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堀江敏幸『熊の敷石』

Alcuni anni fa ho letto dei libri da Toshiyuki Horie ma dopo questo periodo non ho letto niente di lui. Adesso il suo tempo arriva a me ancora. Ho letto un libro titolato "Kuma no Shikiishi (pavimenti di orso)". E' molto interessante, viene a me come il vento o l'onda, a volte calmo a volte forte, mi sono fluttuato comodamente.

 『回送電車』というどこかしらもの淋しい余韻のあるタイトルに惹かれ手にした本は、同じくどことなくもの淋しい、あるいはいくらかよそよそしい余韻をたたえたエッセイ集で、何の気なしに購入した書籍としては“当たり”の部類に入るものだった。この本が堀江敏幸の作品を知った最初だったか、それとも『郊外へ』だったか。居住まいを正したくなるような端正な文章は、時にほのかに甘く、時にほろ苦く、とても心地よくはあるのだけれど、受け取りようによってはちょっぴりお高くスノッブに感じられることもあり、もしかすると僕の気持ちがささくれ立っていたのか、最初に2、3冊を読んでからしばらくの間、別の作品を手に取る機会はないままになっていた。最近になってまた、書店で背表紙を眺めていると、堀江敏幸という名前が目にとまるようになり、ようやく『熊の敷石』に、次の一歩を踏み出したのだった。
 芥川賞を獲ったタイトル作の『熊の敷石』も、端正なぶん、いくらかの翳りを携えたような文章が、風のように波のように、強まったり弱まったりしながら、作品の世界へ連れていく。読みながらゆったりとしたピアノ曲がどこかから(隣家の開け放たれた窓からとか)聞こえてくるようだった。友人との再会、アトリエへの小旅行、モン・サン・ミッシェルを望む海、質素な食事、昔話、翻訳の仕事。描かれる状況はとてもわかりやすく、しかし、そこに熊のぬいぐるみのように横たえられた、たとえばユダヤ人のたどった歴史、信仰、家族、定着と漂泊といったことがら、そして何よりも、タイトルとなっている「熊の敷石」という僕らには馴染みのないフランスの慣用句を通じて投げかけられている“何か”は、けっして簡単に腑に落ちるようなものではなく、むしろ僕に落ち着かない気分、不慣れが強いる緊張のような感覚をもたらし、気がつくと息を詰めている。柔らかなピアノの調べのような風にまかれ波にのまれている。とても気に入った。もう何冊かは彼の作品を読み継ぐことになりそう。『熊の敷石』には、写真、翻訳、海、直感に基づく説明しがたい友情、歯の痛みと、今の僕の関心事が並んでいた。
 僕が手にしたのは(もちろん)文庫版なのだが、解説を川上弘美が書いていた。最近の作家さんを求めている僕の次のチャレンジは、たぶん川上弘美ということになると思う。
# by mono_mono_14 | 2005-04-07 23:59 | 本/libro

20年の時を経てアンフィールドで

L'andata dei quarti di Champions a Liverpool la Juve e' stata battuta 1-2 ma al ritorno nella prossima settimana fara' un bel risultato a Torino. Quest'incontro e' la prima volta dopo la tragedia allo stadio Heysel in Bergio di 20 anni fa ed invece allo stadio Anfield oggi tutti mi sembravano di divertirsi un bel sport.

 UEFAチャンピオンズリーグの準々決勝、リヴァプール対ユヴェントス戦の生中継がフジテレビであったので、眠い目をこすりつつユーヴェを応援する。しかし、前半はメタメタだった。あのレベルの選手たちでも、ちょっと入り方をミスって萎縮すると“う゛ぁー、ボール、こっち来ないで(祈)! 症候群”に罹るんだなあ。ばたばたしてたのは、テュラム、カンナヴァーロ、エメルソンという守りを安定させるはずの後方中央の選手たちだった。ブラージは存在感がなく、ゼービナも今ひとつ安定感を欠いていた。そんなユーヴェは、疾走するリヴァプールの前に前半25分までに2失点。その後、イブラヒモビッチのポストを叩くシュート(そこに至るまでの数人が絡んだパス交換、よかった)、ネドヴェドとの美しいワンツーからのデル・ピエーロのシュート(決め損ねた)、オフサイドと判定されたデル・ピエーロの幻のゴールと、いくつかの好機を演出できるようになり、どうにか試合のペースを取り戻しながら前半を終える。
20年の時を経てアンフィールドで_b0018597_1541259.jpg 先発のデル・ピエーロは、絶対、途中交代させられると思っていたので、前半の活躍を念じていたのだが、悪くもないがキレキレでもなかった。どことなくキックのフィーリングが合っていない感じ。でも、この過度にアップテンポな試合の中で、いい意味でテンポをズラせるプレーヤーで、ユーヴェがマイペースを引き戻すためには必要な感じがした。落ち着いていた。やはり後半15分にトレゼゲと交代してしまったが、そのトレゼゲは仕事らしい仕事ができず、イブラヒモビッチとのコンビネーションも最悪に近かった。
 ブラージに代わり後半開始から投入されたペッソットが、ユーヴェのリズムを取り戻す上ですごくいい働きをした。ちょっと見くびってました、ごめんなさい、という感じ。豊富な運動量とシンプルすぎるほどのシンプルなプレー。周りの選手もやりやすくなったように見えた。テュラムも前半とは見違える安定ぶりを見せた。リヴァプールの勢いが落ちてきたおかげもあったかも知れない。コーナーキックが逆サイドに流れ、ザンブロッタが入れたクロスをカンナヴァーロが気迫のヘディングで貴重なアウェイ・ゴール。いいヘディングだったけど、キーパーが止められたシュートだった気がする。2対1という敗戦は、さほど悪い結果ではない。来週のトリノ(これは放送がなさそう)で帳尻を合わせてくれるはずだ。

 20年前の“ヘイゼルの悲劇”の払拭を負わされたこの試合で、フェアプレーを必死に演出する主審の判定は、心なしかユーヴェ寄りだったように見えた。39人が命を落としたヘイゼル・スタジアムでは、その混乱のまま試合が行われ、ミシェル・プラティニのPKでユーヴェが優勝した(12月にはトヨタカップも獲得)。父は、こんな状況で試合をするなんて不謹慎だと半ば怒り、僕は、しょうがないよ、中止は人々を余計に煽る、なんていういい加減なことを言ったような記憶があるが、今から思えば父のごくごく普通の感想に理があるような気がする。
# by mono_mono_14 | 2005-04-06 23:33 | 蹴/calcio

トイレに炭を置いてみている

Recentemente metto delle carbonelle al bagno per pulire l'aria. Sarebbe bene. Io sento che l'aria diventa piu' fresca di prima. Fraintendo o no, se io sento bene conta a farlo. Mia madre usa delle carbonelle a casa da 10 anni.

 いろんなことに炭が効くらしい、というふうになったのは、いつ頃からだろう。活性炭が入った靴の中敷きとかは昔からあったように思うけど、むき出しの炭がちょっぴりインテリアも兼ねたりしながら、居間の片隅やベッドサイド、トイレや洗面所などに置かれているのをあちこちで見かけるようになった。僕の場合、母がどこかから炭が効くらしいと聞きつけて、小さな竹カゴに炭を並べてテレビの上に置いたりしていたのが、“炭の時代”の幕開けだったと思う。電磁波を和らげるのだとか言っていたような気がする。それがなんだかんだで10年以上前のことだっただろうか。
 そして最近、ようやく自分の家でもトイレの隅っこに炭を少し置いてみている。ちょうど1週間くらい経っただろうか、心なしか空気感が澄んできたような気が...。たとえ錯覚だとしても、何だか違うという気になるというだけでもすごい効果。モニタリングを継続してみるつもり。
 炭と言えば、うっかり建築学科などというところに在籍し、そして落伍していった僕も、授業の一環で木炭デッサンなんていうのをやったことがあり、その時に「いづみや」(当時。現在の「tools」)かどこかで安い木炭を買った。20年前のこと。その木炭は、ほとんど絵に変わることのないまま出番を失い、なぜか実家の父の書棚の片隅にまだ残っている。炭全盛期を迎えても環境グッズとして再利用されている様子はない(当たり前か)。土曜日の午前中、イーゼルに向かって木炭を滑らせていたなんていう瞬間が、そう言えばあったのだった、懐かしい。
# by mono_mono_14 | 2005-04-05 23:59 | 雑/quotidiana

お茶のココロ

Oggi una nostra collega ha fatto un te' giapponese a tutti di noi. Come sapreste ci sono delle etichette per fare il te' giapponese, e purtroppo noi di oggi le non abbiamo fatto tanto bene ma il te' e' stato veramente buono. Avremmo delle occasioni cosi' ancora.

 ひょんなことから会社でお抹茶を点ててもらった。
 子どもの頃、冷蔵庫のポケットに入っていた、グリーンティーと呼ばれていたんだったと思うが、かき氷にかけたりミルクで溶いたりしたちょっと甘い緑色の粉が、僕にとっての最初のお抹茶のつもりだったが、たぶん、あれはお抹茶ではなかったのだろう。すると、あれは間違いなくお抹茶であったと確信を持てる初めてのお抹茶体験は、たぶん会社に入ってからのことになるから、ずいぶんと奥手だったと言えそうだ。いろんな街を見て回るのも研修のうちということで、会社の若手がこぞって出かけた京都で飲んだのを覚えている。
 画期となったのは、ちょうど1年前の今頃のこと。新宿の京王百貨店の一画で催されていたお茶席に、お茶をたしなむ友だちに誘われるままに足を運んでしまったという出来事で、ある意味、まさに春の椿事であった。デパートとは言え、曲がりなりにもお茶室に上がり、お茶を点てる一連のプロセスを拝見し、お菓子とお茶をいただいた。隣で友だちが作法を簡単にガイドしてくれたものの、やっぱり上がってしまったと思う。お茶碗を愛でようと掲げたら、お茶碗を見るのは○だが高々と掲げるのは×だった、とか、いろいろ惜しいところで裏目に出たり。でも楽しかった。お作法はピンと来なかったけれど、お道具はすべて工芸品なわけで、つまりプロダクトデザインという、割と馴染みの視点から見ても楽しめたのだった。その数ヶ月後にも、再び京王百貨店で、今度はお茶室ではなかったけれど、またお菓子とお茶をいただいた。
 その程度ならば予習していたはずだったのだが、今日は作法やマナーの面では、なにひとつ満足にできなかったような気がする。だけれど、それでもやっぱりお菓子もお茶も変わらず美味しかったのだった。お茶をいただきながら、数年前の『BRUTUS』のお茶会特集号(486号(2001年9月15日号))とか、田中一光のエッセイ(たとえば『「茶美会・然」への道』(白水Uブックス『デザインと行く』所収)とか)を思い出したりした。今のところお茶を習おうとは思わないけれど、茶の湯が体現しようとしている遊び心に満ちたしなやかなおもてなし、そのココロは、少しくらい身につけたいと思う。
# by mono_mono_14 | 2005-04-04 23:59 | 文/cultura

Il mondo piange... 世界が涙している

Il Papa e' morto e tutto il mondo piange. Anche in Giappone tanta gente cattolica piange e fa le orazioni per il Papa. Mi sembrava una buona persona. Addio.

 イタリア語を習い始めてまだ日が浅い頃、「お父さん」の意味のpapa'を日本語ふうにひとつ目のパの方をやや強めに「パパ」と読んだら、後ろのパにアクセントを置かないと「お父さん」の意味のパパにはならないと注意された。敢えて書けばパパー。最初のパにアクセントを置いたパパ(同じく敢えて書けばパーパ)は、ローマ法王を指すんだよ、と。胸で十字を切りながら。

 カトリックとはまったく無縁な僕だけれど、ローマ法王ヨハネ・パウロ2世はとてもチャーミングなおじいちゃんに見え、とうとう亡くなられたとの報には、なんとはなしに「あぁ…」と感慨めいた思いが起こった。イタリアの日刊紙『レプッブリカ』のウェブサイトが、世界がパーパに涙している(Il mondo piange il Papa)との見出しのもと、ローマ法王の死去を悼む世界各地の写真を33枚掲げていた。1枚だけあった日本の写真は、四ッ谷の聖イグナチオ教会で祈りを捧げる人たちの姿だった。
# by mono_mono_14 | 2005-04-03 21:06 | 伊/italia