キルギシアからの手紙

 『Lettere dalla Kirghisia』という原題なのだが、翻訳ではなぜか『誰もが幸せになる 1日3時間しか働かない国』などというタイトルになっている。通常、絶対にこのテの本は買わない。読むこともしない。そう思う。なのに、あまり吟味もせずにアマゾンしたのは、ひとえにイタリアの本であって、イタリアでそこそこ売れているらしいという触れ込みだったからであって、それ以上でも以下でもない。このビヘイビアこそが伊コヒイキの伊コヒイキたる所以だ。と胸を張る。ぐい。張った胸よりも腹の方が前にある。ぽこ。そんなところが愛くるしい。誰もが幸せになる甘美なる曲線美。



 一読してキルギシア(というカナになっているのだが、母音に挟まれた1つのsはキルギジアと濁るんじゃないのか? という僕の思い込みがまつがいか?)を羨ましく思えるほどピュアにはできていない僕だ。
 通常、誰かの稼ぎ(収入)は誰かの支払いに負うはずだが、それにしては支払う場面が少なすぎる。稼げない。支払う必要がないから稼ぐ必要がないという状態だとしても、インフラはじめ提供される公的サービス水準を確保するために投資を要する部分はどうしてもあるはずで、そこは苦もなく国家が何とかできてしまっている。国家運営の原資(財源)の出所が見えない。まあ、例えばこぢんまりとした産油国とかならこういう社会を達成できるかも知れない。言い値を喜んで支払ってくれる人が国外にたくさんいれば、国内は何でもかんでも無料の公共サービスにしてしまうこともできるだろう。日本国やイタリア共和国に当てはめるのは、とてもとても難しい。

 では、まったく意味のないお話だったかと言うと、そうとも言えない。おそらく、著者の意図も国家体制がどうのこうのというところにはさほどないと思う。読者が考えるべきなのは、人生は有限であり、その人生は、それを自ら生きる人が、自らの責任でデザインすべきだろう? という問いかけへの答え方だ。

 邦題に顕著な、働く時間が3時間で済むのが幸せ、というニュアンスは、働くことが自らのデザイン意思の及ばない領域と見なされていることの表れだと思う。働く時間が短いことが直ちに幸せだとはとても思えないが、やりたくないことをやらなければならない時間が短いことは直ちに幸せだと思えるので、働く時間が3時間で済むことが幸せだというのは、やりたくないことをやらなければならないのが仕事だという前提があるのだろう。思う存分、仕事ができることの幸せだってあるわけだし、むしろ、それを追求すべきだとすら僕は思う。そう思うのだが、同時に一方で、思う存分やりたいことが仕事だけでいいのか、と問えば、それは明らかに違うべきだとも思う。

 イタリアはいざ知らず、少なくとも日本においては、何となく残業はするものだ、残業してる人ほど偉い、という空気が流れている職場は、少なくないのではないかと想像するが、労働時間を3時間にすることは不可能でも(実際は、よくよく省みれば、正味3時間も働いていないユルい1日も時々あるんじゃないかとは思うが)、残業を目に見えて減らしてみることは、たぶん可能だ。飲み会が集中した週は、けっこう残業少なく回せているもので、それは経験に照らせる人も少なくないだろうと思う。つまり、やればやれるものなのだと思う。そして、その用件は、別に飲み会でなくてもいいはずなのだ。と言うよりも、飲み会なんかよりも、自分が思う存分やりたいことを充てた方がいいのだ。そうしてみても、何だかんだで回せるはずなのだ。
 こういうことをマネジメントと呼んでもいいし、リデザインと呼んでもいいと思うが、自分の時間をどう使うべきか、は、どう考えても、もっと真剣に考えてよいことだな、と、人生を半分ほど(希望的観測)費やして、ようやくそんなことがわかってきたクワラントゥーノである(言いにくいぞ)。ただ、リデザインのつもりがリタイアだった(仕事とそれ以外のバランスを適正にしたつもりが、単に仕事から落伍しただけになってしまった)、という事態に陥っていないかの見極めが、とても難しいのが難点ではある。

 ・・・というようなことを考えたのは、この「キルギシアからの手紙」のおかげ、というわけでは必ずしもなく、僕的にはむしろ別の本に触発されたところが大である。
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by mono_mono_14 | 2008-07-07 00:51 | 本/libro | Comments(3)
Commented at 2008-07-08 23:50 x
ブログの持ち主だけに見える非公開コメントです。
Commented at 2008-07-08 23:53 x
ブログの持ち主だけに見える非公開コメントです。
Commented by mono_mono_14 at 2008-07-09 12:39
>>両鍵コメさま
ご無沙汰しております。夏ですね。今日の東京はたまたま薄曇りのさほど暑くない1日ですが、いや夏が来ましたよ。せっかくなので楽しみましょう。

僕の仮説としては、シゴトの結果をクオリティで判断できない(あるいはその判断を控える)ので、投じた時間の長さを評価する(あるいはそれを言い訳にする)という構造だ、と思います。出て来たモノは微妙にショボいけど、あれだけ時間をかけてたから、まあ、いいことにするか、みたいな。自分の時間をデザインするためには、ショボくない結果をさくさくっと出す、これしか手がないかな、と。ホントにショボくないかを吟味できないと、使えないヤツというラベルを貼られて終わってしまうので、そこが、ホント、難しい。
・・・などと思うわけですが、でも、お互い、気負わずに頑張りましょう〜。で、一緒に飲んだりしたいです(笑)。

最後のは、自分の24時間のデザインに興味がある人であれば、立場を問わず面白く読めると思います。
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