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連載・東北紀行(第1回)

0.はじめに
 7月の初旬に駆け足で東北の津波被災地を巡ってきた。遅ればせながらの視察旅行の末席に連なったのだった。それからまた2カ月が経過した。今さらながらに思い立ち、ここに若干の記録をとどめておくことにした。私的感傷にとどまるかも知れず、したがって、書き、公開することの意味があるかは、やや心もとなくもあるが、やってみることにした。行程に沿って北から下っていく。初志貫徹できれば十数回程度の連載になる見込みである。もっとも、原稿を書きためているわけではないので、掲載は不定期にならざるを得ない見込みでもある。どうかご容赦のほどを。ともあれ、始めてみることにする。

1.普代村
 水戸と言えば黄門だが、普代と言えば水門だ。…。秋冷。
 普代川の河口からざっと1.5kmほど遡ったところに普代村(ふだいむら)の中心市街地がある。その市街地を守るために、河口から500mほどの位置に普代水門はある。高さは15.5m。その高さ15.5mの水門を、津波は乗り越えていったのだと言う。だが、その水勢の相当程度を水門が殺いでくれた。そのおかげで、市街地には大きな被害が及ばなかった。普代村は、三陸沿岸にありながら、今回、居住地は津波の被害をほとんど受けなかったとされる。
 高さ15mと言えば、5階建ての団地住棟に匹敵する。川幅いっぱいに並んだ5階建ての団地のような水の壁が、猛烈なスピードでこちらへやってくるのだ。想像しがたい。おそらく今回の地震津波が川を遡るさまは、どの川でも想像のはるか遠く及ばない光景だっただろう。だが、そのことをはっきりと想像できた先人が、この水門をつくったのだ。
 水門があったから助かった、というだけではない。報道によれば、自動で閉まるはずの水門がトラブルで閉まらず、駆けつけた係員が手動で閉門したそうだ。とにかく水門を閉めるということが、頭ではわかっているというようなことではなく、それこそ身体にしみこんでいたのだと思う。
 普代川に沿って海岸に出て、ほんの少しだけ南に下ったところに太田名部(おおたなべ)という地区がある。壁のような防潮堤がそびえ立っている。これも高さが15mあると言う。防潮堤の外側にある太田名部漁港や漁業関連施設などは津波に襲われ、大きな被害を受けた。しかし、津波は防潮堤を越えなかった。市街地は無傷で守られた。3月10日と変わらない街並みが、3月12日にもそこにあった。三陸沿岸の低地にそういう地区があることは奇跡だとしか思えないが、たぶん、この防潮堤をつくりきった普代村の先人の揺るがぬ決意と実行力こそが、奇跡だったのかも知れない。
 太田名部の防潮堤に上がる。おりからのやませが運んできた霧に家々が包まれている。漁業施設の被害が甚大なので、生活への影響もきっとあるだろう。でも、変わらずここに家があり、家族がいて、暮らしがある。その奇跡をかみしめる気配が家々から細く静かにたちのぼり、白い濃霧に溶けていく。
 Googleマップの航空写真は、かなり早期から被災後に撮影された写真に切り替えられている。もし時間と興味があれば、普代村を空から見てみてほしい。赤やら青やらの屋根が、当たり前のようにそこに見えているから。そんな当たり前の光景に驚かされるという状況に、改めて愕然とする。

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上流側から見た普代水門。管理用の橋が落ちた。

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太田名部防潮堤から家々を臨む。奇跡の風景。

by mono_mono_14 | 2011-09-12 11:01 | 街/citta | Comments(0)
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