中沢新一の紡ぐ小宇宙

 中沢新一の『ミクロコスモス I・II』を読む。完走しただけが取り柄の長距離走のように、読み終えたというだけで、理解したとは、とても言えない。悲しいことではあるけれど、まあ、仕方のないことでもある。2枚組アルバムのように出版されたこの2冊は、「ミクロコスモス I」の方がオフィシャル色が強く、「ミクロコスモス II」の方がざっくばらんな気配が濃いそうで、言うまでもなく、僕が読みやすかったのは「II」だ。書名の「ミクロコスモス」は、バルトークが書いた膨大なピアノ曲集に由来する。このピアノ曲集は、バルトークが私的に編み始めたピアノ練習曲を源流に持つのだそうで、そういう曰くに惹かれがちな僕としては、中沢が紡いだミクロコスモスに次いで、バルトークが編んだミクロコスモスの世界を少し覗いてみたいような気持ちがしている。
 まえがきやあとがきを除くと、長短全27編の文章がある中で、僕がいちばんおもしろかった1編は「庭園は民衆の阿片であった」であった。であったであったってウルルンか。この文章は、中沢が「愛・地球博」の準備に燃えていた(?)頃に書かれたランドスケープ試論で、日本の里の風景(そして、その背景にあった暮らし)が携えていた価値に、改めて光を当てている。「耳のための、小さな革命」もおもしろかった。日本人が脈々と受け継いできた(はずの)ものの考え方に依って立てば、日本人こそが、「指輪物語」に登場する「ホビット」になり、混迷する世界を救える可能性を秘めている、という主題には、小さく勇気づけられるところがある。もっとも、トールキンの「指輪物語」を読んだこともなければ、5点満点で10点を与える評者がいるほどの傑作だったらしいシリーズ映画「ロード・オブ・ザ・リング」も観ていない僕には、ホビットがちょびっとわからないのであった。少し冷えましたか? 「芸術とプライバシー」もおもしろかった。
 ともあれ、例えば、グローバルスタンダードや成果主義、データで説明できないことを顧慮しない態度などからこぼれ落ちていく、叙情的だったり神話的だったりする価値観を再評価しようという、この作品を貫くテーマメロディは、僕の耳に、ずいぶんと心地よく響いたのだった。とは言え、おそらくこの2枚組アルバムのハイライトトラックであろう「哲学の後戸」や「孤独な構造主義者の夢想」の前には、あっさりと白旗を掲げつつ膝を屈したのであった。悲しい。
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by mono_mono_14 | 2007-07-13 16:32 | 本/libro | Comments(0)
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