『自転車泥棒』

Grave, troppo grave... C'erano tante cose da pensare nel film classico "Ladri di Biciclette" per me come un lavoratore, ed anche come un padre.

 働くこと、生活の糧を得ること。不遇の弱者だという現実的な自覚、強き父であらねばという理念的な規律。やり場のない理不尽、吐き出し先のない葛藤。いっぱいいっぱいで、望みのなさ加減を感じながら、それでも何もかも受け入れて疑いなく生きていくこと。おまえはどうよ? と問いかけられ続けている。
 『ライフ・イズ・ビューティフル』でロベルト・ベニーニが演じる男の生き様を見せつけられた時にも、同じようなことを感じたことをよく覚えている。ああいうふうに僕は振る舞えるだろうか。子どもに未来への希望だけを残し伝えながら、逃れようのない死に向かう最後の数十秒を笑顔で過ごせる、などということができるだろうか。
 僕はどうだろう? 必要な時になりふり構わぬ一途さを発揮できるだろうか? 『自転車泥棒』、ズシンとキツい。

 タイトルにある泥棒は「Ladri」と複数になっている。おもむろに場面の速度とテンションを上げる最終盤に、ふたりめの泥棒が現れた時のやりきれなさ。受け止めきれないほどのそのやりきれなさを、うっすらとした未来への希望へと転換していくラストシーン。くたびれ果てた親子(俳優ではなく素人なのだそう)が、ほとんどセリフのないままに、その希望を築き上げていく。その絶望的なやりきれなさとほのかな希望とがないまぜとなった画面に「FINE」の文字が浮かび上がり、その混乱のままに放置される。言葉に置き換えられないだろうと思いながら、本稿を書いてみている。

 キツくツラい中にも、古き佳き時代(アメリカだけでなくイタリアにもそう呼べる時代があったに相違ないと思う、そしてもちろん日本にも)という語を想起させる人間的な暖かみと誇り──とにかく生き抜くしかないじゃんという揺らがない意志の尊厳さと、誰かの必死に生きるためのそういう懸命さはお互いに尊重するという感じ──が、静かな静かな伴奏のように常に感じられる。そのことが、今の時代、終戦直後の混乱のようなわかりやすさを伴わない混乱の渦中に、この映画に触れる意味を持つ。

 会社帰りに街かどの本屋で購入。380円。版権フリー状態を迎えた古い映画のDVDが、わずか380円で小さな本屋で売られている、というのもすごい。イタリア語が聴き取れる箇所がほとんどない、というのもすごい(ちっともすごくない)。
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by mono_mono_14 | 2010-10-02 13:17 | 文/cultura | Comments(0)
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