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『カウボーイ・サマー』

 前田将多『カウボーイ・サマー 8000エイカーの仕事場で』読了。すごく楽しかった。それになんか元気になった。それが小説であれノンフィクションであれ、冒険の物語が読み手の心に届けてくれるエールというのは確かにあると思う。

 少なくとも僕くらいの年齢でカウボーイという語を知らない人はあまりいないと思うけれど、同時に、カウボーイの実際を知っている人もそんなにいないのではないかと思う。僕のカウボーイ像には、カウボーイハットとロデオ、それに西部劇やらカントリーミュージックやらのイメージが、残念なくらい適当に入り混じっている。シェーン、髪バック! すらカウボーイ枠にあるかも知れない。髪は長い友だちであることがわかりすぎるライフを送っている僕なので、それもやむを得ないと思う。2017年ともなれば、そもそもなんの話なのかわからない人たちが多いかも知れないが、それもやむを得ないと思う。

 『カウボーイ・サマー』は、40歳を前にして会社を辞めてひと夏のカウボーイ修行に臨んだ男の冒険の記録だ。目に映る景色、耳に届く音、鼻をくすぐるにおい、ほほに触れる空気、全身を試すような力仕事、何もかもが新鮮で衝撃的でもあっただろうその日々が、さながら観察日記とか業務日報のような抑えた筆致で綴られている。たぶん、なによりもまず著者自身のために、すべてをできるだけきちんと書き留めておきたかったのだと思う。そして、記録と記憶を冷静に丹念に綴じ込めた1行1行が、実はそこに熱い思いを湛えていて、亜熱帯化する東京の片隅で鈍った身体を持て余しながらページを繰る僕を、めくるめく冒険旅行に連れ出してくれる。カウボーイ的にはよくあるできごとでも、ショータと仲間たち(読者だ)には一大事で、緊張する場面では息を呑み、ひとつ解決すると大きく息をつく。缶ビールの1本でも開けざるを得ない。久しぶりにクアーズを飲みたくなったりした。買って帰ろう。…と思ったのだが昔のようには売っていないのだった。見つけたら絶対に買うボーイ! …すまん。

 もう20年近く前になるけれど、仕事で福島県原町市(現・南相馬市)にいくたびか通う機会があった。野馬追のまちだ。普通のまちより遥かに乗馬の機会が身近にあった。金曜日が打合せで、翌日の土曜日に馬に乗せてもらったことがある。機会をつくってくれたのは仕事の相手方の1人で、打合せの席からは想像もできないくらい元気ではつらつとしていた。こわごわと馬に乗り、いや、僕が馬に乗ったのではなく、馬が僕を乗せてくれたのだけど、小さな馬場をゆっくり周回した。横から見ることの多かった馬の首は、太くたくましいものだと思っていたのだけれど、鞍上から見下ろす馬の首は細くしなやかで美しかった。その印象のことをよく覚えている。僕を乗せてくれた馬もいいヤツだったが、著者がひと夏をともにした馬たちもすばらしいヤツらだったようだ。
 夢のような夏が終わろうとする夕刻。サマー・カウボーイは、すべてを慈しむようにゆっくりとクワッド(一人乗り四輪バギー)を走らせている。このクワッドを降りたら、あとはもう帰国の支度だけが残っている。ふと見ると、行く手に数頭の馬たちが並んでいたのだと言う。ショータ、帰るらしいよ。馬耳東風などというけれど、馬たちは風のたよりを聞き逃さなかったのだ。馬たちと分かち合う最後のひととき。詩情あふれる美しいシーンだった。馬の首にやさしく添えられた手、その場を離れない馬たち、カウボーイの目からあふれだす涙。クローズアップで描かれていたその場面が、ぐんぐん空撮の映像に変わっていく(僕のなかでだ)。8000エイカーのただなかにたたずむカウボーイと馬たちを見守る画面が広がっていく。そんな気がした。きっと空からやさしい眼差しで見ていた人がいたのだと思う。
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by mono_mono_14 | 2017-07-10 22:12 | 本/libro | Comments(0)

『ボクたちはみんな大人になれなかった』

 『ボクたちはみんな大人になれなかった』の読後感は、ページに綴られている映像的で音楽的な魅力をも放つ文章だけでなく、タイトルそのものにも大きく引きずられ、広げられている。うつむき、息を潜めている、いまひとつ大人になれていない自分。そんな自分を意識の表側にぐいっと引きずり出し、向き合わせられる。読んでいる僕のそのバツの悪さ、落ち着かなさと、「ボク」が生きているヒリヒリするフラジャイルな日常、グルグルと揺れ動く心情の描写とがないまぜになるうちに、疾走感あるグルーヴに飲み込まれ、読み終えている。

 どういう時代に20代を生きることになるのかは、たまたま与えられた運命的なものだ。60年に生まれれば80年代を、70年に生まれれば90年代を、それぞれの20代として生きるよりほかない。その80年代がたまたまバブル経済期だったり、90年代がたまたま失われた10年と呼ばれる時期だったりするのは、もう、どうすることもできない。そんな時代と年代の運命的な巡り合わせが瑞々しくグルーヴィに綴られている。読み進めながら、誰もがその人なりに持っている若き日の衝動をレファレンスする。僕の生きた20代は、「ボク」が駆け抜けた映画のような日々ではなかったけれど、それでも自分に置き換えて思い起こすことができるあれやこれやが散りばめられていた。「ボク」が先の見えない焦燥感のなかでエクレア工場に勤め始めた1993年、遅まきながら僕もまた社会に出たのだった。

 話は変わる。これは、たまたま今朝、若干の経緯はありつつもなんとなくイラッとして家人につっけんどんな態度を取ってしまい、それを俯瞰しているメタな自分が「これはちょっとモラハラ的なんじゃない」などと評論し、そのメタ評論を感じ取っている自分が「あいかわらず人間できてないなー」と自己嫌悪的な気分に包まれていたときに不意に湧いてきたことなのだけれど、世のあらゆるハラスメントは加害者側の甘え、つまるところ「大人になれていない」ことのなせるわざなんじゃないか。
 うっかり送られてきた友達リクエストを承認した彼女が、「ボク」の投稿にたくさんの「ひどいね」を並べるなかに1つだけ「いいね」を打つ。その行為から甘く苦いセンチメントとともに伝わってくるのは、寛容であり、信頼であり、受容である。この態度がまさに「大人」なのではないか。

 場面は穏やかながら、背後でどんどん圧を高めて疾走していくようなエンディング。すべてを包み込み、すべてを解放する、宗教的とすら言えそうなカタルシス。「A Day in the Life」の最後の和音のような響きと余韻。そして、新しい一歩を踏み出せるよう、そっと背中を押してくれる。キミも大丈夫だよって。

 この本は、今日を生きる僕らに奏でられた救済の歌だ。
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by mono_mono_14 | 2017-07-08 03:38 | 本/libro | Comments(0)