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ダニエレ・セーペ

 時にハチャメチャで、時にメランコリック。時に荒々しく、時にロマンティック。時に啓示的で、時に社会的。総じて風変わりだけれど、どこかしら馴染む。バルセロナ系にも相通じるところがある。
 おそらくジャケットとか、どこかしら惹かれるところがあったのだろう、ダニエレ・セーペの『Lavorare Stanca』を手に取ったのは、ずいぶんと前のこと。イタリア語を習い始めたりもしていない頃だったと思う。まあ、その頃にはすでに非英語非正統非邦楽に惹かれるタイプになって久しかったので、そんな棚を物色すること自体は珍しくも何ともないことではあった。
 このアルバムは、ジャケットだけでなく、聴いてみた音楽も僕を惹きつけた。音楽の印象は冒頭に記したとおりで、僕の惹かれどころも他人に説明できる感じはかけらもない。めちゃくちゃいい、というわけではないけれど、なぜだか気になってしまう、ときおり引っ張り出してプレイボタンを押してしまう。ちょっとおすすめできないのだけれどおすすめだ、という感じ。
 『Lavorare Stanca』は、ルチャーノ・ブランカッチョなる人によるイタリア語のぶ厚い解説がついている。解説と言っても研究レポートのような体裁で、見出しだけ拾っても「La poverta' e' un carattere endemico」「Una democrazia incompiuta」「I contatti che contano」「Le condizioni di lavoro migliorano o peggiorano?」といった感じで、まあ訳出は控えるけれど(と言うか断念するけれど(恥))、社会派が薫っている。この解説に引き続いて、日本語で言うところの「3K」(英数しかない日本語なんて!)なシゴトの風景のモノクローム写真がちりばめられている。こんな感じなので、社会改革系プロパガンダ音楽の性格も備えているのだろうと考えられるのだけれど、同時に、ただの茶目っ気たっぷりの浮かれたブラスバンドのようでもあり、社会派のニュアンスを切り離して音楽として楽しめる(もっとも、そうでないと音楽とは言えない。メッセージを超えたところで成立する世界のあることが音楽の特長だと思うし、もしかしたらそれこそが音楽の存在証明であるのかも知れないとすら思う)。
 ともあれ、この『Lavorare Stanca』に乗せられて、その頃に棚に並んでいた『Malamusica』もすぐさま買い足した。その後、『Jurnateri』、『Nia Maro』と新しい1枚を見かけると買ってみている。
 僕の探求心は、なぜだかなかなかアーティストのプロファイルに向かっていかないので、ダニエレ・セーペがどんなミュージシャンなのか、ほとんど知らずにいる。別に知らずにいたいわけではないのだけれど、ただ、混沌とした地中海の風と強い陽射しのようなセーペの音楽世界が僕の手元にある、ということだけで、とりあえずは十分なのだ。

 以前にもほんの少しセーペのことを書いている。よければこちらも。わざわざすすめるほどの文章ではないけれど、自分のブログだからまあいいことにする(甘)。アーティストのサイトはこちら

〜僕の手元にある風変わりなイタリアの音楽たち その1〜

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by mono_mono_14 | 2006-10-31 21:26 | 音/musica | Comments(0)

ソレント風ニョッキ

Ho provato a fare gli gnocchi alla sorrentina. Non so che potevo farli correttamente, ma erano buoni, al meno a me.

 じゃがいも消費強化月間。ニョッキをつくってみる。今宵、教科書クッキンガーが手にした1冊は『ジローラモさんちの嫁入りレシピ』。「嫁入り」などと題された教科書を繙いているのはどうなのか。もしや花嫁修行中なのか、おれ。

 ニョッキならば大量にジャガイモを消費できるんじゃないかと思った僕が甘かった。使用したのは男爵いも2個である。たった2個。つばめグリルのハンブルグステーキのつけ合わせですら1個が使われているのに、メイン食材にもかかわらず2個。10kgの遠大な道のりに思いを馳せざるを得ない。段ボール箱のじゃがいもはまだまだたっぷり残っている。

 できるだけ教科書通りの仕入れに努めるのが教科書クッキングの醍醐味である。今回の難敵は「フランスパン用準強力粉」というヤツであった。仕入れ先で発見したのは「フランスパン用強力粉」。惜しいが、「準」の欠落はなにげに決定的な欠陥じゃないのか。とは思うものの、「準」の入った粉など見当たらないので、それを買う。あとは特に困る材料はない。敢えて言えば、プチトマトの単位として指定されていた「パック」は、店頭でそれなりに幅のあるさまざまな量のパックを目の当たりにするとちょっと困るものがあった。美味しそうなトマトが標準的なパックとは違うなりをして並んでいたりしたからなおさらだ。

 思いがけず、一番難しい工程は、「じゃがいもを茹でる」であった。芯まで茹できらないうちに表面から崩れてくるのだ。皮が裂け、じゃがいもがお湯にほろほろりと溶け出していくが、竹串を刺してみると中の方で抵抗を感じる。そして竹串を刺したところからまた皮が裂けていくのであった。じゃがいもの皮に合わせて身も心も引き裂かれそうな教科書クッキンガー。
 身も心も引き裂かれているなんて言いながら、その後は、じゃがいもを完膚なきまでに叩きのめしてしまうのだから、ひどい話だ。嬉し恥ずかし初めてのポテトマッシングは、何だかうまくできなかった気がする。実際、コロンとしたじゃがいものカケラがあちこちに紛れ込んだ手打ちニョッキ生地になってしまっていた。じゃがいもを茹でてつぶすのがこんなに難作業とは...。料理、奥深し。
 生地をつくる。マッシュポテトにくだんの粉や卵黄、パルミジャーノを混ぜ込み練る。ときおりコロンとしたじゃがいもの異物感を感じつつ、僕の親指に大量の卵黄がまとわりついて固化しようとしているのも感じつつ、しばらく練る。教科書には、生地がまとまったら小指くらいの太さの棒にすべしとある。やってみる。おおお。親指も逃げ出すような小指になってしまったじゃないの。作業台(ただのまな板)が小さいからだなと責任転嫁しつつ、何とか中指程度にこぎ着けた。2センチくらいに切って打ち粉をする。う、打ち粉? えっと、粉は先ほどしまってしまいましたが? 出しましょうか? 僕の両手はいもだの粉だの卵黄だのでひどい状態ですよ? 出しますよ、出しますってば。やむを得ず手を洗い粉を取り出す。もっと早くに言っておいてくださいよ。お前が読んでおけ。教科書クッキンガーの道はかように険しい。
 ニョッキを茹で、縦割りにしたプチトマトをオリーブオイルで蒸し炒めにしただけの簡単トマトソースと和え、チーズを合わせてオーブントースターへ。チーン。おおお。教科書の写真とはまったく違う見た目の品ができあがる。どちらかと言えばマルゲリータな感じの仕上がりだ。モッツァレッラが多すぎたのか。オーブンで焼きすぎなのか。そもそもグラタンみたいな見かけになっているのはおかしくないのか。耐熱皿からお皿に移し替えればいいのか。1粒のニョッキはニョッコなのか。疑問は尽きない。最後のはどうでもいいな。

 ともあれ、できたと言うかできてしまったものは食べるに限るわけで。セブンイレブンの680円ワインがお供というのがいささか情けないものの、教科書クッキンガーに必須の能力である自皿自賛を発揮しつつ完食。正しいかどうかはまったく判断できないものの、少なくとも僕には美味しい一品のできあがり。ただし、改良の余地はどこかにあるんだと思う。レシピの前提よりは粉の力が強いはずだから、いも:粉比をもう少しいも寄りに振ってみてもよかったのかも知れない。もっとも、一番の改良点は、僕がニョッキを食べた経験が数えるほどしかないことのような気がするけれど。

ニョッキ・アッラ・ソッレンティーナ
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by mono_mono_14 | 2006-10-29 23:59 | 味/buono | Comments(6)

小さなサムシング・ニュー

 模様替えマインドが軽く盛り上がっていたりする。少し前に、必要に迫られたとは言え、また紆余曲折もあったにせよ、ウォシュレットの交換がうまくいったのが気持ちよかったんじゃないか。
 マンションのいんちき和室のインテリアにもなかなかに困るものがあり、冴えないカーテンをナチュラルカラーの木製ブラインドにしてみたり。このブラインド、イスラエルの工場でオーダー生産しているメーカーに見積を依頼したところ、ちょうど(?)半額キャンペーンだったので、踏ん切りがついたもの。もっとも年中半額の可能性もあるけれど。定価って何だろう。
 いまひとつかたづききらないリビングのこまごまとしたあれやこれやも鬱陶しかったが、それらを一網打尽に押し込んでしまう強面の収納棚もアクタスで見つけたり。収納場所をつくったからと言ってかたづいたりするわけではないことくらい知っているくせに。それでも、模様替えや、壁にポストカードを貼ってみるくらいのことでも、そんな小さなサムシング・ニューが思いがけない活力を備えて生活に流れ込んでくることも知っている。あとは、秋の夜長らしく、本棚の整理などもしたいところだ。・・・などと言うは易く行うは難し。
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by mono_mono_14 | 2006-10-28 23:59 | 雑/quotidiana | Comments(0)

ウェラーと赤ワインと

Da una decina di anni sto sempre cercando la mia giusta via al lavoro ma non ho ancora trovarla, ovviamente forse, e non potrei mai averla con me in tutta la mia vita :-) ...ma non e' male.

 何だか雑事に追われているうちに1週間が過ぎ、また1週間が過ぎる。そんな感じ。芸術の秋もスポーツの秋も食欲の秋もイタリア語の秋(なんだそれ)もままならない。自分の低スペックに因があるにしても。ま、そんな自分も愛でることにしている。時に滅入るにしても。もしかすると、僕が僕に期待しすぎているのだということなのかも知れないのだけれど、期待しないよりは、いい。
 ポール・ウェラーのDVDを流しつつ(かっけー)、「Il Palco」なるトスカーナの赤ワインをまったりと飲みながら(おいしー)、ふと思い浮かんだどうでもいいことを書いてみた。というわけでヘンなナカミだ。許されたし。
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by mono_mono_14 | 2006-10-28 04:20 | 雑/quotidiana | Comments(0)

『安河内羔治遺作展』

 ランチのついでにポートレートギャラリーを覗く。開催中の展示は安河内羔治遺作展。松屋銀座のフォトスタジオの主だった人らしい。文化人のポートレート、長きにわたる横尾忠則の継続的なポートレート、下町浅草の老舗の主人たちをそれぞれの店頭や店内で収めた写真などが並んでいた。
 文化人の写真では、亀倉雄策や福田繁といったグラフィックデザイナーたちの鋭い眼光が印象的だった。建築家は谷口吉郎ただひとりしか見当たらず、少々寂しい思いもした。丹下健三とか槙文彦とかあってもよかったのに。浅草の老舗の店構えには、いくつかとても心惹かれるものがあった。若旦那や若女将も多かったのが、少し意外だったが、老舗だからこそ早め早めに現場を次の代へ渡していった方がよかったりするのかも知れない。横尾忠則の変遷もおもしろかった。形容しがたい力強さがとぐろを巻いているような表情だった。

 しかし、僕がいちばん長いこと目を奪われていたのは、写真家の作品とは言いがたい松屋銀座の宣伝ポスターだった。「家族日和。」と書かれたポスターには、昭和35年以来、毎年5月に松屋で家族写真を撮り続けてきたという家族の30年間が並べられていた。8枚目からは僕の人生とリアルタイムでかぶるわけで、スタジオで撮った家族写真なんてない僕にだってその頃の空気が収まったスナップならば残っていて、やはりそれと似たような空気が漂っているのだった。この写真を撮り続けてきたのが、もしかすると安河内さんなのだろう。
 1枚目の写真に夫婦と赤ちゃんが写っているので、たぶん第一子が生まれた記念に撮り始め、撮り続けて今日に至ったのだと思う。2枚目には弟も加わっている。10数枚進むと、男の子はお父さんの背丈を追い抜いていて、もう数枚進むとお姉ちゃんはお化粧をしている。やがて花嫁衣装の1枚があり、翌年の写真は3人家族だ。お姉ちゃんはお嫁に行ったから、もうこの家族写真には入ってこないのだ。そうこうするうちに弟がお嫁さんをもらっている。お嫁さんは新しくこの家族に入ったので、その年からはずっと一緒に写真に収まっている。すぐに孫も加わるようになる。赤ちゃんを膝に乗せて、お父さんお母さん(お祖父ちゃんお祖母ちゃん)は、恥ずかしさと晴れがましさと誇らしさがないまぜになったような表情でカメラの方を向いている。長女を連れてきた30年前のあの日と同じような表情で。僕はなんだか泣きそうになった。何に心を打たれているのかわからないけれど。無理やり探せば、たぶん「昭和」に心打たれたんじゃないかという気がする。

 この写真展でよかったことのもうひとつは、「ご自由にお取り下さい」のコーナーで、東京都写真美術館で開催中の『パラレル・ニッポン』の招待券を見つけたこと。無料のギャラリーで700円相当の招待券を持ち帰る。なんてしあわせ。まったくもって素晴らしい写真展だった。
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by mono_mono_14 | 2006-10-25 16:58 | 文/cultura | Comments(2)

サラ・タヴァレス『バランセ』

 サラ・タヴァレス『バランセ』。ちょっとマリオン・ジョーンズ似のはにかんだ笑顔があしらわれたセピア色のジャケット。日本デビューとなる3作目アフリカとポルトガルにカルチャーのルーツがあるそうで、紡がれる音楽は、アフリカの色合いが薫る上質でリラックスしたポップ・ミュージックに仕上がっている。無国籍というか一人多国籍というか。ポルトガル語、英語、フランス語が聞こえ、アフリカのものだと思う響きも混じる。軽やかで伸びやか、ほころぶ笑顔のような声。ファニアなんかに通じるボーカル。アコースティックな伴奏。アコーディオンの響きにミルトン・ナシメントを思い出したりした。
 今日、東京は少し冷え込んだ雨模様の、まあ言ってしまえばグレーな1日だったのだけれど、そんな少し沈んだ窓の外を眺めながら聴くのにやけに合いそうなアルバム。しかしそれは決して陰鬱だとかいう意味ではなく、むしろ、こんな日もいいよね、と思わせるような、穏やかな力強さ、優しいポジティブさに満ちている。窓の外のグレーな風景の中に、できれば海が見えればいいなと思うのは、リスボンから届いた音だからかな。・・・単に、海辺でサボりてーなーという僕の願望の現れだったりするかも知れない。しまった。
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by mono_mono_14 | 2006-10-24 22:24 | 音/musica | Comments(0)

じゃがいも

 じゃがいも10kgが届いた。
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 10kg。こんなに食う気なのか。バカか、オレは。
 しかし、来てしまったものは仕方がない。と言うか嬉々として頬張る。ラップでくるんでレンジでチン。これが最良の調理法です。そう言われると(そういうメモが同封されていた)、教科書クッキンガーの僕としてはいささか寂しいが、とりあえずはラップにくるみ電子レンジへ。激しく美味い。公言通り北海道の底力に平伏す寝癖全開のチャーミングな髪型の僕であった。
 男爵いも、きたあかり、べにあかり、インカのめざめ。この4種類の詰め合わせになっている。男爵いも以外はよく知らない品種だが、どれも美味しい。当たり前と言えば当たり前なのだろうが、どれも違う味がする。男爵いもは、これまで食べたことのない美味しさだった(が、この評価はおそらく気分的なものを含んでいる)。きたあかりがイタリアっぽいいもだという情報を得て、さっそくそいつを贔屓にする僕であった。
 パンツェッタ貴久子さんの『おいしいイタリア野菜料理教室』とか引っ張り出して眺めると、興味を惹かれるじゃがいものリチェッタがいくつかあったので、そのうちチャレンジしたい。かつ、じゃがいもと言えばタパスだろうってことで、おおつきちひろさんの『タパス』とか『スペイン 熱い食卓』なども開いてみる。もしかすると何かつくってみるかも。10kgのじゃがいもをまじまじと眺めるうちに、ポテトマッシャーを買うことを固く心に決めたのであった。と言うかすでに買ってきた僕であった。
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by mono_mono_14 | 2006-10-23 23:24 | 雑/quotidiana | Comments(4)

アレックス・カー『犬と鬼』

 日本を愛し、それがゆえに自殺行為的に自らのよさを失っていく(ようにしか見えない)日本に対し、また、そんな状況をみすみす看過し、それどころか、むしろそんな状況に安穏としている日本国民に対し、徹底的に愛のムチ(いや、愛のナタくらい)を振るった本。2002年の春に出て、2006年の秋の時点で10刷だから、かなり売れた、ということになるのだろう。しかし、恥ずかしながら、僕がこの本の存在を知ったのは今年になってから。4年遅れ。アレックス・カー『犬と鬼』。

 叱責。辛辣。一刀両断。苦言。諫言。厳重注意。唖然。呆然。無為無策。喪失。壊滅。雲散霧消。悔恨。諦念。危急存亡。幻滅。絶望。理解不能。苦渋。忸怩。意気消沈。嘲笑。失笑。叱咤激励。秋刀魚。塩焼。燗酒一献。ん?

 しかし、なぜ日本はこうなってしまったのか──。そんな思いがページというページから立ちのぼってくる。古き佳き日本のイメージに目を奪われ、その礼賛に終始する外国人たちを「日本教信者」と揶揄しながらも(そして、本人自身にもそういうノリがあることを自覚しながらも)、戦後の日本が辿った理解不能な破滅への道筋を取り上げながら、日本人自らが目を覚まし、ひとりでも多くが破滅へ向かう軌道の修正に対する意識を持つことが期待されている。そういう意識を喚起するために書かれた本で、従って、時に扇動的で、感情を逆撫でするような書きぶりになっている。それがかえって読み手の温度を下げてしまうんじゃないかとの危惧も持ったのだが、そこは適当に割り引きながら、つまり、何、言ってんの? このガイジン、とか思わずに冷静に読んでもらえたら、自分の暮らし方とか、道路工事の見方とか、選挙公報の読み方とか、少しずつ変わってくるんじゃないか。いや、目に見えて変わらなくてもいいので、ヨーロッパの街並みっていいよねーとか、アジアのリゾートって素敵だよねーとか思っている人には絶対に響く何かがあると思う。「美しい国」へ向けた真っ当な一歩になるはずだ。こんな泡沫ブログに目を留めてしまい、ここまで読んでしまった方で、本書を未読の方には、ぜひ一読をオススメしたい。何かの縁か貧乏くじだと思っていただいて。

 なお、著者は『美しき日本の残像』という本も書いていて、こちらはよりお手軽な文庫本になっている。これから読もうと思っている。この本は、『Lost Japan』と題された英訳、『Il Giappone e la Gloria』と題されたその伊訳もある。読めないに決まっているけれど、この伊訳本を書架に掲げて悦に入りたいお間抜けな僕である。
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by mono_mono_14 | 2006-10-23 14:23 | 本/libro | Comments(4)

オマケの1枚

 CDショップでCDを2枚買って、お金を支払いショップのロゴがくっきりと浮かんだ袋を受け取る。帰宅してからその袋を開けてみれば、普通はCDが2枚出てくるものだが、その日は3枚出てきて、ちょっとびっくりしたのだった。ユニオンジャックをあしらったジャケの心当たりのない1枚は、さながら「あちらの方からです」と運ばれてきた爽やかなカクテルのようだ。そんな経験ないけど。ははーん。さてはレジの若い女の子が僕に好意を寄せておるのだな、なんだ、その場で言ってくれればいいのに、そしたらおじさん真に受けて頬を赤らめたりして、力いっぱい笑い者になってやったのにな。などということがあろうはずもなく(もちろん、科学的厳密さから言えば好意の有無は確認できないが(というこの注釈にいったいどんな意味が?))、どうやらHMVのキャンペーンらしかった。だったら、キャンペーン中だからこのCDも差し上げますね、くらいのひとことがあってもいいような気はするんだけどな。ははーん。さてはレジの(ry。
 『PLAYLIST7 BRITISH ANTHEMS 2006』と題されたオマケの1枚には、ほとんど知らないバンドの皆さんがかき鳴らす若く青きブリティッシュ・ロックが詰まっていて、聴いてみたら何だかFMを流しているようなキブンがした。すべて忘れ去って行く曲たちかも知れないけれど、こんなふうに新しい音楽が僕の暮らしに降りかかってくるのは何だかいいな。だけど、もし、キャンペーン期間中にHMVでCDを買うたびにこっそり同じCDが詰められてくるのだとしたら、それはそれで考えものなことではある。
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by mono_mono_14 | 2006-10-20 19:41 | 雑/quotidiana | Comments(0)

ヌーンデイ・アンダーグラウンド『オン・ザ・フリーダム・フロッティラ』

 ヌーンデイ・アンダーグラウンドの3作目、日本先行発売の『オン・ザ・フリーダム・フロッティラ』(「Flotilla」はカナにするならフロティッラじゃないのか、とイタリア訛りのアルファベット読みである僕は思う)。ポール・ウェラーと非常に近しい関係にあるアーティストであるがゆえに(まあ理由はそれだけでもないのだが)、過去の2作も手元にある僕としては、猪瀬直樹も呆れる談合入札のような形式的な試聴を経てレジへ。

 一聴しただけでは、何だか予想していなかった音の奔流に巻き込まれて終わってしまいかねないが、立て続けに3回くらい回してみると、ずいぶんと心を持って行かれていることに気づく。
 アルバムを通して何かがほとばしり出ている。とても雑多な力強い何か。このごった煮感とも言えそうな音に宿るパワーは、近年、「バルセロナ」なんていうカテゴリで紹介される音楽たちにも近しいように思うが、根っこにはUKらしい重さと鋭さ、ヒネた味つけが秘められている。バルセロナのように音楽的多様性があからさまに混淆しているわけでもない。あくまでもスパイスとしてさまざまな音楽的なモティーフが導き入れられているように思う。そういう意味では、実験的(あるいは遊戯的)な音の重ね方のようでもあるが、その荒削りな感じ、閃きに流れを委ねている感じが、この作品を貫く圧倒的な魅力だ。実際には緻密に音をつくっているのかも知れないが、仕上がりのテクスチュアはとても瑞々しい。
 デイジー・マーティーの伸びやかでスケールの大きい天真爛漫なボーカルがものすごく魅力的で、このアルバムのスケール感は彼女の声によるところも大きいと思う。そして聴けば聴くほどにサイモン・ダインの音の紡ぎ方、スパイスの利かせ方に惹き込まれていく。かわいらしいメロディの裏でファンキーなオルガンがあしらわれていたり。かつてのモータウンだとか、スモール・フェイセスだとか、ビートルズだとか、バカラックだとかを感じさせる部分などもあり、良質な音楽の蓄積の大洋で思う存分に泳いでいるタイプのアーティストであることがはっきりとわかる。

 それにしてもスリーブにある惹句は「ソウルフルでロッキン、スペーシーでロマンチック、レトロでキッチュ」なんていうシロモノだ。いかがなもんだろう、これ。
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by mono_mono_14 | 2006-10-19 22:52 | 音/musica | Comments(0)