<   2017年 08月 ( 1 )   > この月の画像一覧

劇団カクシンハン公演『タイタス・アンドロニカス』

 ウィリアム・シェイクスピア。もちろん名前は知っているし、いくつかのタイトルも知っている。もっとも、ちゃんと読んだことがあるかとか舞台を観たことがあるかとか英語で綴れるかというと、バツの悪い感じでうつむいてしまうのだけれど。

 劇団カクシンハン公演『タイタス・アンドロニカス』、観た。シェイクスピア初期の戯曲とのこと。感想的なものを残しておこうと思い。以下、ネタバレを含むかもしれないが、ひとまず今回公演は終了したようなので、まあよいのではないかと。

 会場は吉祥寺シアター。傾斜のある観やすい客席の小劇場で好印象。ざっくり200席くらいか。開演を待つ舞台の中央には無機質な台。校長先生が朝礼で上りそうなニュアンスな。その後ろにスクリーンのように掲げられた大きな白い布。モノクロの映像が映し出されている。ミニマル感あるしつらい。上手の奥にドラムセット。お、ドラムだ。なんかそれだけで説明不能な期待感を感じた(そしてそのドラムはものすごくよかった)。
定刻を過ぎ、ばらばらと白い衣装の役者が出てきて位置につき、そのまま開演。

 正しいあるいは詳細なストーリーは他に譲る。というか、ストーリーは追わない。というか、なんなら僕自身が改めて原作(の翻訳)を読む必要があるくらいなのだ。というわけで、Amazonで松岡和子さん訳のちくま文庫をポチッとしつつ、3時間弱の公演で感じたことを断片的に書き連ねておくことにしたい。

 ゴート人との戦いを制し、ローマに意気揚々と凱旋してきたタイタス・アンドロニカス(河内大和)。輝かしいその凱旋の瞬間からしかし、彼の運命は暗転の一途をたどる。落ちぶれる、没落するのとは違う。ただただなぜだか悲劇の坂を転げ落ちていき、自らも復讐の鬼と化す。タイタスに明確な落ち度があったとは思えなかった。結果として裏目に出る判断があったと言えないことはない。でも、それを責めるのは酷なことではないかという思いもする。都度の判断を逆にしていたところで、タイタスにとってめでたしめでたしというストーリーになるようには思えない。バシエイナスに皇位継承権を与え、タモーラの息子を赦していればよかったのに、という話ではないだろう。そんな単純にコトが進まない酷で苛烈な時代だったということかも知れない。いつの時代もそうかもしれないけれども。

 TED Talk もそつなくこなすエアロン(岩崎MARK雄大)。どんな正義だって見方を変えれば悪になり得る。彼が投げかけたひとことは、この作品を貫く主題的なものとして、成り行きを見守る僕に作用し続けていた。途中、役者のほぼ全員がエアロンと化す場面があった。誰もが「悪」に反転しやすいフラジャイルな「正義」を自らの内にいだいていることを表しているようだった。「正しさ(正義)」に立脚することの危うさ。逆に言えば、全ての「悪」も誰かの「正義」の横顔を持っている。狂言回し的な役目も負っていたエアロン。彼がこの戯曲において「何者」なのかは、近日中に手元に届くはずの原作(の翻訳)を読む時にも気を留めたいと思っている。

 演技の上では笑いにも片足を置いていたタモーラ(白倉裕二)。登場人物の中でも最も深い復讐の炎を燃やしている1人なのではないかとも思うが、笑いをもたらす演技とセットになっているので、その辺をつい甘く見積もってしまう。こういう笑いが混ざることについては賛否あるのだろうと思う。でも、時に苦笑や失笑も含め観ている僕が思わず漏らしてしまう笑いは、フレッシュに芝居の世界に入り込むために送り込まれる酸素のようなものだと思う。それにこういう笑いはとても演劇的な時間だし体験だ。

 紅一点のラヴィニア(真以美)。ほぼ全編を通して彼女には悲劇しか訪れない。それでいて胸に宿す復讐の念は、他の誰よりも薄いように思われた。両手と舌を切り落とされてからの佇まいは、もちろん痛々しかったし、同時に美しくもあった。どこまでも焦点の合わない哀しみに彩られていた。傷口からほとばしる鮮血を模した赤いロープの衣装(と呼ぶのでよいのか)がすごくよかった。

 この鮮血に限らず、パイプ椅子やガイコツを宙空に吊るす演出でもロープは大きな役割を果たしていた。かっこよかった。縦方向(上下)に空間を二分する照明もよかった。空間の高さを印象づけていたと思う。

 さらに、どうしても触れておきたいのはドラムのことだ(ユージ・レルレ・カワグチ)。劇伴に合わせてドラムが叩かれる。疾走とか怒涛とか表現できそうなそのドラム演奏は、ストーリーとプレイを支えるだけでなく、舞台によりいっそうのライブ感(生気)をもたらし、ストーリーが疾駆するトルクを与え、全編をグルーヴィに仕立てていた。ものすごくよかった。

 カーテンコール。どんな舞台でも、ラストシーンで暗転した舞台に再びあかりが点いた時の気分と雰囲気はなんとも言えない。高揚感、達成感、安堵感。万雷の拍手喝采。舞台に自分の居場所を見つけた人たちの近寄りがたいほどのアウラ。それを見上げる僕のいだく羨望とリスペクト。舞台上の彼らが味わっているような時間と感情のためにこそ人生はあるんじゃないかという思い。想像だけれど、舞台上から客席に対しては感謝しかないのではないかと思うのだけれど、客席の僕には、オマエはどうなんだという問いを突きつけられているような気もする。オレはどうなんだ。自問する。焦燥感がないとは言えない。ソールドアウトとかスタンディング・オベーションとか、そういう目に見える反応はあまりないけれど、僕は僕の舞台でベスト・パフォーマンスを心がけるしかない。

 ちょっとした過失を囃し立て、ネガティブな感情を増幅させ、双方の対立関係を煽り立て、ギスギスした居心地の悪い気分に追い込もうとする、寛容の足りない今日において、この救いのない復讐劇(最後には全員が死んでしまった)というボールを確信犯的に蹴り込んできたカクシンハン。僕としては、そのボールを柔らかくトラップし、軽やかなパスワークで鮮やかなカウンターを食わせたい。それこそが彼らの望むところなのではないかと思う。…まあ、実際には、そんなことを企てたら今度は右脚のアキレス腱を切ると思う(1年半ほど前に左のアキレス腱を切った)。大それたことは考えずに、自らの健康と家族を大事にしよう。唐突に「家族」の語を盛り込んだが、家族(親子や兄弟)のかけがえのなさ(時にやりようのなさも含む)も彼らから投げかけられたテーマの1つだったのではないかと思った。

 梅雨どきのような夏休みの最後に味わったいい時間だった。

 謝辞。この公演のことを知り、チケット入手にいたったのは、ひとえに糸井重里さんの絶妙なさじ加減のツイッター・プロモーションのおかげです。ありがとうございました。

 おかしいな。こんなに長くなる予定じゃなかった。

[PR]
by mono_mono_14 | 2017-08-21 16:03 | 芸/arte | Comments(0)