熊谷達也『七夕しぐれ』

 熊谷達也『七夕しぐれ』を読み終える。就寝前に飲んでしまったエスプレッソのせいだと思われる胸焼けと覚醒。日曜日が遠のいていく、つまり月曜がやってくる晩にも関わらず寝つかれない。すみやかに寝ることを半ば諦め、この本を手にし、そのまま一気に読み通した。

 確か先週の日曜日の書評だったと思うけれど、もしかしたら先々週だったかも知れない。要約すれば、これまで幾人かの友人に勧められていたのだけれど、なぜか読まずにいた熊谷達也の新刊を読み、これまで読まずにいたことを恥じた、私はこの本で少年というものを知った、という感じの書評があり、それに乗ってみようという気になったのだった。そんな書評を書いたのが誰かというのを覚えていないところが僕の魅力なのだけれど、同じく作家を生業としている女性の評だったように記憶している。

 仙台を舞台にした昭和の回想録。どうやら作家をしているらしい語り部が、小学校5年生の頃の思い出を語る。僕が過ごした昭和よりも少しだけ古いような気がする。著者の熊谷は1958年に仙台で生まれたそうだから、本人の昭和、つまり5年生の頃に40年代に入った昭和だと考えていいんじゃないかと思う。
 以下、内容に触れる部分があると思います。

 子どもの世界。それを取り巻く大人の世界。端的に言えば差別やイジメの問題が描かれており、それに立ち向かう生き方が示されている。小学校高学年の自分を思い出し、状況に重ね合わせてみる。あの頃、昭和50年代らしいタッチで僕もイジメたりイジメられたりしたのだし、すごい先生もいれば、子どもながらの直感としてコイツは胡散臭いと思わせられる先生もいたのだった。住んでいる地区や職業などに起因する差別はなかったと思っているが、それでも子どもなりに誰かに媚びたり、誰かを蔑んだりしていたようには思う。いずれの場合もいくらかの苦い気分とともに。子どもだからのほほんと生きているわけではなく、子どもなりに必死に毎日を過ごしていたわけで、その感じが、ちょっと出来過ぎな感もあるストーリーに瑞々しく溢れ出ている。

 ビート感というかグルーヴが、少し舞城王太郎に似ていると感じた。文体やストーリーはもちろん似ていないのだけれど、醒めたようなあるいは達観したように現実の不条理を描くその裏側に、理想的なあるいは信じている正義のあるべき姿がくっきりと浮かび上がる。不遜にも率直に言ってしまえば、やや「浅い」あるいは「青い」と感じてしまう部分も残しつつ、だがグルーヴィに疾走してしまう。いみじくも重要な場面でストーンズが取り上げられるのだが、若かりし彼らの演奏が浅く青かったにも関わらず、彼らが放つ疾走感溢れるグルーヴに世界中がヤられてしまったのと同じように。
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by mono_mono_14 | 2006-12-04 23:59 | 本/libro | Comments(0)
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