたらしい。たまたま眺めていた棚で見つけてすかさず購入。『Via Brasil』と題されたアルバムのVol.1とVol.2。ブラジリアン・スタンダード(aguas de marcoとか、desafinadoとか、a felicidadeとか、chega de saudadeとか)も並んでいる。どんなふうになってるかなと楽しみに聴いてみれば、期待通りのタニア節。かっけー。聴いていると、タニアとエリス・レジーナはどこかしら近しい感じがする。崩し方と魂の込め方の辺りが。声質もカブるところがある気がする。アレンジは、ジャズとファンキーなソウルの間辺りをゆらゆらしている感じ。少し古い感じが顔を覗かせるところもあるけど、猛烈にグルーヴィ。かっけー。ノリノリでゴキゲンだぜ(30年前っぽい感じを出してみました(誤))。
 タニアのライブはブルーノートで2、3回観たことがある。外見も演奏もカッ飛んだダイナマイトなおばちゃんだった。あれからもう10年くらいは経っていると思う。また来てくれないかな。
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by mono_mono_14 | 2006-02-19 16:24 | 音/musica | Comments(0)

富山和子『日本の風景を読む』

 探していたのは違う1冊だったのだけれど、その隣の隣の棚くらいにあった1冊は、できることなら日本中の人に読んでもらいたいような1冊だった。いや、違う、違う。読んでもらうだけではダメなんであって、少しもやもや考え込んでくれるようでないと最初の一歩にもならないかも知れない。とはいえ、例えば僕の高校時代の友人たちのココロをどれくらい打つかは、まったくもって自信がないのだけれど。富山和子『日本の風景を読む』。あまり期待もせずに何気なく手にした1冊だったのだけれど、すごいヒキだったな、うん。

 しかし、その衝撃の中身を簡単に紹介しようとすると、なんだかとても難しくてちっとも書けないのであった。自分の筆力のなさをしょんぼり恥じ入るとして、とりあえず目次を引き写してみる:《大地を読む/海を読む/棚田を読む/森林を読む/風景とは描くものなり/川を読む/風景の読み方、とらえ方/風景から学びとる》。富山は、これらの風景は、思い切って言ってしまえば「コメの文化の風景」なのだと言う。また、「日本は木を植える文化の国」という言い方も興味深い。言われてみれば確かに記念植樹はよく見かける行事だし、神様が宿る木や森も多い。ついでに思い出したが、安藤忠雄も、震災後の神戸に白い花が咲く木を、産業廃棄物にあえぐ瀬戸内海の島にオリーブの木を植えたりしていたな。まあ安藤のはともかく、富山が見るところ、木を植えるのも水田を守るためで、すなわちコメの文化の一端なのだ。日本の風景を「コメ文化」という視点から包括的に眺めるのは、静かに刺激的だ。

 端的なメッセージが「あとがき」にあった(「あとがき」ってヤツには往々にして結論めいた大事な一言が本文には見られなかったような簡潔さで表されていたりするのだ)。引用する。
ふるさとの小川とは弥生時代から
きっとこんな姿で流れ続けてきた水路
(中略)
二千年、流れつづけてきた末に
たった三十年で消えた
 戦後、アメリカと手を携え爆走してきた数十年で勝ち取った、世界が瞠目した日本の豊かさは、その裏側でひっそりと表舞台を去っていった(そして二度と戻ってこないかも知れない)かつての豊かさを本当に凌駕したのだろうか。もしかすると21世紀をかけてそのツケを払うことになるんじゃないか。そんな不安が湧いてくる。そういう意味では、イベントっぽいとは言え、「DASH村」は目のつけどころがシャープだと思う。
 こういう何千年と生き長らえてきた風景が立ちゆかなくなっていく構造的な問題の根の深さと較べたら、都市計画というタテワリの領域が扱っている事象は、とても上っ面だけの薄っぺらいもののようにすら思えてくる。もちろん、本当はそんなことはない。と言うか、すべてのタテワリを横つなぎした総体が“日本の風景”なのだから、無縁でいる/いられるなんていうことはあり得ないのだ。とは言え、期待の(?)「景観法」はやっぱりスケールが小さく見えてしまう感があるのは否めない。

 何千年にもわたる地道で真摯で尊い営みの数々を、半ば蔑みながらいとも簡単に放棄した現代の日本を、神話の世界にまで立ち戻って見直そう、立て直そう、まだぎりぎり間に合うぞ、というのが、中沢新一の言っていることのように思うが、そういう流れと明らかに近しい1冊。読みやすく、深かった。富山和子の本を読んだのは初めてなのだが、他の本も読んでみよう。
 僕は歴史にさほど関心があるタイプではなかった。今も関心があると胸を張れる気はしない。塩野七生すら多少なりとも読むようになったのはごく最近のことだ。それでも、これから先のことを考えるには、ずいぶんと昔のことを参照しなければいけない時代なんじゃないかという感じがある。それは、まだまだ僕の中で形をなしてはいないのだけれど、そんな感覚が確かにある。

謝辞
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by mono_mono_14 | 2006-02-19 03:21 | 本/libro | Comments(2)

フィンランド戦

サッカー日本代表を応援しよう! 練習試合。それはわかってる。でも相手は練習する気がなかったのかもよ。それぞれがベストな練習を意図しないと実効的な練習にならないんじゃない? そう思うほど、フィンランドは消極的と言うかおっとりしていたと言うか食い足りない感じが残った。

 日本が圧倒的にボールを保持したまま試合は進む。確かにフットボールの基本はすべからくマイボール・キープの陣取り合戦だ。ラグビーでもアメフトでもサッカーでも。だからポゼッションで圧倒すること自体は悪いことではない。とは言え、ボール・キープに対して得点は与えられないので、得点につながるように持っていかなければ意味がない。その部分のビジョンを圧倒的に欠いたポゼッションなのであった。何しろ、あれだけ支配した前半を無得点のまま終えてしまうのだから。んー歯がゆい。そんな中でも、巻、村井、加地はなかなか精力的&有効なプレーを披露したんじゃないかと思う。前半の終盤、加地のオーバーラップと巻の突進からスリリングな場面を演出した。
 後半早々、加地の素早いスローインから小笠原が早いセンタリング、久保がヒトクセある感じの左足で押し込んだ。攻めてこい、フィンランド! ・・・この願いは、ほぼ無視されることとなった。ほどなく、小笠原の冗談のようなロングシュートが決まった。
 ・・・数年前、人数も7人ずつくらいしかいないしみったれた草サッカーで、相手のキーパー係(笑)がちょっと前に出ているのを見て、コートの真ん中くらいから思いっきり狙ったことがある。本人的には狙い通りのミート&弾道で、キーパーの頭上を越えてネットを揺すった。マンセー、マンセー、マンセー・・・などという、微笑ましいと言うよりはむしろ痛ましかったり哀れっぽかったりするような思い出話を挟み込んでしまったが、こんなちっぽけな経験に照らしても、ああいうシュートは絶対に狙っているということだけは確信が持てる(当たり前か)。
 さあ、攻めてこい、フィンランド! ・・・あっさり聞き流される。その後も日本が圧倒的にボールを支配し続けて微妙なチャンスをつくりながら試合終了。
 あー、何だかまったりしすぎた試合だったなー。
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by mono_mono_14 | 2006-02-18 23:59 | 蹴/calcio | Comments(0)

僕的伊語の行方

 とうとう日本にワールドカップがやってくる2002年の春、勢い余ってイタリア語の入門講座に通い始めた。春夏秋冬、年間4期、曲がりなりにも何とか通った。進歩はともかく。2年目以降はペース半減、春秋だけの年間2期、しかも出席率も年々下降。またワールドカップが巡り来た今年、さてどうしよう・・・なんてことをふと思ったのは、久しぶりにかつてのイタリア語講座のクラスメートから近況報告メールが届いたりして、そこに「勉強してますか?」などと書いてあったからだ。
 もう、と言うかずいぶん前から、レッスンに出てるだけで伸びる状態ではなく、地道に単語を増やしたり、CD聞きまくったり、活用だの慣用表現だのをたたき込んだり、いわゆる陰の努力ってヤツが不可欠なことは明白だ。ここでふと思い出す。僕の父はこれが得意だった。いや、得意ではなかったかも知れないが、FENのニュースをテープに録音して、片道1時間半はかかる通勤の行き帰りにウォークマンで聞き、家ではそのディクテーションにいそしんでいたりした。必要に迫られていたのかも知れないけれど、そういうガッツで、流暢ではないにしてもどうにかこうにか英語を身につけていったのだ。あぁ、父のそのガッツ遺伝子は僕のどこへ? よりによってそういう大事な遺伝子パケットが届こうとした時にサーバがダウンしてしまったのか。それとも体脂肪に文字化けしてしまったのか。学習参考書をほいほい買ったところで悦に入ってオシマイ、という体たらくな遺伝子はどこから供給されたのだろう。さては母だな。母は、やるからには完璧にやりたいから完璧にやれないうちはやらないのだ、という高邁な思想のもとで掃除がどれだけでも滞ったりするタイプのあっけらかんとしたポジティブ・シンキンガーだ。残念ながら、あっけらかんとしてポジティブなところはさほど受け継がず、掃除が滞りがちなところはきちんと受け継いだ僕である。摩訶不思議なり二重螺旋。
 ・・・というわけで、再び巡り来たワールドカップ・イヤーの僕的イタリア語の行方に思いを馳せるはずだったのだけれど、両親に感謝を捧げるというハートウォーミングで感動的なエントリになってしまった。どこがだ。

 どうでもいいことながら今年の僕的イタリア語の行方だけれど、まだわからないながらも、たぶん、完璧を期すあまりにキレイに保存したまま放置プレイの憂き目に遭わせている数多の教科書で自習する方向が濃厚かなーという気がする今日この頃。なんだこの付け足し。
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by mono_mono_14 | 2006-02-17 04:20 | 雑/quotidiana | Comments(10)