『藤森建築と路上観察』展

Mi sono visto una mostra architettonica. La stessa mostra e' stata esposta a Venezia in 2006. Che se ne sono visti gli italiani?

 オペラシティのアートギャラリーにて開催中の『藤森建築と路上観察』に出かける。壮大な夏休みの工作のような、あるいは屈託のない文化祭のような、脳天気──と言うのは、きっと、スコーンと抜けるような青空からピーカンの陽射しが降り注ぐような、脳が喜んじゃってシゴトどころじゃないお天気のことだ──なヴァイブが、オペラシティのアートギャラリーを満たしていた。夏休みのようなにおいがする。実際に、木や草のにおいに溢れている。と言うか、木や草がてんこ盛りだ。靴を脱ぎ、むっとする草いきれにむせそうになり、竹を編んだ秘密基地(ちっとも秘密になっていないが)で路上観察のビデオをまったりと鑑賞する。建築展なんですか、ほんとなんですか、ほんとですか、そうですか。ヴェネツィアへ持って行ったんですか、ほんとなんですか、ほんとですか、そうですか。路上観察とか、イタリアのコンテクストでも楽しんでもらえるんだろうか。
 キワモノかイロモノと思っていた藤森建築は、まあ、確かにキワモノ感やイロモノ感もないではないのだけれど、展示を観ているうちに、これはこれで真っ当な存在だなと感じたし、むしろ過度に手の痕跡が残るディテールは、好もしく見えさえした。実物を体験したい。どこがいいだろう。やはりラムネ温泉館か。ラムネ温泉館ってどこにあるんですか、大分ですか、そうですか。大分に行くなら違う温泉に入りたくなってしまうような気がするな。
 藤森の卒業設計が展示されていた。図面を丁寧に読んだわけではないけれど、今の藤森建築からは想像もできないような、どこかしらアーキグラムとメタボリズムが合流したような思いがけないメガストラクチャーの設計案だった。当時の藤森のアイドルは磯崎新だったそうだし、時代もそういう時代だったのだから、当たり前と言えば当たり前のことだけれど。1970年頃の卒業設計が「東京計画2107」だったらおかしいもんな。

 建築は、どうにかこうにかしてつくられなければならない。それは、コンピュータが複雑な形態を導くようになっても変わらないことで、そのことを伊東豊雄が同じオペラシティのアートギャラリーで催された展示で物語っていた。藤森建築は、ずいぶんとプリミティブなところへ立ち戻って組み立てられているが、それは、建築がどうあっても逃れられない大命題=どうにかこうにかしてフィジカルにつくられなければならない、という地点から改めて遙か彼方を見晴るかしてみたら見えてきた建築なのではないか。この視線や態度の先に、滅びつつある(?)日本の「手の技術」が再び興ってくることがあったら、それはどんなにか素敵なことだろうと思う。
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by mono_mono_14 | 2007-05-13 23:59 | 文/cultura | Comments(2)
Commented at 2007-05-14 23:21
ブログの持ち主だけに見える非公開コメントです。
Commented by mono_mono_14 at 2007-05-15 10:10
>>鍵コメさま
楽しく読んでいただけたのならよかったです。もっとも、そもそも、ひとえに鍵コメさんのおかげだったりするわけです。どうもありがとう。
確かに重力に挑戦する宙づり系茶室(どんなだ)もいいですね。ほとんど「おおきなきがほしい」(という絵本ですが、ご存じですか?)の世界です。温泉館にしたのはもしかして混浴かなーと思って。っておい。
某公団の団地鑑賞は、ほんとにくだらなくてぐっとくるので、ぜひ味わってみてください。
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