カテゴリ:伊/italia( 35 )

Rete! 1 を聞いてみる。

Ascolto spesso i cd recitativi del libro "Piazza" con il mio iPod "glico" ma quelle materie che ho scelto sarebbero troppo dificile per me. Peccato. Sembra meglio di scegliere quelle piu' facile allora provo i cd di "Rete! 1".

 しばらく前にようやくのことでせっかく買った“グリコのオマケ版iPod”にて、『Piazza』などかなり緩めなテンションで聞いているのだけど、 いかんせん謙遜度ゼロディグリーの緩さで耳に流し入れているだけなので、あまり効果を上げていない様子が手に取るようにと言うか、耳から漏れていくようにと言うか、ひしひしと感じられる。たぶん教材の選定がまつがっているんだろうと思う。
 というわけで、もう少し簡単・・・かどうかはホントは怪しいのだけれど、かつて受講したイタリア文化会館の講座で使っていたテキスト付属のCDに切り替えてみることにした。『Rete! 1』。こんなのをイヤフォンで聞いて、もしや聞き取り書き起こし(dettato)の宿題で何度も聞いた懐かしい響きについ落涙したりするおそれはないだろうか。ないよ。

 このテキストを使った講座を受け持ってくれたイタリア人講師は4人いるのだけれど、いちばん記憶に残っているのは、最初を担当したフランチェスカ。12回ワンセットの講座の最終日、出口へと向かう廊下で(あぁ、そうだ、まだ廊下がぎしぎしときしむ古い文化会館だった)、ふと振り返り、あなたのイタリア語は悪くないから続けたらいいと思う、と言われて少し嬉しかったのを覚えている(あ、だから記憶に残っているのか、もしかして。現金だな、おれ)。そのひとことを支えに僕は頑張った。
 ・・・というような美談や秘話が、折り返し地点を迎えている人生において一度たりとも訪れたことがない僕なのであった。たいていの場合、そういうひとことにはあぐらをかいた。やはりイタリア語も頑張れていないわけなのであった。なんだかなあ。

 ま、ともあれ、その時々のレッスンのことなどを思い出しつつ、『Rete! 1』を聞いてみる。しかし、iPod glicoに必要なトラックだけをうまく落とせるのかという、甚だ情けない地点に障壁が立ちはだかっているのであった。

※注記というか陳謝。このエントリは、最近、濫用しつつある、有効期限三日坊主的有言実行促進用身勝手宣言系のものであるがゆえ、読んでくださった稀有な皆さまにとって、いつも以上に足しにならない点、心よりお詫びしたい次第。許されたし。
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by mono_mono_14 | 2006-05-23 21:33 | 伊/italia | Comments(0)

『哀しみの日々』

Chiunque che vive ha bisogno dell'orgoglio per vivere serenamente. Sono completamente d'accordo con questa opinione. Una moglie abbandonata dal marito e' colpita molto. Sembra naturale, ma perche'? Ci penso... perche'... l'orgoglio per vivere sia costruito solo dalle cose dipendente alle altre persone. Non lo sono sicuro. Sono sicuro che sia un problema pesante. Che ne pensate?

 たぶん、いくぶんネタバレしてます。

 引き続きイタリア映画祭へ。と言っても僕的には早くも楽日なんですが。ロベルト・ファエンツァ監督の『哀しみの日々』。これを選んだのは、塩野七生大推薦という触れ込みだったので(んー我ながら愛すべき安直さだ)。映画祭のプログラムにも塩野さんが文章を寄せていて(日伊バイリンガルという無意味なお得感がある)、それによれば、今回の映画祭にこの作品が含まれたのは、他ならぬ「塩野枠」だったそうな(上映作品を1つ選ばせてもらったのだとか)。

 唐突かつ理不尽に夫・マリオに捨てられた妻・オルガが、どん底まで落ち込み、喘ぎ、もがき苦しみ、自我の崩壊からかろうじて立ち直る(兆しを見せて終わる)物語。この作品は、たまたま夫が若い女に走った妻の物語だったが、逆でもいいのだし、クビを言い渡されたサラリーマンが自失する物語だったりしてもいいわけだ。オルガの心がみるみる崩壊していくさまが淡々と、しかしビート感豊かに描かれている。オルガを演じたマルゲリータ・ブイが超絶に素晴らしかった。

 さて、最終的にオルガが立ち直ったとして、その後の生き方の糧、心の拠り所を何に求めるのだろうか。かつてマリオへ浴びせたような一途な愛情(もっとも、ごくごく普通のことであるにせよ、その一途な愛情は、時にトゲトゲした日常に埋没している)を再び持つだろうか。そんな愛情、ある日、突然、身を滅ぼす危険要因でしかないと身を以て知ってしまった今、未来のオルガはそういう気持ちを封印するだろうか。それとも、それでもお互いを行き交うそういう愛情こそが、泥沼に沈まずにいられる数少ない可能性だと考えるだろうか。また捨てられる事態に備えながら、精一杯の信頼を築く日々を過ごすのだろうか。
 誇りと慰みはまるでひとつに撚り合わされた糸のよう。自分が依拠している誇り(自尊心、自我)なんて、実は他人に負うところがものすごく大きくて(それが社会的な生き物ってことなのかも知れないけれど)、ひとたび揺らぎ出せば、僕のなけなしの誇りなんてほんの慰みもののパッチワークに過ぎなかったように見えてくる。誇りと慰みを撚った糸で、僕はちっぽけなセーフティネットを編み、日々、おっかなびっくり危なっかしいダイブを繰り返している。それとも、同じ糸でぐるぐると繭をつくって、生気のない半笑いを浮かべて閉じこもっているのだろうか。(願わくは前者でありますように!)
 人は独りでは生きていけない、とか言うのは、単に寂しいからとかいうことじゃなくて、そもそも他者なしでは自らを支える誇り(自尊心、自我)を築き得ないから、なんじゃないかと思う。やっかいなことに、その誇り(自尊心、自我)を打ち崩す鉄槌を振るうのも他者だったりするのだけれど。

 「塩野枠」効果なのか、この回の上映は完全なソールドアウトで、補助席を出しても席が足りずに階段に座って観る人も出る始末(アバウトな売り方が偲ばれる)。かくいう僕もマルディーニがひた走ってそうなほど左端の補助席で観るはめになったのだけれど、足もとが広かったり、椅子の向きを自由に変えられたりとか、案外快適だった。
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by mono_mono_14 | 2006-05-03 23:59 | 伊/italia | Comments(2)

『クオ・ヴァディス、ベイビー?』

Una storia delle relazioni varie tra le persone affiatate che non vanno bene. Il titolo del film "quo vadis?" significhi "che cosa cerchi per vivere la tua propria vita?", al meno a me pare cosi'.

 たぶん、いくぶんネタバレしてます。

 イタリア映画祭なるものに初めて足を運ぶ。観たのはガブリエーレ・サルヴァトーレス監督の『クオ・ヴァディス、ベイビー?』。同監督の『ぼくは怖くない』という作品が僕の前に現れたのにちなんだチョイス(現れたと言っても観たわけではないんだけど)。

 プジョール(バルセロナ)とポール・スタンレー(KISS)を足したような(でも、とてもチャーミングな)顔立ちの女性が主人公(演ずるはアンジェラ・バラルディ、なんとロック歌手なんだそう!)。探偵、と言うか現実的には不倫の現場写真スクープ隊という、なかなかにその位置づけを消化しにくい職業で身を立てている。この主人公・ジョルジアが、まだ納得できていない16年前の姉の自殺を巡る真実を探る物語。そこには、もちろん知らなければよかったという真実も含まれる。

 真実を知ることが、その人の人生にとってどんな意味があるのか。これが主題のひとつだと思う。探偵というジョルジアの職業が、そのことを端的に突きつけている。そして、もうひとつの主題は、「偶然」とか「直感」が人生(あるいは「真実」)に与える意味なんじゃないか。「事実」を覆い隠し得る「偶然」が持つ「真実」性とでも言うのか。すべての「事実」が「真実」として立ち現れるわけじゃない、という希望および/または絶望が、人生に与える意味。幸せな人生にとっての「知らぬが仏(ここには「知らさぬが仏」も含まれることになる)」の是非。
 僕は、自分を端的に酷評すれば、知らぬが仏肌の根性なしのダメ野郎だから、「真実」に容赦なく傷つけられながら敢然と立ち向かうジョルジアが、痛々しくもやや遠く感じる。遠く、というんじゃないか、なんだろう、重く? 特に、ジョルジアが求めているのが、圧倒的に過去の「真実」だから、なおさらだ。
 エンディング、スクリーンを観ている観客だけが知ることになる「偶然」がもたらした事実の隠蔽。ジョルジアにとっての「真実」は、少なくとも映画の中では「事実を知らずに済んだこと」になるだろう。それは、姉と父とAとが克明に映像に記され、つまり、父もAもウソを言っていたわけではない、という、ジョルジアにとってはなかなかに受け入れるのがシンドイ事実を「真実」として引き受けなくて済むということに他ならず、しかも、それをもたらした「偶然」は、ある男性からの晩ご飯のお誘いなのだが、その誘ってくれた男性との、おそらくは慎ましやかだろうけれど、穏やかな幸せの可能性がある。その「偶然」の先に、これからの人生の希望が小さく灯っているのだ。血を吐きそうにツラい「(過去の)真実の探求プロセス」よりも、どちらかと言うと、こちらの「(未来を照らす)偶然」にポジティブな余韻を感じてしまう(それは、僕が前記したタイプのダメ野郎だからなのかも知れないけれど、その辺はよくわからない)。ただ、ジョルジアにとって、真実を追い求める辛苦より、それをなおざりにしたまま生きる方が遙かにつらかったのだろう、とは思う。

 出番は控えめながら、ヒロインのささやかな救世主的な重要な役どころを演じていたアンドレア・レンツィが舞台挨拶に来ていた。通訳は岡本太郎で、彼は、僕が少し考えさせられ、映画祭を覗こうという気にさせた『ユリイカ』のインテルビスタ記事を書いた当の本人なのだった。やや思いがけない風采であった。

 大事なことを最後に。なんと! サウンドトラックにポール・ウェラーの曲が使われていた。しかも2度も! それだけでこの作品にはオッケー印をポポポンと太鼓判だ。エンドロールに目をこらして「Paul Weller」の文字を発見してご満悦。ちなみに、ウェラー先生の枯淡の名曲が流れるのは、ストーリー上、ジョルジアの姉が自殺したことを初めて明らかにした場面と、ローマで姉の友だちだったアンナとおしゃべりしているシーン。「Brand New Start」という曲のタイトルは、深読みすればなかなかに深いんじゃないか。『Modern Classics』というアルバムに収録されている、と老爺心で書き添える。
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by mono_mono_14 | 2006-05-02 23:05 | 伊/italia | Comments(2)

文化貧国イタリア?

Penso che l'Italia sia un paese dell'arte. Particolarmente e' giusto ma l'altra parte no. In un'intervista una regista ha detto che l'Italia di oggi sarebbe nella pessima situazione culturale in Europa. E' una sorpresa per me.

 たぶん雑誌の賞味期間は短くて、何年も経ってからパラパラ見ても、史的事実を探るとか、ノスタルジックな感興に浸るとか、そういう目的ならともかく、マトモな情報をピックアップすることなんて、まず無理なんじゃないかと思う。
 とは言え、20年前のBRUTUSを手元に残していて、ごくまれにとは言え、何かのヒントを求めてそいつを引っ張り出したりする風変わりな僕だから、ほんの5年ほどのタイムラグはものともしない。しかも、ユリイカなんていう、ある意味では時間の流れと無縁気味に発行され続けている雑誌であればなおさらだ。

 イタリアを特集した『ユリイカ』の2001年7月号は、主として多様な文化的な果実を巡るインタビューなり鼎談なり小論なりが盛りだくさんだ。その中のひとつ、映画監督のフランチェスカ・アルキブージのインタビューが興味深かった。
「(前略)イタリアは文化的に悲惨な状況になっている。きのう(記者会見で)北野(武)が『オレにとってイタリアっていうと文化だとか芸術だとか美だとか』みたいなことを言ってるのを聞いてておかしくって、だって、でもあなた知ってるの──って言いたくて──今のイタリアが西欧諸国の中で読む本の数は最低、一人あたり年間で観にゆく映画の数も最低、レコード、CDも全然売れなくなって、文化産業は全滅なのに、それもみんなテレビだけしか見なくなったからなんだけど。(後略)」

「それは世界中で起きたことで、イタリアだけじゃなくて、ヨーロッパ全土での現象ではあるけれど、ただ、文化的により強固な国がある。フランスやイギリスやオランダのように、抵抗できる国が。(中略)イタリアには歴史的に本当の意味でのブルジョアジーが存在しなかった。貴族がいて、それから果てしない数の庶民がいた。そしてこの果てしない数の庶民はほとんどみんな裕福になった。でも、この裕福さに、本当の、深い文化レベルの向上が伴わなかった。(中略)ともかく内面を磨かなければならなくて、読書したり、コンサートに行ったり、そういう進歩的なアッパークラスがない。ちゃんと税金を払って、それも喜んで払うような。イギリスやフランスのように。イタリアでは、いわゆる啓蒙的なブルジョアが本当に少ない。(後略)」

「部分的には国の援助もあるけれど、わずかなもので、うまくもいっていない。しかもそのわずかな部分は、絶え間ない右翼の攻撃に晒されている。フランスではメゾン・ド・ラ・クルテュールを考え出したのは右翼政権なのに。政府が文化事業を計画すると必ずイタリアの右翼は『ああ、これだけの金があれば病院を建てられたのに』みたいなことを言って、反対する。(後略)」

『ユリイカ』2001年7月号(青土社) pp.59-60

 僕から見れば、イギリスやフランスと同様、揺るぎない確固たる文化的な振る舞いを身につけていそうなイタリアが、少なくとも1人のイタリア映画人から見れば、英仏との彼我の違いに途方に暮れざるを得ない状況に映っている。小さな驚きだった。引用に登場する北野武(イタリアでスタンディング・オベイションを受けられる数少ない日本人だ)の“イタリア観”は、少なからぬ日本人の賛同を得るところだろう。それがアルキブージには一笑に付されている(もっとも、笑われているのは北野武(日本人)というよりはイタリアの文化的現在なのだけれど)。
 そして、おそろしいくらいに日本にも当てはまるような気がする。もしかすると、日本と言えば、謙譲の美徳だとか幽玄だとか禅だとか繊細な感性だとかモッタイナイのココロがスバラシイだとか、そんなふうに思われてるかも知れなくて、それに対して胸を張れるかと言えば、うつむきながらおずおずと『下流社会』(三浦展)を差し出したりするハメになる。年間の自殺者が3万人を超えるような時代に芸術が不要なはずないじゃないか、と主張したのは平田オリザだけれど(『芸術立国論』)、芸術関連の予算が潤沢からはほど遠かろうことは僕でも察することができる。程度の差はあるだろうけれど、まさか、こんなところでイタリアと日本がこんなにも近しい間柄でいるなんて思いもよらぬことで、こういうことが思いもよらないってことは、なんだかんだ言って僕が見ているイタリアは、ゲイシャ・フジヤマ・ハラキリのレベルなのかも知れないわけなのだった。こういう限界があるのはやむを得ないことだとしても。

 そんなわけで(どんなわけで?)、名実ともに重い腰をよいしょとばかりにどうにか持ち上げて、今年のイタリア映画祭を少しくらい覗いてみようと思った次第(アルキブージの作品が来るわけではないけれど)。休日の昼下がりに上映される作品を1つだけ選んで前売り券を買ってみた。
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by mono_mono_14 | 2006-04-17 22:55 | 伊/italia | Comments(4)

空から見るイタリア

Vediamo il Bel Paese dal cielo. Le citta' sul mare, quelle collinari. Le torri alte, le cupole grandi. In ogni scena televisiva ho trovarto l'attrattiva italiana.

 TBSの『世界遺産』が10周年だそうで、記念プログラムの一環として「空から見るイタリア」なんていうのをやっていたのを知ったのは放送の後なのだけれど、BS-iで放送があった。おー、拾う神あり。いや、捨てられてたわけじゃないんだが。

 マテーラの洞窟住居群と現代の四角いアパートの対比。アルベルベッロのトゥルッリの屋根と並んではためく洗濯物。遠目に見てもバロックの豊潤がにじみ出ているナポリの海岸線。アマルフィ、ヴェネツィア、ピサ(・・・ジェノヴァは? 世界遺産じゃないってことか?)。栄華を誇ったかつての海洋王国たちの、あまりにもそれぞれに異なる風景。トスカーナの緑の丘とシエナ、サン・ジミニャーノ、フィレンツェ。人間(18歳って言ってた!?)の強烈な意志を感じずにはいられないカセルタの王宮。水道橋。
 ナポリの屋根並みが山に向かって途切れていく緩やかな駈け上がりの風景は、以前に一度だけ遠望したことのある赤城山麓の風景に少し似ている気がした。アマルフィはやっぱり真鶴みたいだし。そして、類例を他に探しようのないヴェネツィア。
 空から見ると(実は列車で移動していてもわかるのだけれど)、あちこちにサッカーコートが点在しており、しかも当たり前のように緑のカーペットが敷き込まれていたりする。羨ましい。
 やや駆け足に過ぎると言えなくもない構成だったけれど、おもしろかった。空撮と言うにはあまりに低い位置を飛んだりして、不思議な映像だった。まるでコンピュータ・ゲームかアドベンチャー映画のCGのようで。アッピア街道なんてつくりものかと思った。

 空から見れば、イタリアの多くの街はハンパなく建て込んでいる。日本の密集市街地どころじゃない詰まり方なのに、なぜイタリアは美しく感じ、日本は醜く感じてしまうのか。ただのエキゾチシズムでないことは、外国人が日本の建て込んだ市街地を全く美しいと言わないことからも明らかだ(東京の下町なんかは高評価を受けたりするけれど、それはヒューマンスケールの親密なコミュニティ感がウケているのであって、フィジカルな空間のクオリティが評価されているわけでは必ずしもないと思う)。「時間の蓄積」はひとつの要素だと思うけれど、他は何だろう。そこら辺りをもう少し突っ込んで考えられると、街の美しさがどこに宿るのか、とか、少し掴めるんじゃないの、などと思ったりしている。気の長い宿題ってところだ。現地視察が圧倒的に不足している(哀)。

 イタリアとプログラムに敬意を表して(?)、晩ご飯にパスタをつくった。晩ご飯と言っても深夜もいいところなのだけれど。Pasta alla francescana、フランシスコ会のパスタ。僕の他に食べた人がいないので「美味しくできた」って言ってしまえば、言ったmono勝ち。
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by mono_mono_14 | 2006-04-15 10:51 | 伊/italia | Comments(2)

自主的新学期

"Saro' molto impegnato con il lavoro al meno fino a marzo per cui difficilmente avro' piena di tempo di studiare l'italiano". In inverno pensavo cosi' ma ora siamo in aprile, cioe' potrei ricominciare a studiarlo... Lo so, lo so.

 僕のシゴトには季節労働者の気味があり、年明けからの数ヶ月、いわゆる年度末がビジーシーズン。この時期にはその日暮らしが精一杯で、とてもとてもイタリア語の勉強まで手が回らないよ。・・・という言い訳も4月10日も過ぎてだんだんと使いづらくなってきた。イタリア文化会館(いわゆる「赤色問題」がいっそう先鋭化してきているけれど、どうなるのだろう)の新学期もそろそろ始まる頃だ。しかし今期は受講の予定はない。自習。何と言っても教科書だけはじゃんじゃか束ねて資源ゴミに出すほどある(と書いてみたけれど、なぜ「掃いて捨てる」ほどの迫力が出ないのだろう。まいっか。そもそも誇張だし)。少なからぬ数の新古品状態の教科書があるわけなので、いい加減、少しは使おうってことで。どれくらいあるのか数え上げようかと思ったけれど、ヤになりそうな気がしたからヤメておく(でも、本当は在庫(?)を確認しておくべきではある)。ともあれ自力でガシガシと。せめてコツコツと。でなければチョボチョボと。
 教科書のいくつかには、イタリア文化会館で使ったものもそうなのだけれど、CDがついていたりするので、遅まきながらiPodとか手に入れてみる? とか思うものの、今のラインナップは「帯に短しタスキに長し」の最良のサンプルのように僕には見えてしまう。どうしたものだか。
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by mono_mono_14 | 2006-04-11 04:28 | 伊/italia | Comments(4)

cotone banane cacao e cafe'

 「Un'altra via d'uscita」、「30 modi per salvare il mondo」。「もうひとつの突破口」、「世界を救う30の方法」。こんなに真っ正面からというか真っ正直にというか曲をつくってアルバムの最後に収めたりするイタリア人アーティストたちは、日本の音楽マーケットにおいてはどこか異端というかどこに居たん? というか(寒)、そんなポジションをマイペースでたゆたっている。上の2タイトルの後者を書いたのはジョヴァノッティで、彼はイタリア的にはメジャーな存在だと思うけれど、前者を書いたダニエレ・セーペはどうなんだろう。

 ドメニカなのにどうにかならんか(寒)の休日出社&ナポレオン睡眠であわあわと資料を準備して3時間にわたる会議をしのぎ、へろへろと会社に戻り次なる締切に向かう僕が作業の友に取りだしたCDは、なぜだかダニエレ・セーペの『日雇い人夫』(Jurnateri)。我が身のコンディションに照らせば同じセーペの『限界労働』(Lavorare Stanca)でもよかったか。何となく冒頭に記した曲を聴きたくなったから。これを聴くのは超々久しぶり。もしかすると数年ぶりかも。
 岡本太郎(ゲージュツがバクハツした人ではない)の名が記されたライナーによれば、ダニエレ・セーペは1960年生まれのナポレターノ。演っている音楽は、イタリア民謡+スペイン民謡+アフリカ民謡+ジャズ+ポップ+ブラスバンド+オリーブオイル+ポモドーロ、そんな感じ。物憂げだったりハチャメチャだったり、まあ好き放題なんだけど、たまたま『限界労働』を買って初めて聴いて以来、僕はどこか気に入ったのだった。
 久しぶりに聴いたダニエレ・セーペは、痛快な疾走感と沈鬱な悲愴感が交互に訪れるような、ある意味、ナチュラル・ハイな聴き手とは非常に馴染みのよいスキゾ(死語)なアルバムだった。

 お目当ての「Un'altra via d'uscita」は、髪とともに薄れゆく僕の記憶にあった色合いよりも、ずいぶんと音のツブが立った佳曲だった。
 この歌は、例えば星をたくさーん飾った国旗に代表される一握りの国々とその手先企業たちが、プランテーション農園で汗水垂らして必死で働く人たちを蹂躙しているさま、コットン、バナナ、カカオ、カフェといった作物を巡るアンフェア極まりないトレードに対する異議申し立てだ。アンフェアなのは誰か(違)。こんな主張をとてもかわいいメロディとアレンジ(搾取される地に捧げてると思う、アフリカやカリブが混ざった抜けるような明るいアレンジだ)に乗せて歌う。
b0018597_2201610.jpg だけでなく、フェア・トレードを訴える学校向けのアニメーションがセットになっている。このアニメーションがかなりかわいい。手がけたのはこちらの模様。キャプチャをお裾分け。QTプレーヤのフレームも入れとくから、偶然スナップに映像が写り込んじゃった、くらいで著作権さんも目をつぶってくれないか。つか不問なくらいの不鮮明さではありますが。
 ライナーで岡本太郎が、「こうしたセーペの姿勢はイタリアの心あるアーティストに共通するもの」と書いているが、こんなテーマを真顔で曲にしてしまう、よく言えばウブで悪く言えばベタなカンジが、どこかしらイタリアっぽいなぁと思う。いえ、根拠はあんまりないんですが。
 で、この曲、教育用ということもあってか、たぶん、とてもシンプルなイタリア語で書かれたリリック。歌詞カード、クリアな発声の録音がありながら、「たぶん」と書かざるを得ない僕の心中察しつつウィンドウのクローズボタン(かブラウザの戻るボタン)を軽くクリック。ご静読ありがとうございました。
 しまった。シゴトの友に聴いてたはずなのに、こんなの書いてた。
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by mono_mono_14 | 2006-03-20 22:05 | 伊/italia | Comments(0)

マンマ・ジュリエッタの物語

 思ったよりもすいすいと読み終えた『カルメンの白いスカーフ』。少なからず刊行されている「日本人、イタリアに出会う」タイプの1冊ではあるのだけれど、出会った相手がハンパない。何しろスカラ座のプリマドンナだ。著者の武谷なおみさんは、子どもの頃に聴いた来日公演の演奏に強烈な感銘を受け、不世出のメゾ・ソプラノと称されるジュリエッタ・シミオナートへたどたどしいファンレターを送ったところから、この奇跡的な出会いと交流の物語は始まる。武谷さんとシミオナートの私的なエピソードを通じて、シミオナートのすごさ、ひいてはイタリア文化の懐の深さみたいなものを浮かび上がらせようとするノンフィクション。スーパースターならではの魅惑的なエピソードが満載で、あれよあれよとページが進んでいった。
 最初にファンレターを送った小さな勇気と、その小さな勇気を生むだけの大きな感動を与えたシミオナート。後者は誰にでもできることではないので、せめてここぞという機会に前者くらいの小さな勇気を振り絞れるようであれたらいいな、と思う。

 武谷さんの『イタリア覗きめがね』という本を以前に読んだことがあった。これも私的エピソードの断片からイタリアというかシチリア文化を繙くような中身の本なのだけれど、僕の主たる興味は、著者本人が被害のまっただ中に身を置くこととなった阪神淡路大震災の復興にまつわる物語と、文豪・谷崎潤一郎が細雪を書いた庵の保存問題を綴った部分にあった。海へ山へと積極的に都市開発を進め、株式会社神戸市役所などと揶揄されたり羨望されたりしていた神戸の街づくりが議論の俎上に上がっていたのを、とても興味深く読んだ。もちろん、シミオナートとのエピソードを含むイタリアの話もおもしろかった。その印象が僕のなかにあったので、書店の片隅に1冊あった『カルメンの白いスカーフ』にも目が留まったのだった。

 この本を読んでがぜん興味が湧いてきた『カヴァレリア・ルスティカーナ』は、全曲で1時間半にも満たない1幕ものの短いオペラ。シチリアを舞台にした愛憎劇。思いがけず聴き覚えのある旋律もあったりして、南国の濃いパッションに包まれた劇的な作品だった。シミオナートは血を吐かんばかりの激唱だった。テノールのマリオ・デル・モナコとの二重唱など、どちらも血の気の濃いというか、情熱的な歌声。こんなのをナマで聴いたら卒倒しそうだよ。

 来年は、武谷さんをはじめ数多くの日本人の心を捉えたイタリア歌劇団の初来日公演から50年に当たるのだそう。武谷さんはシミオナートの来日に対する期待でこの本を結んでいるが、もしそんな展開になったら、何だかとても素敵なことだと思う。
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by mono_mono_14 | 2005-12-19 23:59 | 伊/italia | Comments(0)

大脱線 al bar

Dopo un intervallo di quattro mesi ho ricominciato a fare un corso d'italiano. Abbiamo fatto degli dialoghi al bar ed abbiamo provato lo sconto per cui l'insegante ha scopiato a ridere. Ragazzi, una lezione; e' impossibile di chiedere lo sconto al bar :-).

 すごくすごくすごく久しぶりにイタリア語のレッスンに行き、自己紹介だの他己紹介だのバールでの会話だのをする。先生は僕がこれまで受けた中でいちばんエレガンテな着こなし(と言ってもフツー、これまでがユルすぎた(笑))。
 バールでのやりとり(お店屋さんごっこ)は、何度もしているはずだけど、いちばんベーシックなやりとりですら、案外、おぼつかなくて笑える。そのくせ、勝手にアレンジして脱線していくのだからヒドい生徒たちだ。僕はあんまり積極的に脱線はしないのだけれど、今日、ペアを組んだラガッツァは、子どもみたいに瞳を輝かせながらワクワクと脱線していく人だったので、一生懸命ついていきました。と言うわけでバールでスコントはするは、バリスタのくせに外に食べに行こうと誘ったりするは、メチャメチャになってしまった。この脱線ぶりはたぶん先生にとっても予定外と見た。
 脱線は自分の練習にはなるかも知れないけれど、周りのためにはあんまりなってないかも知れない。脱線しながら犯した間違いを直してもらえなければ自分のためにもあんまりなってないかも知れない。だからほどほどに慎んだ方がいいとも思うのだけれど、予定のカリキュラム(たいがいちょっぴり物足りない)を脱線することによって、脱線の程度に応じたカリキュラムに組み直してもらえる可能性がありそうにも思う。そういう意味ではやった者勝ちなところもある。今日は一生懸命に脱線してたので(なんじゃそりゃ)、周りの人がどう感じているかなんてわからなかった。不愉快なキブンにさせてたらごめんなさい、という感じ。でも、次回のレッスンで先生がどう出て来るか、ちょっと楽しみ。
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by mono_mono_14 | 2005-10-03 23:14 | 伊/italia | Comments(0)

『読むイタリア語』

Ho trovato un nuovo testo dell'italiano titolato "Leggere in italiano". E' redatto dagli argomenti dei giornali, pubbulicita', istruzioni, ricette, ecc., scritti dagli italiani per gli italiani e le autirici sperano che i lettori imparino a leggere l'italiano meglio. L'ho comprato.

 『読むイタリア語』という教科書を発見。新聞記事、取説、レシピ、雑誌広告などなど、イタリア人向けに書かれたイタリア語を教材に、たぶん主として構文と文法と表現を勉強しましょう、という本。買ってみる。だけでなくやってみなさいって。「超いんちきイタリア語」も「普通ないんちきイタリア語」くらいにはなるかも知れない(って進歩なのか?)。「La Gazzetta dello Sport」や「La Repubbulica」のウェブサイトを、意味が取れなくても目で追ってみると、へー、こんな風に言うのか、などという発見がたまにあったりするから、そんなこともしてみているわけだけれど、だから、そこに着目した教科書は何となく肌が合いそうな気がする。だけでなくやってみなさいって。・・・確かに、入門書からちょっと早まったものまで、買ってはみたもののチラ見止まりの教科書が何冊もあるのは事実なんだよなぁ。でも、それはともかくとしても、こういう本はあんまりなくって、けっこう待たれていたんじゃないか、と思う。著者は白崎容子さんと入江たまよさん。白水社刊。
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by mono_mono_14 | 2005-09-05 16:56 | 伊/italia | Comments(0)