都市と日本人とカミサマ

Ci sono tanti dei in Giappone ed una montagna sarebbe quella una per una provincia. In un libro di Atsudhi Ueda titolato "Citta' e Giapponesi" un'idea urbanistica e' mostarata che fare la quartiere con la scuola elementare e la vista montana.

 同業他社勤務の友人に紹介されて、上田篤が書いた『都市と日本人』を読んでみる。副題に「「カミサマ」を旅する」とある。日本各地を訪ね歩いて思い巡らした“カミサマ都市計画”が述べられている。
 旅の過程は、面白かったり、ちょっと飛躍しすぎで興ざめしたり、何て言うのか、上昇下降、三寒四温(違)、出入りの激しいゴルフでイーブンパーでホールアウト、という感じなのだが、むすびで展開された彼の提案は、なかなかにおもしろかった。

 ひとことで言えば、山が見えるということを大事にして街をつくろう、という話だ。地域ごとにその地域が誇りにしていたり、この山に守られていると信じられている山がある。これらの山を、まず、お城から見えるようにする(例えば、松本では松本城の周りの建物高さをコントロールして北アルプスが望めるようにしているらしい。盛岡でも岩手公園(城址公園)から岩手山が見えるように高さコントロールをかけている地区がある)。次いで、主だった橋からも見えるようにする(盛岡では橋からの眺めを守るための規制もかけている)。さらに、小学校の校庭からも見えるようにする。ロンドンでは聖ポール寺院が見えるように建物を低くしてしまったりしたのだが、それに近い作戦だ。
 ついでだから、その小学校を中心に、小学校区をひとつの自治体にしてしまう。自治体と言われると荒唐無稽の感が強まるけれど、例えばイタリア語の「campanile」が鐘楼であり故郷であるのは、あの鐘の音が聞こえる範囲がオラが村、の意だと読んだことがあるが、ノリとしてはそれに近い。京都などでは、元学区と言って、昔の小学校区をとても大切な地域のまとまりとしているらしい。ヨーロッパにおける街や村の教会と、日本における街や村の小学校は、精神的には相通じるところがあるかも知れない。
 しかし、その山が望み拝むのに値する状態なのかというと、あまりにお粗末な様相じゃないか、と上田は言う。確かにね。でも、その解決策が、亡くなった人の埋骨だ、散骨だ、人も山に還るべきなのだ、と熱く畳み掛けられたりするからちょっぴり引いてしまう本なのだが。

 ヨーロッパの都市が教会と広場を芯にした「リンゴ型」の都市で、人々もその芯を基軸に暮らしているが、日本は集落が細い道でつながれた「ブドウ型」の都市で、それを支えているのは、集落群をすっぽりと取り囲む山々であり、人々も山を仰ぎつつ暮らしを律しているのではないか、という指摘は、興味深い都市の見方だなと思った。
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by mono_mono_14 | 2005-08-12 18:46 | 本/libro | Comments(0)
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