カテゴリ:文/cultura( 99 )

映画『Fly Me to Minami ~恋するミナミ~』観た

 映画『Fly Me to Minami ~恋するミナミ~』、DVDで観た。
 大阪ミナミで交錯する東アジアの若者たちの日常と恋模様。香港・ソウル・大阪を行き交いながら、必ずしも晴れの日ばかりではないシゴトや恋愛に、懸命に向き合うひとりひとりの心と時間が、道頓堀に映り揺らぐミナミの灯りのように、輪郭を滲ませながら煌めいている。とってもチャーミングでラブリーでチアフルな映画。タイトルに引っ張られるのも込みで『恋する惑星』を想い起こしたりした。

What is your dream?
How about you?

 お互いに好意を覚え、ぎこちなく距離を縮めつつあるふたりの男女の間で交わされたやりとり。もしかすると、いつの時代でも、誰もが、誰かに訊いてみたくて、自分が訊かれたらどんな答をするんだろうと思案したりするこのテーマが、耳に届くせせらぎとか頬をなでるそよ風のように、映画を通して静かに流れて続けているように感じた。
 アジアを行き交う行動の中に輝く未来があるんだよ。“Dream”が宿るんだよ。
 この映画は、そういうサジェスチョンでありマニフェストなのだと思う。まるでその証左であるかのように、入れ替わり耳に届く韓国語も広東語(香港語)もとてもチャーミングに響く。これまで、これらの言語が、こんなに素敵に僕の耳に届いたことはなかった。この映画では広東語(香港語)・韓国語・日本語(大阪弁)・英語が混じり合うのだけれど、そのどの言葉もドリーミングな彩りを添えてやってくる。この異なる国の言葉たちが響き合うさまがこの映画の魅力だと思う(泥酔ソウル女子たちが奏でる韓国語とかすごく素敵だった)。

 こういう映画をつくろうという人がいて、実際につくられて、いくらか遅まきながらも、僕がその存在を知るところとなり、DVDがわが家にやってくるなんて、なんだかすごい時代だ。

 都市計画界隈の人としてつけ加えると、この映画を観ているだけでも、人の心にとって、都市の水辺がどれだけ大事かということが感じ取れると思う。

 この映画を知った『若者よ、アジアのウミガメとなれ 講演録』によれば、このインディな映画のプロモーションとして、ロケ地を紹介するような、これまたインディなフリーペーパーがつくられたそうなのだけれど、それはもしかなうことであれば見てみたいなと思う。

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謝辞。加藤順彦さん・田中泰延さん、これをつくったり知らせたりしていただき、ありがとうございました。


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by mono_mono_14 | 2017-10-16 02:16 | 文/cultura | Comments(0)

『WOOD JOB!』

Mi sono visto un film giapponese intitolato "Wood Job!" al Ghinrei. Tanti rispetti alla gente della montagna e loro lavori!

 『WOOD JOB!(ウッジョブ)』がギンレイにかかる。そのことを知ったのはたぶん一月ほど前だったと思う。ふと気がつけば上映期間も残すところ3日となっていた。手帳の隙間は翌日の最終回にしかなかった。その隙間でなんとか観に行ったことを自賛したい。グッジョブ! ・・・これが書きたかったのか、この導入は。自分でも知らんかったわ。

 ストーリーはおもしろかったし、仕込まれた小ネタにもその都度ついつい笑ってしまった。山は神去どころか神々しかったし、山の仕事も山の祭りも美しかった。モダンな産業としての林業ができてくる遥か昔から、山と向き合う仕事と暮らしがあったんだろうなあ、そりゃあったよなあと思い、そういう人たちが山に住む神様のことを信じるのは実に当たり前のことだよなあなどと思った。世界中の山あいでそうだったに決まってるよなあと思ったし、それはきっと海でも同じだよなあなどと思った。山の仕事と暮らしがあり、山の神様がいる。さて、僕の仕事と暮らしに神様はいるのだろうか。

 原作が自宅の積ん読の森のどこかにある。そろそろ間伐しないといけないよなと思うので、地方都市に向かう車中とかで読みたいのだけれど、そんな機会がなかなかない。
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by mono_mono_14 | 2014-11-07 22:30 | 文/cultura | Comments(0)

『自転車泥棒』

Grave, troppo grave... C'erano tante cose da pensare nel film classico "Ladri di Biciclette" per me come un lavoratore, ed anche come un padre.

 働くこと、生活の糧を得ること。不遇の弱者だという現実的な自覚、強き父であらねばという理念的な規律。やり場のない理不尽、吐き出し先のない葛藤。いっぱいいっぱいで、望みのなさ加減を感じながら、それでも何もかも受け入れて疑いなく生きていくこと。おまえはどうよ? と問いかけられ続けている。
 『ライフ・イズ・ビューティフル』でロベルト・ベニーニが演じる男の生き様を見せつけられた時にも、同じようなことを感じたことをよく覚えている。ああいうふうに僕は振る舞えるだろうか。子どもに未来への希望だけを残し伝えながら、逃れようのない死に向かう最後の数十秒を笑顔で過ごせる、などということができるだろうか。
 僕はどうだろう? 必要な時になりふり構わぬ一途さを発揮できるだろうか? 『自転車泥棒』、ズシンとキツい。

 タイトルにある泥棒は「Ladri」と複数になっている。おもむろに場面の速度とテンションを上げる最終盤に、ふたりめの泥棒が現れた時のやりきれなさ。受け止めきれないほどのそのやりきれなさを、うっすらとした未来への希望へと転換していくラストシーン。くたびれ果てた親子(俳優ではなく素人なのだそう)が、ほとんどセリフのないままに、その希望を築き上げていく。その絶望的なやりきれなさとほのかな希望とがないまぜとなった画面に「FINE」の文字が浮かび上がり、その混乱のままに放置される。言葉に置き換えられないだろうと思いながら、本稿を書いてみている。

 キツくツラい中にも、古き佳き時代(アメリカだけでなくイタリアにもそう呼べる時代があったに相違ないと思う、そしてもちろん日本にも)という語を想起させる人間的な暖かみと誇り──とにかく生き抜くしかないじゃんという揺らがない意志の尊厳さと、誰かの必死に生きるためのそういう懸命さはお互いに尊重するという感じ──が、静かな静かな伴奏のように常に感じられる。そのことが、今の時代、終戦直後の混乱のようなわかりやすさを伴わない混乱の渦中に、この映画に触れる意味を持つ。

 会社帰りに街かどの本屋で購入。380円。版権フリー状態を迎えた古い映画のDVDが、わずか380円で小さな本屋で売られている、というのもすごい。イタリア語が聴き取れる箇所がほとんどない、というのもすごい(ちっともすごくない)。
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by mono_mono_14 | 2010-10-02 13:17 | 文/cultura | Comments(0)

『秩父は家族』

 ギャラリーの壁に並ぶ白黒の写真はまるで日本昔話のヒトコマのようだった。僕には物語でしかないような風景だった。しかしそこに記されている西暦はどんなに遡っても50年前でしかなく、クワランタが想像できない歳月ではないのだった。
 「原風景を撮り続けて五十年」というサブタイトルに誘われて覗いた「秩父は家族」という写真展、それがとてもよかった、という備忘メモ的エントリ。すまん。
 赤ちゃんからおじいちゃん・おばあちゃんまでが一緒に暮らすのが家族であり、たくさんの家族が暮らすのが集落であり村であるのだな、などということを思った。そういう暮らし方や地域のありようがすでに過去に属するものになっているという意味では、日本昔話という言い方は合っていると言えないこともないわけだった。
 豊かになるって難しいことだな。

   南良和写真展『秩父は家族』
   2月24日まで ポートレートギャラリー(四ッ谷)
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by mono_mono_14 | 2008-02-15 20:21 | 文/cultura | Comments(0)

『藤森建築と路上観察』展

Mi sono visto una mostra architettonica. La stessa mostra e' stata esposta a Venezia in 2006. Che se ne sono visti gli italiani?

 オペラシティのアートギャラリーにて開催中の『藤森建築と路上観察』に出かける。壮大な夏休みの工作のような、あるいは屈託のない文化祭のような、脳天気──と言うのは、きっと、スコーンと抜けるような青空からピーカンの陽射しが降り注ぐような、脳が喜んじゃってシゴトどころじゃないお天気のことだ──なヴァイブが、オペラシティのアートギャラリーを満たしていた。夏休みのようなにおいがする。実際に、木や草のにおいに溢れている。と言うか、木や草がてんこ盛りだ。靴を脱ぎ、むっとする草いきれにむせそうになり、竹を編んだ秘密基地(ちっとも秘密になっていないが)で路上観察のビデオをまったりと鑑賞する。建築展なんですか、ほんとなんですか、ほんとですか、そうですか。ヴェネツィアへ持って行ったんですか、ほんとなんですか、ほんとですか、そうですか。路上観察とか、イタリアのコンテクストでも楽しんでもらえるんだろうか。
 キワモノかイロモノと思っていた藤森建築は、まあ、確かにキワモノ感やイロモノ感もないではないのだけれど、展示を観ているうちに、これはこれで真っ当な存在だなと感じたし、むしろ過度に手の痕跡が残るディテールは、好もしく見えさえした。実物を体験したい。どこがいいだろう。やはりラムネ温泉館か。ラムネ温泉館ってどこにあるんですか、大分ですか、そうですか。大分に行くなら違う温泉に入りたくなってしまうような気がするな。
 藤森の卒業設計が展示されていた。図面を丁寧に読んだわけではないけれど、今の藤森建築からは想像もできないような、どこかしらアーキグラムとメタボリズムが合流したような思いがけないメガストラクチャーの設計案だった。当時の藤森のアイドルは磯崎新だったそうだし、時代もそういう時代だったのだから、当たり前と言えば当たり前のことだけれど。1970年頃の卒業設計が「東京計画2107」だったらおかしいもんな。

 建築は、どうにかこうにかしてつくられなければならない。それは、コンピュータが複雑な形態を導くようになっても変わらないことで、そのことを伊東豊雄が同じオペラシティのアートギャラリーで催された展示で物語っていた。藤森建築は、ずいぶんとプリミティブなところへ立ち戻って組み立てられているが、それは、建築がどうあっても逃れられない大命題=どうにかこうにかしてフィジカルにつくられなければならない、という地点から改めて遙か彼方を見晴るかしてみたら見えてきた建築なのではないか。この視線や態度の先に、滅びつつある(?)日本の「手の技術」が再び興ってくることがあったら、それはどんなにか素敵なことだろうと思う。
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by mono_mono_14 | 2007-05-13 23:59 | 文/cultura | Comments(2)

イタリア現代都市の地区再生デザイン

Ho visto una mostra intitolata "Progettare ai Margini" tenuta all'Istituto Italiano di Cultura che mostra alcuni progetti urbanstici delle quattro citta' italiane: Milano, Bologna, Torino e Napoli. Ogni presentazione e' stata bella ed i progetti napoletani mi sono piaciuti molto, poi quei milanesi.

 降りしきる雨をものともせずに、イタリア文化会館でひっそりと(?)開催中の展示『イタリア現代都市の地区再生デザイン(Progettare ai Margini)』を観に行った。ミラノ、ボローニャ、トリノ、ナポリという4つの都市で進行中の都市再生プロジェクトのパネル展だ。イタリア文化会館のホームページをたまたま覗いた時に、この展示を発見した。ある意味、ラッキーだ。会期は5月5日から10日までと短く、連休中に足を運ばなければ、行きそびれるのが目に見えていた。

 予想通り、客はまばら。受付のお姉さんの手持ちぶさた加減が痛々しい。なぜだか記帳を求められ、この個人情報保護の時代にあり得ないなと思いつつ、休眠中(つまりは失効中)とは言えイタリア文化会館のテッセラを持つ身でもあるので、おとなしく応じた。解説パンフを受け取る。イタリア語/日本語のバイリンガルで、まあまあの出来栄え。序文を陣内さんが寄せている。これもバイリンガルだ。陣内さんのイタリア語かどうかは不明(と言うか、普通は違うだろう)。都市再生だの空洞化だの市民参加だのといったギョーカイ用語のイタリア語訳があるのは、何だか嬉しかったりする。

 展示は、日本語の密度がものすごく低いので、いったい誰に見てもらおうと思っているのか聞いてみたくなるが、それでもプレゼはそれなりにおもしろかった。ところどころに残る手の痕跡(手書きの風合い(とは言ってもPC上で描かれている可能性も高いが))がよかった。ナポリのプロジェクトが僕はいちばん気に入った。何て言うか、気持ちよかった。海があるからかも知れない。ミラノのプロジェクトもよかった。ボローニャのプレゼも好きだった。トリノが悪かったわけではないけれど、順番をつければ僕的にはビリだった。

 DVDが流されていたりして、ザハ・ハディドや磯崎新やダニエル・リベスキンドがテーブルに拡げたトレペを囲んで手を動かしている(手話じゃないぞ、絵を描いているの意だ)映像など眺めていると、較べるのがまつがっていることは重々承知ながら、僕の属する世界ではそんな緊張感溢れる“現場”は少ないなあと思ったりする。ああいうヤツらに議論させても大丈夫なミラノ市のお役人たちも大したものだなとも思う。

 日本の都市再生は、こんなふうに戦略的じゃないことがほとんどな気がする。森ビルや三菱地所、三井不動産が繰り広げる都市再生を東京都や港区や千代田区が自らの政策に位置づけながらパネル化する、なんていうこと、考えにくい。もっとも、イタリア諸都市が、ディベロッパーやアーキテクトをうまく使っているのか、いいように乗っ取られているのかは、知らないけれど(その問題との関係で、先日、書店で見つけた『ミューズが微笑む都市』という1冊は、イタリア都市計画の負の現状をまとめているようで、早く読みたいと思いつつ積ん読いたままの日々を送っている)。
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by mono_mono_14 | 2007-05-06 23:59 | 文/cultura | Comments(0)

玉川上水

Ad una mostra fotografica intitolata "Acquedotti di Tamagawa" mi sono visto tante le foto espressive dell'acqua. Sono state belle e mi sono piaciute molto.

 今朝だったか、昨日の帰り道だったか、地下鉄で玉川上水駅から徒歩1分だというマンションの中吊り広告を見かけた。玉川上水駅ってどこさ、と路線図に目をやると、それはどこだかわからないような遠くだった。立川の上の方に位置していた。これじゃ東京には通えないじゃんなどと毒づいたことを思い浮かべながら地下鉄を降りた。

 よく晴れた気持ちのいい連休の谷間(つまりは仕事の日)のランチがてら、書店に足を向けると、上階にあるポートレートギャラリーで『玉川上水』と題された写真展が催されていた。撮影は宮前亘。副題に「江戸・武蔵野を潤した水辺の記憶」とある。書店を冷やかすのは後回しにしてエレベーターで5階へ向かう。

 世界に冠たる大都市だった江戸を支えた玉川上水。その流れを源流から下ってくる写真展だった。写真たちは、郊外というよりは田舎の風情を放っていた。こんなところからじゃ東京には通えないだろう、と思わされるほどに麗しい田舎の風情だった。水面は、夕日の黄金を映し、木々の緑を映し、雪空の白とグレーを映し、都心を目指して流れていた。

 写真に切り取られた玉川上水は、かつて太宰治とその愛人・山崎富栄がその命を絶った流れでもあるのだが、それでもやはり、玉川上水の水の流れは命に溢れている。こんな水流、こんな水辺、こんな緑、雑木林。こんなすごいものを持っているだなんて、東京もなかなかやるじゃないのさ。

*:言うまでもなく、玉川上水駅は余裕綽々の東京通勤圏だ。念のため。
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by mono_mono_14 | 2007-05-02 16:28 | 文/cultura | Comments(2)

TAKEO PAPER SHOW 2007

Ho visto una mostra annuale chiamata Takeo Paper Show a Marunouchi. In quello show possiamo divertirici tanti i prodotti cartari fatti da tanti disegnatori per le clientele virtuali. Per esempio, delle borse per la Tomorrowland, un libro visuale per l'Alain Mikli, cosi'. Mi sono divertito tanto.

 ここ何年か足を運んでいる竹尾ペーパーショウ。最終日。混んでた。げんなり。会期がたった3日間で木・金・土なんていう日程だから土曜日が混むのだ。いったん列に並んだものの、キャンセルしようかと思ったほどだったのだが、こらえて並んだ。結果、30分もかからずに入場でき、そして、展示はおもしろかった。やっぱり簡単に諦めてはいけないね。

 竹尾というのは紙を売る会社で、ペーパーショーは、竹尾が取り扱う紙を素材として、クリエイションのフロンティアを押し広げ、ついでに願わくはマーケットも広げたいという刺激的な展示で、某林家夫妻とは全く関係がない。なら書くな。去年までは表参道のスパイラルで開催されていたが、今年は丸ビル。

 アルファベットのAからZまで26種類の展示があり、それぞれのアルファベットで始まる紙を素材として、実在するクライアントのための「何か」をつくるという架空のプロジェクトが並んでいる。例えば、イメージブックだったり、ショッピングバッグだったり、ポスターだったり、カレンダーだったり、スーベニアだったり。クライアントは実在するショップやカフェで、そのイメージに合ったプロダクトが提示されているのだけれど、それは今回の展示限りのもので、クライアントが発注したものというわけではない。そういう意味で架空なのだ。
 マテリアルであるファインペーパーのキャラクター、コラボレーションしたクライアントのイメージ、デザイナーのクリエイティビティ、プロダクトのインパクト。カタカナにしてみたら、何とも胡散臭くなってしまった。いや、そんないんちきっぽいイベントではなかったぞ。素材である高級紙の性質、参加協力企業の印象、制作者の創造力、完成品の訴求力。漢字にしてみたけど、それはそれでいかがなものか。トンガッた感じがゼロになってしまった。難しいのう。

soon
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by mono_mono_14 | 2007-04-14 23:59 | 文/cultura | Comments(2)

『SAKURA ─幸せの樹の下で・九州編─』

Ancora una storia sui fiori di sakura. Mi sono visto una mostra fotografica alla portrait gallery a Yotsuya intitolato "SAKURA -sotto gli alberi di felice in Kyusyu" fatta da un fotografo Hideki Onuma. E' tenuta fino alla domenica prossima.

 桜の話題が続くのもいかがなものかと思いつつ、さりとてこの時期にしか語られない存在だったりもするのでまあいいかとも思いつつ、今日も桜の話。と言っても、ささやかな写真展の話だ。たまたま案内ポスターを目にして、「SAKURA ─幸せの樹の下で・九州編─ 大沼英樹写真展」を覗いてみた。
 今年もまた咲いたんですよ、という感じの、ごくごく普通の風景に溶け込んだ桜。写真家は、桜前線に合わせて日本列島を北上するという、何だか羨ましくもあるような撮影旅行を行っているそうだが、この写真展では、九州で収められたあんな桜、こんな桜が展示されている。ほのぼのとして、とてもよかった。展示会場に入ってすぐにあった写真家の巻頭言のような挨拶文にも記されていたとおり、桜の花は散りゆく若き軍人の命になぞらえられた悲しい記憶がある。ほのぼのとする九州の桜たちの中には、かつて特攻隊が飛び立った地に咲く桜なども含まれているのだった。沁みた。
 それでも、今日の桜の周りには、平凡極まりないけれど、穏やかで優しい日常生活があるのであって、そのささやかな幸せが、咲き誇る桜とともに写し込まれているのだった。桜にしか演出できない時間と空間なのかも知れない。九州の桜たちがあまりにも素晴らしかったので、他の地方の桜も見たくなった。四ッ谷のポートレートギャラリーにて8日まで。
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by mono_mono_14 | 2007-04-03 16:49 | 文/cultura | Comments(4)

『朧の森に棲む鬼』@新橋演舞場

 率直に言って、DVDでも度肝を抜かれる『アテルイ』の出来たるやすさまじいもので、それを新橋演舞場で観ることができなかったのは、まだ何も知らない幼子同然だったとは言え(なにがだ)、痛恨の極みだ。
 それから時は流れること数年。今日、ようやく、新橋演舞場にて、市川染五郎が劇団☆新感線と組んだ舞台を観ることができたのだった。『朧の森に棲む鬼』。あろうことか、東京公演千秋楽だ。しかも、前から5列目だ。近すぎて落ち着かない小心者の僕であった。周囲を埋め尽くすディープな演劇ファンと思しき妙齢のご婦人方との違い、くっきり。頑張れ、オレ。

 相変わらずの素晴らしい舞台セット。今回は、舞台上に雨が降ったり、滝や川が流れたりして、エンディング、びしょぬれで最期を遂げる市川染五郎の迫力は、音を立てて奔流するホンモノの水がもたらした迫力だったと思う。いや、アイディアさえあれば、まだまだいろんなことができるんだな、あの狭い舞台の制約の中でも。狭い我が家も工夫しろ、という教訓を導き出すことにする。

 市川染五郎。何て言うのか、歌舞伎の底力を思い知ると言うか、オーラがあった。とことんの悪人を演じたが、その嫌な感じ、生理的に受けつけたくない狂気が、高らかなる声から、研ぎ澄まされた身体所作から、だだ漏れだった。妹もあっと言う間に狂気が宿る恐ろしい女優だと思っているが、兄もやはりそうなのであった。ビバ、血筋! 高麗屋! 僕の遅刻肌は新婚旅行の新幹線にすら乗り遅れかかった母譲りだ。ビバ、血筋! こりゃだめや! なんだ、この違い。・・・ちょっと無理あった。すまん。

 阿部サダヲのキレっぷりは、アクターを超えてアスリートのようですらあった(それは市川染五郎にも言えることだけれど)。特に、失明以後の殺陣のスピード感はすさまじく、よく考えたら、あの殺陣では目を閉じてはいないにしても、薄目程度にはつぶっているはずで、そんな簡単なことではないことに、家に帰ってから気づいた。よくよく考えれば、あれはものすごいことだったのだ。そして、同時に、どれだけ売れようとも小劇団スピリットを失っていないところが、とてもすてきだ。途中、まとわりつく女優にドロップキックを見舞う場面があったのだけれど、そのキックが異様な高さだった。そんなに跳ぶな。しかし、彼女はあの蹴りを1ヶ月間受け続けてきて、これからの1ヶ月間も受け続けるのだろうか。そう考えると、彼女も小劇団スピリットに満ちていると言わざるを得ないな。

 古田新太も、舞台映えのする立ち姿と張りのある魅惑のボイスで、圧倒的な存在感を放ったが、彼はアスリートではないな。身体が横方向に伸びやすい生地でできているのだろう、きっと。親近感。実際には、それなりに鍛えられた身体ではあるのだと思うけれど。
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by mono_mono_14 | 2007-01-27 23:59 | 文/cultura | Comments(0)