カテゴリ:文/cultura( 99 )

『東京エコシティ』展

Se vediamo Tokyo come un'altra Venezia, cosa troveremo?

 『東京エコシティ ─新たなる水の都市へ』展を最終日に観た。思いがけず盛りだくさんの濃い展示だった。コーディネーターは陣内秀信さんだったから、彼のヴェネツィアその他の地中海都市の研究成果が東京に落とし込まれたもの、と見ることもできるだろう。実働という部分で陣内さんがどの程度タッチしていたのかはわからないけれど。
 なお、この展示は2冊の本(これこれ)にまとめられており、普通に書店で売っている。僕は買っていないけれど。

 「水」との関わりという観点から、現在の東京が背負っているハード・ソフト両面にわたる多彩な歴史的なコンテクストの実証的展示が並ぶ。アース・ダイビング・マップ(縄文時代に海だった部分を明示した現在の地図)のような展示もあった。縄文海進期よりも昔、東京湾は陸地だったというのにびっくりしたり。富山和子の本に出てきたカスリン台風の大水害の写真にたまげたり。いろんな断片同士が僕の中で結びつき合おうとするのだった。おもしろかった。

 盛りだくさんの展示を経て、最後にコンセプチュアルな提案がいくつか並んでいた。提案した人たちはコンセプトではなく物理的・技術的に実現可能な提案だと言うだろうけど、そしてその点については僕もそう思うけど、主体と費用と合意が宙づりにされているので、少なくとも展示からはそれらが読み取れなかったので、その意味でコンセプチュアルだと思う。
 治水も利水もとてつもない事業だから、ものすごく乱暴に言えば、主体はお上で予算は青天井で合意は力ずくで来た。ダムを悪者にするつもりはないけれど、ダムを思い浮かべてもらうとわかりやすいと思う。でも、ここで展示されている提案は、それらとは真逆の立場を取るべきものばかりだ。つまり、基本的には、主体は市井の有志(企業を含む)で、予算は自腹(受益者負担)で、合意はきわめて民主的になされるか、あるいはプロジェクト自体が参加型で進められなければならない、のだと思う。具体的で魅力的な空間のビジョンだけではなく、この3点についても合わせてビジョンを提示しなければ、もはや提案にならない時代なんだな、との思いを強くする。
 もっとも、では、そういった空間的な提案には意味がないのかと言うと決してそうではなく、啓蒙と言うと不遜に響くけれど、凝り固まりがちな人々の価値観に小さく揺さぶりをかける働きが期待されているのであって、だから、展示を観た誰かが帰りがけに近所の川面をしげしげと眺めてしまったりすれば、それでもうとりあえずの役目を果たしているのだ。

 ・・・そして、僕は、そういう局面からずいぶんと離れて歩いているよなぁと思った。コンセプチュアルな自由研究すら怠っている状態で早幾年だ。いかんですな。いかんですよ。本でも書こう()。
[PR]
by mono_mono_14 | 2006-03-05 23:59 | 文/cultura | Comments(0)

花のお江戸はスゴかった。

Credo che lo slowlife nell'epoca Edo ci dimostri qualcosa di importante per vivere meglio.

b0018597_17243258.jpg 『東京エコシティ』展のために初めて足を運んだ東京江戸博物館。ぶっちゃけ超オススメですよ。建物はひどいよ。僕はひどいと思う。曲がりなりにも国技の聖地である国技館も台無しだ。それでも、その中身はとても充実していた。ナメていた。ごめんなさい。きっとまた行きますから。『ほぼ日』に「江戸が知りたい。 東京ってなんだ?!」という企画があるのは横目で見て知ってはいたのだけれど、タカをくくっていて覗きもしなかった。ごめんなさい。きっとコンテンツを読破しますから。

 あり得ない佇まいをした江戸博の建物自体もチラッとは愛でていただきたいが、冬はビル風がとことん厳しく夏は輻射熱がハンパないと思われるため、とっととエスカレーターで6階に上がっていただくのがいいと思う。エレベーターでも上がれるが、無意味な昂揚感を掻き立てられるエスカレーターをオススメしたい。
b0018597_17251265.jpg フロアに着けば、あとはめくるめく江戸ワールドである。順路はよくわからないが、まずは日本橋を渡ってしまうだろう。これこそがお江戸日本橋なのかと思うと、今の近代遺産としての日本橋(あれはあれでかっこいいが)のために何千億円もかけて首都高を地下に埋めるのがいいセンスなのかどうかは、にわかに疑わしくなる。
 館内、相当に力を入れて模型を展示していると思う。街の空間から日々の暮らしのディテールまで、セレブな大名屋敷から質素な棟割長屋まで、いろんな模型があり、それだけでもかなり楽しい。文物図表の展示は展示で読み応えが十分で、というか十分過ぎて体力が尽きそうな不安さえするほどだ。
 言いわけがましく繰り返すが、今日、ここを訪れたのは『東京エコシティ』展のためであり、まさか、これほどまでのめくるめく江戸・東京ワールドが待っているとは思っていなかったので、残念ながら、ごくごく一部を駆け足で見るだけになってしまった。それでも、三百年前の江戸では、21世紀トーキョーのロハスなんて気取った言い方を鼻で笑うようなエコロジカルでスローでイキな暮らしが、アタリマエのように送られていたのだ、ということは鮮烈に感じてしまった。もちろんいろいろ不便はあっただろうけれど。

 江戸博の素晴らしいのは、常設展では写真撮影が原則として自由なこと(フラッシュや三脚の制限はある)。おぉ! とばかりにいんちきフォトグラフォと化して数枚撮ったところで、デジカメのバッテリがカラになったのであった。とてーん。教訓。江戸博にはデジカメをフル充電して向かうべし。
[PR]
by mono_mono_14 | 2006-03-05 23:59 | 文/cultura | Comments(0)

『杉本博司 時間の終わり』展の話

b0018597_2345178.jpg ずいぶんと時間が経ってしまったけれど、昨秋から年明けまで六本木ヒルズの森美術館で開催されていた『杉本博司 時間の終わり』展の印象を綴っておくことにしたい。

 この展示を知ったのは、例によって例のごとく某B誌を通じてであった。展示の開始時期に合わせて特集号が編まれたのだった。題して「杉本博司を知っていますか?」。いえ、知りません。知ったかぶりの気配すら見せられぬ即答である。非常に力の入った特集で、実際に展示を観てきた後に再読すると、新たな発見がある。この特集号を最初にぱらぱらとめくっていた時に、茫洋たる水平線だけが広がる写真(「Seascapes」シリーズ)と、「Architecture」シリーズの1枚であるピンボケの中にかの有名なル・コルビュジェのサヴォワ邸がゆらゆらと浮かび上がる写真が、とても印象的だったのだ。この写真を観てみたい、そう思った。よって、必見の展示会という宣伝記事にも後押しされ、この展示は必ず観に行くと早々に決めたのだった。早々に決めたのだが、実際に森美術館を訪ねたのは会期末の前日という、例によって例のごとくの腰の重さであった。それなりに混んではいたのだけど、鑑賞に支障が出るほどのことではなくてよかった。

会場は・・・
[PR]
by mono_mono_14 | 2006-02-02 23:45 | 文/cultura | Comments(0)

「Span Housing Exhibition」@MHL

 『Casa BRUTUS』をぱらぱらめくっていて発見した小さな展示。マーガレット・ハウエルのライフスタイルショップ神南で開催される「Span Housing Exhibition」。スパン社というところが開発した「スパン・ハウジング」と称された40年くらい経ったイギリスのモダンな集合住宅(まだまだ現役)を愛でるマニアック気味の展示。つまるところマーガレットがこの住宅団地群を大好きなのだ。わかる気はする。なにげにRIBAと組んでたりしてオドロキ(RIBAは王立英国建築家協会)。
 ショップの片隅にモノクロ写真のパネルと説明文、スパン・ハウジングでの当時の暮らしぶりを偲ばせるスナップ写真などがこぢんまりと展示されている。スナップ写真の空気感が、僕の子どもの頃の写真の雰囲気で、何となくじぃんとしたり。何て言うか、あ、当時の写真だ、という感じの映り方をしていたのだ。僕は午前中の打合せの後にわざわざ足を運んだわけだけど、そこまでの価値があるかというと、・・・ま、人によるでしょう。僕はあったと思う(し、思いのほか来訪者も多いのだと店員さんが言っていた)。ついでに言えば、早めに行けばモノクロ写真をあしらったちょっとステキなカレンダーがもらえそうです(たぶん。僕はもらった(嬉)というだけのことなので、保証はいたしかねます)。

 スパン・ハウジングの建設当時は、古めかしいイギリスのテラスハウス(ジョージアン様式とか)に飽き飽きした“先進的な”人たちが住んだのだと言う。「スパン」というのは「橋渡し」の意で、「建築家がそれぞれ一軒毎にデザインした家と集合住宅の開発を文字通り結びつける(=橋を渡す)」というコンセプトを表しているのだそう。その視点は、今もなお十分に有効かつ刺激的だ。日本でもそういう考え方に近い集合住宅をつくっている人たちは増えてきているけれど、団地開発(まとまった住棟群の開発)にまではなかなかたどり着けていない。代官山ヒルサイドテラスとか、限られた例しかないんじゃないか。もっとも、イギリスのスパン・ハウジングも限られた例なのかも知れないのだけれどね。ともあれ、このスパン・ハウジングが提示する暮らしの空間は、億ションやお屋敷とはまったく違う種類の“豊かさ”を感じさせるものだし、“何が何でも庭つき一戸建て”志向が薄れてきている大都市部では、こういう集合住宅群(の21世紀版)が、もっと模索されていいはずだと思う。それはリノベーションでもいいと思う。
[PR]
by mono_mono_14 | 2006-01-24 23:59 | 文/cultura | Comments(2)

和紙の力

b0018597_20401223.jpg ふらっと行くには不便すぎるため、奮って行くことになるパークタワー。イサム・ノグチのAKARIを集めた展示が終わってしまうので(1/17火曜まで)、えいやと気を奮い立たせて足を運んだ。CONRAN SHOP の前に会場がつくられている。卓上灯、床上灯、天井灯といろいろなタイプのAKARIが渦を巻くように並べられている。展示案内によれば89個。壮観だが、淡い光なので圧倒されるというよりは心和むものがある。ランプシェードとしての和紙の性能に感嘆する。大きなものでも電球は1個だったりするので、大きいAKARIほどぼんやりと浮かび上がる。そして、あまり小ぶりなものよりも少し大きいものの方がカッコいいのであった。そして、これらすべてが一般人にも手の届きそうな価格帯の商品であるというのが、とてつもなく素晴らしい。展示リストによれば、安いのは5,250円からあり、最高でも84,000円となっている。
 AKARIに限って言えば、現代美術館で見た直径2メートルのAKARIを超える感動は覚えないだろうと思う(ただし、牟礼の美術館に行ったなら、また違う感興を催すかも知れない点だけ留保)。でも、AKARIが似合いそうな空間で暮らしたいなあという気はする。我が家の小さなAKARIたちは、残念ながら今ひとつ持てる性能を発揮しきれていない。単にカタヅケが行き届いていないというのが最大の理由ではありそうなので、何とか精進いたしたく...。

 久しぶりに暖かな1日なので、シャトルバスには乗らずに新宿駅まで歩いて戻る。歩いているうちにタイムズスクエアのHMVに寄ることを思いつき、お目当ての1枚を購入。ポイントを使ったので2,500円引き。支払は208円。シアワセ感募る。

 HMVを後にしてエスカレータを降りて行く途中、タカシマヤ店内で中国の書画家がサイン会をやっているのを目撃。とりあえず途中下車(エスカレータを、ですが)。婁正綱(ろう・せいこう)という女流書画家らしい。12歳で見出された天才なんだそうだけれど、僕は全然知らない。しばし迷った末に展示を覗いてみることにした。主な理由は2つ。1つは、チラシによれば婁さんは1966年生まれで、僕と同世代なこと(ちなみに、自分が高校1年の時の3年生から高校3年の時の1年坊まで、つまり上下2歳、という辺りが僕の同世代感だ)。同世代がどんな活躍をしているのか、ということに興味がある。自分を省みて寂しい思いをすることになるのだけれど、それでも。2つめ、つい先ほどイサム・ノグチのAKARIをたっぷりと眺めて来たわけで、そんな日に同じく和紙を表現上の重要な要素としている芸術に行き当たった偶然を大事にしたい気がしたこと。こういう行きがかりというか言いがかりというか、そういう流れにはできるだけ乗ることにしている僕なのであった。
 盛りだくさんの展示。漢詩を抜き書きしたようなものもあれば、漢字1字を少しデザインして表現したものもある。僕は、この漢字1字をタイポグラフィックに表現した作品がとても気に入った。「心」「和」「山」「花」などなど。筆の勢い、墨の無限のグラデーション、それに負けない和紙の控えめな存在感。和紙に墨と筆で文字を書くという行為が作品に与える躍動感は、やはりマウスやペンタブレットとは全く違う。漢字をモティーフにしたデジタルデザインの秀作もたくさんあると思うが、何て言うか、「手」の力強さを感じる作品だった。現代を代表する文化人の座右の銘を書いた作品も数多く展示されていた。テレビ番組とタイアップしている企画らしい。こういうふうに書いてもらえるのだととしたら、僕ならなんて書いてもらうだろう。・・・としばし考えたのだが思い浮かばなかった。悲しい。座右の銘だから難しくありがたい言葉を掲げている人もいるのだが、作品として最も素晴らしいと思ったのは、隈研吾が書いてもらったという「自由」だった。
[PR]
by mono_mono_14 | 2006-01-15 20:41 | 文/cultura | Comments(0)

『前川國男建築展』

b0018597_1719045.jpg 東京駅にある東京ステーションギャラリーで開催中の『前川國男建築展』を覗いた。思いがけずとんでもない濃度の展示だったのでアテられてしまった。徹夜明けだったからか。何度も「休ませてー」と思った。と言うか休んだ。
 会場には全国の大学生が嬉々として(あるいはへろへろになりながら)つくった力作の模型がところ狭しと置かれ、鉛筆書きの年代物の大判の図面が壁を埋めている。展示はなんと前川御大の帝大の卒業設計から始まる。烏口によるインキングに手書きのレタリング。卒業した夜にそのまま渡欧してコルビュジェ門下生になったのだと言う。コルビュジェ事務所で手がけた図面の原図も貼りだしてある。なんかこの歴史的迫力だけでもクラッと来るよ。美術館、音楽ホール、文化会館、みたいな公共建築の作品が軒並みかっこいい。最近の流行りは風のように軽やかな建物で(金沢21世紀美術館とかまつもと市民芸術館とか)、これはこれでいいのだが(ってどちらも未見だけど(汗))、年季の入ったマッシヴなコンクリート打ち放しも捨てがたい魅力を放っているよなあ。
 平日のお昼時にも関わらず、なかなかの人の入りで驚いた。巨匠、強し。丁寧にメモやスケッチを描きながら見ている建築学科と思しき女の子なんかもいて、図面を読みとろうと思うとクラッとくるヲヂサンにはとても眩しく映ったものじゃよ。ま、若い婦女子ならみな眩しいものじゃけどな、ふぉっふぉっふぉ、ってそんなオチなのか、オチてないし。いや、よくわからないけど、SANAAとかH&dMとかに憧れてそうなのに、前川國男や吉村順三や清家清からもガシガシ学ぶんだなー、ふーん。と、何となく思った次第。
b0018597_17191579.jpg ギャラリーの窓から前川の作品「東京海上ビルディング」が見え、その場所にその図面と模型が展示してあったのがニクかった。記念にそのビルを写真に収めてみたけど収まったような収まってないような...。その後、交差点を挟んだはす向かいの丸ビルに向かい、ピッツァでも食べるかーと思いながら、気がつくと博多ラーメンと高菜ご飯を食べていた。
[PR]
by mono_mono_14 | 2006-01-13 23:59 | 文/cultura | Comments(6)

淺井愼平『銀塩肖像』

 淺井愼平と言えば、ちょっと有名な人なんじゃない? ・・・たぶん、ちょっとどころじゃなく有名な人だと思うのだが、ランチついでに時折足を運ぶ新刊書店の脇に写真展の案内ポスターを見つけた時は、僕がランチついでの定番コースで見つけるにはあまりに不釣り合いなビッグネームに思え、違う人のことかもと思ったりしてしまったのだ。ちょっとどころじゃなく有名な淺井愼平で合っていた。
 四ッ谷のポートレート・ギャラリーで開催中の『銀塩肖像 1966-1977 ビートルズから始まった』と題された写真展は、ざっと30-40年前に撮られた内外著名人の大判のポートレート約50点を集めたもの。最初に展示されているのはビートルズの4人。いきなりノックアウト。シャレにならないカッコよさ。そこからにじみ出る内省的な翳り。タバコに火をつけるリンゴの美しさは衝撃的なほどだった。
 ビートルズに続いて映画俳優、ミュージシャン、女優にタレントと、現在も活躍中の顔が並ぶ(もちろん中には他界した顔もある)。ほとんどの作品がモノクロームで、ロケではなくスタジオでの撮影だ。
 それにしても、被写体が放つたぎるような迫力は何なんだろう。時代? 豊かさの階段を挙国疾走していた時代がたぎっていたんだろうか。若さ? 現在の姿を透かして見る彼らの若さがたぎっているんだろうか。写真が放つ緊張感に気圧される。懐かしさはほとんどない。ただただ迫力だけがある。ひとりずつに見とれてしまう。月末までやっているからまた見に行こうかな(何しろランチついでに寄れるのだ)。今日のスターたちを撮って40年後に眺めたら、どのようなヴァイブが放たれるんだろう。40年後の鑑賞者もやはり気圧されるんだろうか。そんなことが、ふと、気になった。
[PR]
by mono_mono_14 | 2006-01-11 18:33 | 文/cultura | Comments(0)

13人の写真家に学ぶ

 ずいぶん前に「In-between」という写真集のシリーズを取り上げたが、それがめでたく(?)完結した。シリーズ最後のオマケ本みたいな「13人の写真家 25カ国」という1冊は、ブログに掲載する写真に思案しているくらいの写真愛好家(と呼べるのか?)には、店頭でページを繰ってみるくらいの価値はあるんじゃないか、と、当該レベルの僕は思う。ヨーロッパ25カ国を13分冊で収めるシリーズの、いわばボーナストラックを合冊したような1冊だ。
 本編に相当する13分冊は写真家×担当国という編集だが、この1冊はそれが一緒くたになっているので、違う視点から編集されている。モティーフごとに整理されているのだ。「石・壁(Pietre e Muri)」「言葉(Parole)」「人(Gente)」「食(Cibo)」「朝と夜(Mattina e Sera)」「印象に残ったもの(Immagini Memorabili)」という6カテゴリ。カテゴリが各国語で紹介されていたのでイタリア語だけ抜き出してみた。
 観光ガイドみたいなフォトジェニックな風景ばかりではないけれど、場面の切り取り方にもマネしてみたいものがあるし、このカテゴリ自体も触発的。僕は、今のところ、写真にディープに入り込んでいこうというつもりはないのだけれど、それでも、もう少しうまくなれたらいいなと思うし、あれこれ楽しみたいと思っている。そういう意味では、マネび甲斐のある1冊な気がする。2,200円(税別)。
[PR]
by mono_mono_14 | 2005-12-19 03:41 | 文/cultura | Comments(0)

『ドイツ写真の現在』

 杉本博司を特集したBRUTUSでホンマタカシが「必修」と言い切った写真展『ドイツ写真の現在 かわりゆく「現実」と向かいあうために』を観た。例によって超会期末。
 ベルント&ヒラ・ベッヒャーによるモノクロームの写真が素晴らしかった。炭坑の採掘塔や砂利工場などの産業のための構造物の写真たちなのだけれど、野又穫のドローイングのようだった。同じような写真を集める「タイポロジー」という表現のアプローチも興味深かった。近代産業遺構を再評価する動きが広く見られるようになってきているけれど、「無名の彫刻」と称する彼らの視点は、それとはまた違うものであるような感じを受けた。
 アンドレアス・グルスキーの大判の作品もおもしろかった。サンパウロのセー駅の積層する空間を写した写真もよかったし、ライン川を写した写真も素敵だった。緑の岸辺と流れる水面、曇り空。ミルフィーユみたいにこれらが積み重なった風景のリズムが気に入った。
 ベアテ・グーチョウが提示した風景写真も興味深かった。もっとも、これは解説なしでは感じ入るところがなかったかも知れない。変哲もない風景なのだが、これらは20〜30カ所の風景をデジタル合成した一種のコラージュなのだ。ごくごく自然でありふれた風景写真が、現実世界のどこにもない風景であるというアイロニカルな作品だ。写真はあるがままを写し取り、絵画は心の赴くままに描き得るという古き常識(?)が葬り去られている。レタッチというようなレベルでもなければ、コラージュ作品でもないのだ。写真にとってデジタルというのは本当に革命的な出来事だったのではないかと思う。
 その他の作家の作品では、ポートレートが多かったのだが、それらが醸し出す雰囲気は恐怖や不安や狂気だった。病んでる、僕からすればそう思うようなポートレートだった。いくつかの作品のモティーフになっていたのだけれど、ナチスと東西分裂はドイツにとってものすごく大きな傷を与えているんじゃないか、そう思った。でも、もしそうだとすれば、傷つきながらも自らの忌まわしい過去と真摯に対峙しているということかも知れず、日本も同じような「病み方」を示してもいいのかも知れないはずなんだよなぁ、ということも考えさせられた。いわゆる靖国問題とかすらピンと来ない僕には、ドイツの写真家たちが表現しようという内的世界を理解することなど、到底かなわないのかも知れない。
[PR]
by mono_mono_14 | 2005-12-17 23:59 | 文/cultura | Comments(0)

エトルリアの世界展

Ho visto una mostra titolata "il Mondo degli Etruschi" tenuta all'Istituto Italiano di Cultura di Tokyo a Kudan. E' stata molto interessante. Ci sono mostorate tante cose antiche e ho pensato che da due o tre mila anni tanti strumenti o abbigliamenti non cambiano tanto.

b0018597_14358100.jpg 何を隠そう、と言うか隠すほどのこともなければ明かすほどのこともないのだけれど、僕がイタリア語を細々と習っていて、そろそろ脱落しそうになっているのはイタリア文化会館だ。僕が初めてその門を叩いた時、文化会館は古びているけれど風情のある木造の建物で、小学校のような懐かしいにおいがした。歩くと廊下がぎしぎし鳴り、遅刻して足早に教室に向かう僕が近づいてくるさまが教室の中から丸わかりだっただろう。ご存じのように、この木造の館はもうなくなってしまい、この秋、12階建ての堂々たるビルに生まれ変わった。
 この新しくなった文化会館の開館を記念して、『エトルリアの世界展』なる展示が催されており、先日、レッスンに行ったら招待券をもらった。定価500円のチケットでも招待券はトクした気分だ。会期間際(と言うか最終日?)になってしまったけれど、何とか覗くことができた。余談ながら、明るい時間にこのビルを観るのは初めてかも知れない。
 このビルにはホンモノの展示スペースがあるわけではない。いわばエントランスホールを閉じて会場にしているので、動線にはあからさまに違和感がある。脇に入った階段室がチケット売場で、正面に戻ってエントランスを入ると、扉1枚でいきなり薄暗い展示スペース。意表を突かれた。そして、展示がとても充実していたことにも意表を突かれた。まさか、あんなに力の入った展示だとは思わなかった。思った以上の来場者がいて、そのことにも意表を突かれた。
 エトルリアの歴史や文化についてはこれっぽっちも知らないし、展示の解説を読んでもあんまりピンと来なかったけれど、個々の展示品はとてもおもしろかった。とても2500年も前のものだとは思えない。現在の安全ピンと同じ仕組みで留められる装身具があったり、器なんかも非常に初期に機能的な形態としては完成しきってしまったことがわかる。素材やデザインが進歩(?)していくだけ。動物をモティーフにした鼎の脚なんか、今日でも行けそうな洗練さ。数千年もの間、本質的にはほとんど変わっていないものがたくさんあることに改めて気づき、驚き、ちょっと感銘を覚えたりした。とても洗練された文化を持ち、それでいて自然や宇宙とも調和していた生活だったんだろうと思う。
 同時に開催されていた現代美術展が、土日には観られないようになっていたのは、ちょっと残念だったけど、こういうような充実した展示なら、これからも大歓迎。多少、動線がおかしくても気にしません。

赤色問題
[PR]
by mono_mono_14 | 2005-12-11 23:57 | 文/cultura | Comments(0)