カテゴリ:本/libro( 116 )

リービ英雄『仮の水』

 『延安』と機を同じくして、他社ながら同テイストの体裁で世に出たリービ英雄の『仮の水』。中国を舞台にした話だが、こちらは「小説」とされている。・・・が、正直、僕には両者の差異がわからない。2作を並べて読むと、作家の魔術に触れる思いがする。創作と実話の境界をもやに隠したまま、思いもかけない遠くへと読者を連れて行くのが「作家」というプロフェッションなのだろう。

 タイトルの『仮の水』の「仮」は「ニセモノ」の意だそうだ。ここでは、そのことを書こうと思う。

 日本語の漢字では、たぶん、ニセモノは「偽」で、「仮」は、必ずしも「ニセモノ」というニュアンスではないのではないかと思う。「仮装」とか「仮面」のように、真実を覆い隠すものというニュアンスもないではないけれど、「仮説」や「仮称」のように、別にニセモノというわけではなくて、単に「まだ定まっていない」とか「便宜上、とりあえずそうしておく」とかいう状態を表すことの方が、ニュアンスとしては強いのではないかと思う。
 そして、そういった「仮」という状態をドライブにして進んでいく(進めていく)物事も少なくないんじゃないかと思う。その「仮」を「ニセモノ」と言われてしまったら、いくぶん困る心持ちがする。
 「仮」という状態を「ニセモノ」としてしまったら、ずいぶんと窮屈な世界になるだろう。確定した真実しか表に出せない世界では、物事が進まないか、裏の世界が肥大するか、ニセモノを真実と言い張るか、いずれにせよ息苦しい世界が待っているだろう。「仮」はあくまでも「仮」であって決して「偽」ではない、ただし「仮」を「確」にする努力はする。そういう世界がいい。今の日本がそうであるかは、甚だ疑問だとしても。
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by mono_mono_14 | 2008-10-27 01:51 | 本/libro | Comments(0)

リービ英雄『延安』

 例えば毛沢東や周恩来という名前くらいならば知っているものの、彼らの足跡や中国の革命的な歴史のことなどについては、ほとんど知るところがないのが本当のところで(日本が踏みにじった歴史もほとんど知るところがないのだが)、エドガー・スノーだのヤン・ミュルダルだのといった固有名詞にもなんら反応できないのだった。リービ英雄の『延安』を読んだ。

 『延安』は、帯に紀行文学とある。あとがきには「中国大陸のノンフィクションを連載で書かないか」と持ちかけられたとある。副題に「革命聖地への旅」とある。リービが中国で実際に体験したことが綴られているのだろうと思う。そう思うのだが、どこまでが体験でどこからが創造なのか判然としない。創造(クリエイティブ)と感じられる部分が少なからずある。体験を創造として表現できるのは、作家のたしなみかも知れない。そうかも知れないのだが、紀行文としての瑞々しさとは違う部分、つまりは小説としての広がり感の部分で、僕はぐんぐん引き込まれた。

 借り上げたタクシーであちらこちらを回る。車の窓越しに目の当たりにする光景と運転手とのやりとり。車を停めてぐるりと巡る足取り。それらを撚り合わせたものが話の芯となっている。しかし、その芯に巻き付けられている、彼が思い巡らせたあれこれや、様々に飛躍しながら結び付き合う彼の知識と思索、それらの叙述が、この本の圧倒的な魅力だと思う。

 日本在住のアメリカ人作家による日本語で書かれた中国の今。「MADE IN CHINA」だとか「原産国:中国」だとかいう文字に神経質になる昨今だからこそ、ページから立ち上ってくる現在の中国の周縁部のリアルが、戦後を疾走した経済大国・日本の記憶に重なるフツフツとした今日の中国のリアルが、どこかしら、今、読まれるべき必然のように感じられる。
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by mono_mono_14 | 2008-10-24 01:17 | 本/libro | Comments(0)

畠山重篤『鉄が地球温暖化を防ぐ』

 畠山重篤『鉄が地球温暖化を防ぐ』読了。ひとりの牡蠣養殖職人が地球温暖化防止策を説く本を上梓するなんて、20年ほど前に思わず踏み出してしまった第一歩が、ずいぶんと遠くまで彼を連れ出すことになったのだなあと、しみじみ思う。かの有名な(であってほしい)「森は海の恋人」の科学的裏づけと、それを敷衍した環境回復策の提案。この世のほとんど全ての営みを二酸化炭素に換算する仕組みに、不勉強を棚上げしながらぬぐい去れない違和感を持っている僕なので、二酸化炭素の削減効果云々という文脈に位置づけられながら語られることが、どことなく居心地悪くはあるのだけれど、それでもこの本が披露している自然の偉大さと、それをベースにしたキラキラした野望について、僕は大いなる感嘆と興奮を覚えながらページを繰り続け、ほとんど一息に読み終えてしまった。

つづき
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by mono_mono_14 | 2008-07-07 12:48 | 本/libro | Comments(2)

キルギシアからの手紙

 『Lettere dalla Kirghisia』という原題なのだが、翻訳ではなぜか『誰もが幸せになる 1日3時間しか働かない国』などというタイトルになっている。通常、絶対にこのテの本は買わない。読むこともしない。そう思う。なのに、あまり吟味もせずにアマゾンしたのは、ひとえにイタリアの本であって、イタリアでそこそこ売れているらしいという触れ込みだったからであって、それ以上でも以下でもない。このビヘイビアこそが伊コヒイキの伊コヒイキたる所以だ。と胸を張る。ぐい。張った胸よりも腹の方が前にある。ぽこ。そんなところが愛くるしい。誰もが幸せになる甘美なる曲線美。

つづき
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by mono_mono_14 | 2008-07-07 00:51 | 本/libro | Comments(3)

サッカーのない人生なんて!

 No music, no life. No football, no life... へったくそな昔日のサッカー小僧でもときおりは思う、サッカーのない人生なんてずいぶんと寂しいだろうなあ、などと。

 93年に始まったJリーグは15歳を迎えた。いにしえの時代なら元服(成人)だし、今の時代だって義務教育が終了する年頃だ。義務教育が終了するということは、親が義務として子どもに教育を与えなければならない時期が終わるということだから、大人とは言えないけれど、子どもとも言えない段階になっている、ということだろう。そして、きっと、Jリーグ(日本サッカー)にも同じことが言える。オトナの階段を登り始める時期なのだ。
 ・・・というようなことを、おそらくは念頭に置いて書かれた増島みどりの『サッカーのない人生なんて!』という直球ど真ん中なタイトルを持つ1冊には、プロサッカー選手や監督はもちろんのこと、サッカー協会役員、スペシャルレフェリー、クラブチーム代表、さらにはトレーナー、エキップ(ホペイロ)、代理人、はたまた芝生管理職人にボランティアスタッフ、エリートコースを歩む中学生まで、幅広い人物が登場する。共通するのは、Jリーグがなければ「まつがいなく、こんな人生、歩んでない」人たちであることと、うっかりとそんな15年を過ごした今となっては「まつがいなく、プロサッカーのない人生なんて考えられない」人たちであることだ。こういったJリーグの歩みと切っても切れない立場に幅広くスポットライトを当てながら、Jリーグの15年のすさまじさ(ピンと来ないかも知れないけれど、よくよく考えれば、このほんのわずかな期間にすさまじいことを積み重ねて来ているのだ、Jリーグは)を浮かび上がらせている。増島らしいワイドレンジでリスペクトフルなアンテナが書かせた1冊。他の人には、書き得なかった。
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by mono_mono_14 | 2008-05-31 22:20 | 本/libro | Comments(0)

宮本常一『塩の道』

 おもしろい。おもしろすぎる。宮本常一の『塩の道』を読んでいるのだが、もう、おもしろすぎて仕事にならない。あ、仕事にならないからおもしろいのか。
 かつて、いたいけな男子学生だった頃、ひとまとめにすれば「社会科」と呼ばれる授業をおもしろいと思ったことはほとんどなかった僕であるが、いや、歴史も地理もおもしろい。それがクワランタということだ。もういいって。

 『塩の道』には、「塩の道」、「日本人と食べ物」、「暮らしの形と美」の3編が収録されていて、そのどれもが、つまるところ僕らの先祖はどうやってどんなふうにこの国のあちらこちらで暮らしていたのかということの一端を物語っている。
 宮本が精力的に情報収集を行ったのはゆうに半世紀前のことで、今日から見れば誤った説に依拠している部分があったりもするのだそうだけれど、そうだとしても宮本が拾い上げ、語り残しているほんのちょっと前の日本のことが、ほんのちょっと後の僕の血となり肉となりそうに思えることに、まったく変わりはないことなのだ。大げさだって。

 読み終えてもいないうちにこんなものを書いてしまったけれど、読み終えずに積んどくことにはならないのは間違いないし、読み終えてみたら実はイマイチだったというオチにはならないことも明らかだから、いいことにする。
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by mono_mono_14 | 2008-03-05 16:41 | 本/libro | Comments(0)

イカ的なもの

 僕の中のイカ的なもの。・・・おいおい、大丈夫か、この入り方は。いや、僕にもよくわからない。
 中沢新一によれば、誰しも自らのうちに「イカ的なもの」を抱えているはずだそうで、それを自覚し呼び起こすことこそが21世紀の平和を実現するミソになるのだという(イカならワタというべきか)。
 半月ほど前に、待ち合わせまでに少し空いてしまった時間を埋めるべく立ち寄った書店で発見した『イカの哲学』。波多野一郎の「烏賊の哲学」という、40年ほど前に世に出た論考を引っ張り出して、それを紹介しながら、21世紀のエコロジカルな平和論を説いている。・・・らしい。
 一読して、わかったようなわからなかったような、つまりはわかっていないということだと思うが、そんな印象がぼんやりと、イカが吐き出した墨に濁った海水のようなもやもやとして残った。再読を要する1冊。わかったことは、中沢がカイエ・ソバージュで熱心に説いた対称性の思想と軌を一にしていることくらいだ。いかにもお粗末。・・・すまん。
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by mono_mono_14 | 2008-02-29 13:50 | 本/libro | Comments(0)

隈研吾・清野由美『新・都市論TOKYO』

 隈研吾・清野由美『新・都市論TOKYO』読了。さくさくっと読めてしまう。大筋としては東京ビッグプロジェクトや都市計画に対する批判(批判と言うか憐憫か)。著者らにどちらかと言えば斬られ放題の側に属する身としては、受け取り方に思い悩むところ、なきにしもあらず。そんな斬り方ないだろうと憤慨したり、はーそうですか、そらよかったですなー、と馬耳東風を決め込んだり、一理あると律儀にうつむいてみたりするのもいいのだけれど、どれも何か違う。斬られ放題の側なりのコトバで組み立て直して投げ返せないといかんはずだろう、と自分に言い聞かせる感じだ。そして、直ちに投げ返せるような内的準備ができていないことを思い知らされ、しょんぼりする感じだ。
 対談形式を中心とする内容の3割ほどは正論で、3割ほどは暴論で、4割ほどは雑談のように思うが、新興系新書でぶっちゃけトークを披露するというのは、すぐれたメディア戦略で、斬られ放題の側もぜひとも採用したいところだが、もっとも、スター建築家ゆえに成立する企画であり編集であるのも事実だ。
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by mono_mono_14 | 2008-02-07 20:06 | 本/libro | Comments(0)

川端康成『古都』

 この本に勝る京都ガイドを知りません──。
 うろ覚えでしかないことが、今となっては残念なのだけれど、このような趣旨の短いメモを添えて、奈良・京都に向かう修学旅行を控えた高校2年生の僕に川端康成の『古都』を紹介してくれたのは、僕の父だった。その時は読んだのだったか。読まず終いだったと思う。若さゆえの至らなさとか、親の心子知らずとか、まあ、そういう言い回しがいくつも当てはまる17歳だったのだ。
 その後、確か20代の半ば頃に読んでみたように思う。京都とは言っても、なんか北山の杉山ばかりで、あんまり観光ガイドっぽくないなあ。そんなお粗末な読後感を抱いた。相変わらずいろいろ至らない20代だったのだ。
 その後、いくたびか京都を訪れる機会はあり、あの街が持つよさみたいなものを、若い頃よりは感じ取れるようになったはずではあるのだが、『古都』を再読しようという考えはよぎらなかった。拒んでいたという意味ではなく、思い出しもしなかったのだ。それなのに、あらためて京都に行く機会を得たわけでもないのに、ふと、『古都』の再読を思い立ち、移動時間がとても長いにもかかわらず1泊2日の行程で赴いた小さな旅の道連れとしたのだった。

 確かに北山の杉山は、重要な舞台ではあったが、話のほとんどは洛中で展開されていた。どこを読んでいたのか、若かりし自分。その場を体験してみたいと思わされる叙述がいくつも織り込まれていた。どこを読んでいたのか、若かりし自分。

 「清水から京の町の夕ぐれを見たいの。入り日の西山の空を見たいの。」
  (新潮文庫版 p.21)

 僕も見たい。清水寺のかの有名な舞台を行き過ぎて進んでいった奥の院にも小さな舞台があり、そこから暮れなずむ京の町が一望できるらしい。見たい。見たい。とても見たい。いわゆる「清水の舞台」で撮った無愛想な17歳の僕の写真はあるが、『古都』を読まずして迎えた修学旅行で、奥の院の舞台に辿り着けようはずもないわけで、さりとて、どうして『古都』のことを教えてくれなかったんだとも言えないわけでもあり、かつ、クワランタともなれば、それなりに多感な年頃を迎えた息子に川端康成を薦める父の心中はどうだったのだろうか、などということにも思いを馳せたりもするわけで、いやはやいかんともしがたく身悶えんばかりだ。すまん、父。

 『古都』は、もともと昭和36年の秋から37年の始めにかけて朝日新聞に連載された小説だそうで、校正を経た単行本が発行されたのは37年の6月となっている。45年ほども前のことで、ここに描かれている京都の情景は、今日から見れば、ずいぶんと様変わりしているだろうことは想像に難くない。ほとんど別の町になっているかも知れない。そのように思ってみてもなお、この本に書き留められた京都の気配は、JR東海のキャンペーンに勝るとも劣らない京都への誘いとなっているように思う。

 文庫本の行数にしてわずか10行のエンディングが描き出す情景の静かさと美しさ、余韻が、僕はとても好きだ。
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by mono_mono_14 | 2008-01-31 19:19 | 本/libro | Comments(0)

旅のおとも ──なぜか紀伊路へ(4)

Vi presento i due libri tascabili accompagnati al mio piccolo viaggio. leggeteli.

 長旅なのはわかっていた。東京からの時間距離で最も厳しい位置に置かれているエリアの筆頭が尾鷲とか熊野の辺りなのだ。8時半に東京駅を発って、2時間ほどの松阪牛休憩を挟み、紀伊勝浦駅に着くのが5時前なのだ。この時間距離、ある意味、ハワイだ。行ったことないけど。
 うかつなことに、持参した文庫本は1冊きりで、途中、うとうとしたりもしながら、往路だけで読み終えてしまった。厳選の1冊は、『古都』by川端康成。byって。なにゆえ『古都』か。古道の辺りとかけたのか。ノン、ノン。ノンって。実のところ理由と呼べるような理由はないのだった。敢えて言えば、西向きの新幹線に乗る辺りが方面として京都であることか。いくらなんでも敢えて言いすぎだろう。

 往路を体感した僕からすれば、復路も長旅であるのは地下足袋も袋であるのと同じくらい明らかなことだった。袋だよね? 従って、なけなしの1冊を読み終えてしまっていた僕は、紀伊半島を北上する特急に乗り込む前に、何としても適当な1冊を入手しなければならないのだった。頼りはキオスクだ。キオスクで文庫本を買ったのは、もしかすると初めてかも知れない。舞城王太郎の『スクールアタック・シンドローム』。なにゆえ熊野古道からの帰り道に舞城なのか。しょうがないじゃないの、キオスクだもの。みつを。

 僕はかつて四日市に住んでいたことがある。内部川(うつべがわ)という、セピア色の思い出がさらさらと流れるこの川を電車ががたごとと渡っていく時は、しばしページから顔を上げ、上流の方角へと目を向けた。電車は四日市駅にも停車したのだが、僕は近鉄しか利用した記憶がなく、残念ながらJRの駅や辺りの景色には何の感興も湧き起こらないのだった。
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by mono_mono_14 | 2008-01-27 00:00 | 本/libro | Comments(2)