カテゴリ:本/libro( 116 )

加藤順彦『若者よ、アジアのウミガメとなれ 講演録』

 加藤順彦『若者よ、アジアのウミガメとなれ 講演録』。加藤順彦さんが自らの歩みを振り返りながら、これからの時代を生き、拓いていく若者たちに向けて送ったエールを記録したものだ。


 「ウミガメ」というのは中国語の「海亀」のことで、中国では、若くして海外に飛び出し、学び、何かをなしとげて凱旋帰国した起業家たちをこう呼ぶのだそうだ。加藤さんは、これからの日本の若い世代にも、そういう「ウミガメ」のような人になってほしいという。加藤さんのその期待と熱望が文章のはしばしにほとばしっている。その圧と熱さに満ちた語りは、若者にしか響かないというものではなかった。くたびれた大人の、淀み静まった心の水面にも胸騒ぎのようなさざなみが立ち、ちょっと帆を上げてみないかと誘うかのような風が吹く。


 僕は、何かに二の足を踏むのを喘息のせいにしてきた。実際、この疾患は、僕のような比較的に軽い症状であっても、実際の行動に対する制約にはなるし、何かにつけ慎重に判断し行動することを求められる。発作が起きて医者に行けなかったら…という想像は、それなりの恐怖として実感できるものだ。大学生の頃からβ2刺激薬(気管支拡張剤)を頓用できるようになり、生活面での制約は劇的に小さくなったが、発作の怖さが消えることはなく、一方で薬効を過信した軽率な振る舞いも多くなった(喫煙習慣なんて、その最たるものだった)。僕は、そういう小さな軽率さは平気で積み重ねたくせに、ウミガメ的なマインドは一向に育てようとしなかったのだ。


 この先、ウミガメを取り巻く大海がどうなっていくのかはわからない。そもそも大海原に泳ぎ出るウミガメは、全体のボリュームから見ればほんの一握りではあるだろう。浜辺でのんびり暮らすシオマネキとして生きたいと思うかも知れないし(いや、シオマネキが浜辺でのんびり暮らしているのかは知らないが)、それも決して悪くない。それでも、ウミガメ精神を必要とせずに生きられる時代は、もう終わってしまうだろう。それは若者だけでなく、中年だろうと老人だろうと同じだと思う。むしろ、年齢を重ねていればいるほど、変化や挑戦を心がけないと、慣れ親しんだルーティンに居心地よく絡め取られ、静かに静かにバイタルを下げていく。そうならないための1つのアプローチが、ウミガメたちのマインドを胸に、どんなにささやかなものであれ、何かを願い、挑む日々を生きることなのだと思う。



 この本を手にしたのには、大きく2つの理由があった。1つは、僕の書棚の「未来への扉になるかも棚」に置いておきたいなと思ったことだ。いや、そう名づけられた書棚などない。が、子どもから見た父親の書棚なんて、わけのわからん縁遠さが居並ぶ中に、たまに一条二条のかすかな光を感じたりするものだろう。遠くない将来のある日、僕の書棚のこの本が、その背表紙から細い光を放つかも知れない。

 もう1つの理由は、巻末解説あらため巻頭演説となった田中泰延さんの6,900字を読んでみたいと思ったことだ。


 巻頭演説は圧巻だった。淡々とした語り口ながら、この本を書いた(講演をした)のがどういう人なのか(加えて、それを紹介している自分がどういう人なのか)を、軽い笑いも盛り込みつつ必要十分に紹介しながら、本文(講演)のテンションとグルーヴにぐんぐんと合わせていってバトンを渡す。ほら、オープニングのデトロイト・ロック・シティに先立つ “You wanted the best, you got the best. The hottest band in the world... KISS!!” みたいなやつだよ。すごかった。巻末でなく巻頭に置かれるべき文章だった。巻末に置かれる時には、JBにマントを掛けに来た感じの文章になるのだと思う。


 加藤さんと田中さんをつなぐエピソードの1つとして紹介されていた映画『Fly Me to Minami ~恋するミナミ~』。観てみたいなと思ったのだけれど、きっともう上映館もなければテレビでやったりもしないんだろうな…と半ばあきらめていたところ、ふと覗いてみたアマゾン川をゆらゆらと流れていた。おお、アマゾン、すべてを飲み込み流し続けるおそるべき大河よ。オンデマンドDVDの在庫ありという、いささか哲学的な状況にとまどいつつポチった。無事に届けば週末三連休のどこかで観る。あとは、「春夏冬 二升五合 大阪城」の湯呑みの寿司屋でおまかせを握ってもらう日をめざすのみだ。のみって。




 謝辞。この本(+恋するミナミ)にたどり着いたのは、改めて言うまでもなく田中泰延さんのツイッターをはじめとする惜しみのない(というか大盤振る舞いの)情報発信のおかげです。ありがとうございました。「泰延」を「やすのぶ」と打って変換していることは秘密。


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by mono_mono_14 | 2017-10-05 23:34 | 本/libro | Comments(0)

指南役『「朝ドラ」一人勝ちの法則』

 指南役『「朝ドラ」一人勝ちの法則』読了。正直、これまであまり読んだことのないテーマの本。「すこし長めの、はじめに」は、「ドラマを愛する全ての人々へ、この本を捧げます。あなたのドラマ作り、ドラマ選びの一助になれば幸いです。」という文章で締められている。一義的には、ドラマを題材にドラマ好きの人たちに向けて書かれた本なのだろう。そういう意味では、最近、朝ドラこそ時計も兼ねて観てはいるものの、特にドラマ好きというわけでもない僕は、読者として想定されていないような気もするが、まあ何かの縁で手にしたわけだし、気楽に読み始めてみた。そして、得るもの多く読み終えてしまった。

 5章立てで、そのうち最初の4章が朝ドラや連ドラの浮き沈みの読み解きに充てられている。へー、そうなのかー、なるほどねー、と、それこそリビングでドラマを見ているように楽しく読んだが、いかんせん、取り上げられているドラマ自体をあまり知らない(し、必然的に脚本家もさほど知らない)ため、ドラマ好きからしたら堪えられないのだろう解説のおもしろさを味わいきれていないだろうことは確かで、そのことは、ちょっと惜しまれるというか残念ではあった。
 しかし、最後の5章。連ドラ復活の処方箋の体裁をとったこの章が、すんごくよかった。この部分は、仕事であれ、日々の暮らしであれ、何かにクリエイティブに向き合いたいという心持ちがあれば、テレビドラマへの興味の濃淡は関係なく刺激的に読めると思う。

 5章へのブリッジとなる4章の最後の辺りにこう記されている。
 日本も強くなりすぎたテレビ局や芸能プロダクションが、大きな曲がり角に来ている。その先に待ち受けるのは、クリエイティブで勝負する制作会社の時代であり、真に能力で判定される俳優個人の時代である。(p.157・強調原文)
 ドラマの制作現場の将来展望として書かれているけれども、この「制作会社」と「俳優個人」のところは、自分の生きる世界に照らした置き換えが可能だ。僕は(というかおそらく誰もが)、ある時は制作会社として社会と接し、ある時は俳優個人として振る舞っている。「連ドラ再興の話をしますけど、これ、あなたの世界に当てはめて読めると思いますよ」という著者の思惑が伏流水のように流れている。少なくともこれに続く5章はそう読めるように書かれている。

 中身の詳細な紹介は控えるけれど、僕は、自分に引き寄せた時に、大事なことは次の2つだと受け止めた。1)先輩方はこいつはという若い人に思い切って大きなチャンスを与え、その人を支えよ(抜擢された若い人は大いに奮い立て)、2)そこで紡がれるストーリー(ドラマでいう脚本で、仕事の局面によってはロジックなどに当たる場合もあるだろう)は一から十までオリジナルである必要は全くなく、むしろ先人たちのすぐれた仕事を大いに参照しつつ、そのアップデートに注力することが大事だ。この2つだ。
 「あの本、読んだ?」「いえ」。
 「この作品、知ってる?」「いえ」。
 どんなに張り切ったとしても、こんなところでオリジナリティとクリエイティビティにあふれた何かが生まれる可能性はゼロだ。…我が身を振り返ってうなだれて押し黙る場面となってしまうが、それでも、過去に頼って未来を描いていいんだという示唆は、改めて僕の視界をずいぶんと明るくしてくれる。もちろん、すぐれた過去を参照する必要はあるけれど、すぐれた過去は文献だろうと事例だろうといくらでも思い当たるものだ(進行中の現在をいかに注意深く察知するかということが、案外、難しいかも知れない)。
 ここで、ふいに『知ろうとすること。』での早野龍五の言葉を思い出す。
 端的にいえば、自分が研究したり、発言したりする分野において、過去に何が起きて、いまどこまでがわかっていて、どこからがわかってないかというようなことは、勉強しなくちゃいけない。それは必須です。(早野龍五・糸井重里『知ろうとすること。』新潮文庫、pp.150-151)
 グーグルに気楽に訊いてわかったような気になる日々を、もうずいぶんと過ごしてきてしまった。ネット検索のない世界には戻れないし、戻る必要もないけれど、その便利さや気楽さにとどまらないで、過去の蓄積と進行中の現在に敬意を持って向き合いながら、未来を思い描き、なんとかそこに向かおうとする。そうありたいし、あらねばな、と改めて思った。うん、怠惰に流されがちな凡人がまた少し気を引き締めたという、ドラマのかけらもない話になってしまったな。愛くるしい。
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 謝辞。ふだん手に取らないようなテーマの本を楽しく読んでしまったのは、ひとえに田中泰延さんの紹介ツイートを目にしたおかげです。ありがとうございました。

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by mono_mono_14 | 2017-09-20 12:27 | 本/libro | Comments(0)

寄藤文平『デザインの仕事』

 寄藤文平『デザインの仕事』読了。街の小さな本屋のレジ前にある平台の片隅に積んであったその脇を、素通りしかかったところでふと目が会い、手に取り、一瞬の躊躇の後にレジへと持っていった1冊。風に乗ってたまたま窓から入り込んで手元に届いたみたいな本だ。それがとてもおもしろかった。

 グラフィックデザイナーの寄藤文平が、自らの歩みと作品を「デザインの仕事」という枠組みからふり返って思うことが綴られている。現時点において自らの信ずるところを足場として、淡々とと言っていいほど飾り気なく、率直かつ穏やかに繰り広げられる語りは、静かな熱とグルーヴを放ちながら、読んでいる僕に入り込んでくる。僕は、自分の置かれた状況に照らし合わせながら、大きく頷いたり、目を見開かされたり、眉間にシワを寄せたり、虚空を仰ぎ見たり、ふうっと深い息を漏らしたりすることになる。とても楽しく豊かな時間だった。

 読みながら感じるワクワク感や胸騒ぎは、まるで冒険譚でも読んでいるかのようだが(実際、ここに綴られているのは寄藤の冒険の実録だが)、そこにドラマティックな演出はほとんどなされていない。むしろ慎重に遠ざけられている。章立ても、緻密で劇的というよりは、ざっくりとした割り切りのもとで組み立てられている。一歩引いた位置から冷静に全体を見渡している。デザインしすぎない構成デザインにより、そこに込められた穏やかな熱のようなものが伝わりやすくなっている。少しでも多くの何かが読み手に伝われば(少しでも多くの何かを読み手が受け取れれば、と言った方がよいかも知れない)…ということが編集の意図だとすれば、それは成功しているように思う。

 印象に残ったところを挙げればキリがないし、そもそも読む人それぞれが感じ取るべきお楽しみの部分なので、ここではあまり内容に立ち入らないことにするけれど、イラストレーターやデザイナーの社会的な立ち位置を巡ってぎりぎりと考え抜いている部分や、ロジックやストーリーに大きく依存する風潮への危惧、スランプとの向き合い方、デザインやアウトプットの技術を体系的な学問として組み立てられるのではないかという示唆の辺りなどが、強く印象に残った。

 本書の著者は寄藤ひとりだが、聞き書きを務めた木村俊介も、共著者と言ってもよいような、ものすごく重要で優れた仕事をしている。感じ入るところ大きかった。


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by mono_mono_14 | 2017-09-14 13:37 | 本/libro | Comments(0)

『カウボーイ・サマー』

 前田将多『カウボーイ・サマー 8000エイカーの仕事場で』読了。すごく楽しかった。それになんか元気になった。それが小説であれノンフィクションであれ、冒険の物語が読み手の心に届けてくれるエールというのは確かにあると思う。

 少なくとも僕くらいの年齢でカウボーイという語を知らない人はあまりいないと思うけれど、同時に、カウボーイの実際を知っている人もそんなにいないのではないかと思う。僕のカウボーイ像には、カウボーイハットとロデオ、それに西部劇やらカントリーミュージックやらのイメージが、残念なくらい適当に入り混じっている。シェーン、髪バック! すらカウボーイ枠にあるかも知れない。髪は長い友だちであることがわかりすぎるライフを送っている僕なので、それもやむを得ないと思う。2017年ともなれば、そもそもなんの話なのかわからない人たちが多いかも知れないが、それもやむを得ないと思う。

 『カウボーイ・サマー』は、40歳を前にして会社を辞めてひと夏のカウボーイ修行に臨んだ男の冒険の記録だ。目に映る景色、耳に届く音、鼻をくすぐるにおい、ほほに触れる空気、全身を試すような力仕事、何もかもが新鮮で衝撃的でもあっただろうその日々が、さながら観察日記とか業務日報のような抑えた筆致で綴られている。たぶん、なによりもまず著者自身のために、すべてをできるだけきちんと書き留めておきたかったのだと思う。そして、記録と記憶を冷静に丹念に綴じ込めた1行1行が、実はそこに熱い思いを湛えていて、亜熱帯化する東京の片隅で鈍った身体を持て余しながらページを繰る僕を、めくるめく冒険旅行に連れ出してくれる。カウボーイ的にはよくあるできごとでも、ショータと仲間たち(読者だ)には一大事で、緊張する場面では息を呑み、ひとつ解決すると大きく息をつく。缶ビールの1本でも開けざるを得ない。久しぶりにクアーズを飲みたくなったりした。買って帰ろう。…と思ったのだが昔のようには売っていないのだった。見つけたら絶対に買うボーイ! …すまん。

 もう20年近く前になるけれど、仕事で福島県原町市(現・南相馬市)にいくたびか通う機会があった。野馬追のまちだ。普通のまちより遥かに乗馬の機会が身近にあった。金曜日が打合せで、翌日の土曜日に馬に乗せてもらったことがある。機会をつくってくれたのは仕事の相手方の1人で、打合せの席からは想像もできないくらい元気ではつらつとしていた。こわごわと馬に乗り、いや、僕が馬に乗ったのではなく、馬が僕を乗せてくれたのだけど、小さな馬場をゆっくり周回した。横から見ることの多かった馬の首は、太くたくましいものだと思っていたのだけれど、鞍上から見下ろす馬の首は細くしなやかで美しかった。その印象のことをよく覚えている。僕を乗せてくれた馬もいいヤツだったが、著者がひと夏をともにした馬たちもすばらしいヤツらだったようだ。
 夢のような夏が終わろうとする夕刻。サマー・カウボーイは、すべてを慈しむようにゆっくりとクワッド(一人乗り四輪バギー)を走らせている。このクワッドを降りたら、あとはもう帰国の支度だけが残っている。ふと見ると、行く手に数頭の馬たちが並んでいたのだと言う。ショータ、帰るらしいよ。馬耳東風などというけれど、馬たちは風のたよりを聞き逃さなかったのだ。馬たちと分かち合う最後のひととき。詩情あふれる美しいシーンだった。馬の首にやさしく添えられた手、その場を離れない馬たち、カウボーイの目からあふれだす涙。クローズアップで描かれていたその場面が、ぐんぐん空撮の映像に変わっていく(僕のなかでだ)。8000エイカーのただなかにたたずむカウボーイと馬たちを見守る画面が広がっていく。そんな気がした。きっと空からやさしい眼差しで見ていた人がいたのだと思う。
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by mono_mono_14 | 2017-07-10 22:12 | 本/libro | Comments(0)

『ボクたちはみんな大人になれなかった』

 『ボクたちはみんな大人になれなかった』の読後感は、ページに綴られている映像的で音楽的な魅力をも放つ文章だけでなく、タイトルそのものにも大きく引きずられ、広げられている。うつむき、息を潜めている、いまひとつ大人になれていない自分。そんな自分を意識の表側にぐいっと引きずり出し、向き合わせられる。読んでいる僕のそのバツの悪さ、落ち着かなさと、「ボク」が生きているヒリヒリするフラジャイルな日常、グルグルと揺れ動く心情の描写とがないまぜになるうちに、疾走感あるグルーヴに飲み込まれ、読み終えている。

 どういう時代に20代を生きることになるのかは、たまたま与えられた運命的なものだ。60年に生まれれば80年代を、70年に生まれれば90年代を、それぞれの20代として生きるよりほかない。その80年代がたまたまバブル経済期だったり、90年代がたまたま失われた10年と呼ばれる時期だったりするのは、もう、どうすることもできない。そんな時代と年代の運命的な巡り合わせが瑞々しくグルーヴィに綴られている。読み進めながら、誰もがその人なりに持っている若き日の衝動をレファレンスする。僕の生きた20代は、「ボク」が駆け抜けた映画のような日々ではなかったけれど、それでも自分に置き換えて思い起こすことができるあれやこれやが散りばめられていた。「ボク」が先の見えない焦燥感のなかでエクレア工場に勤め始めた1993年、遅まきながら僕もまた社会に出たのだった。

 話は変わる。これは、たまたま今朝、若干の経緯はありつつもなんとなくイラッとして家人につっけんどんな態度を取ってしまい、それを俯瞰しているメタな自分が「これはちょっとモラハラ的なんじゃない」などと評論し、そのメタ評論を感じ取っている自分が「あいかわらず人間できてないなー」と自己嫌悪的な気分に包まれていたときに不意に湧いてきたことなのだけれど、世のあらゆるハラスメントは加害者側の甘え、つまるところ「大人になれていない」ことのなせるわざなんじゃないか。
 うっかり送られてきた友達リクエストを承認した彼女が、「ボク」の投稿にたくさんの「ひどいね」を並べるなかに1つだけ「いいね」を打つ。その行為から甘く苦いセンチメントとともに伝わってくるのは、寛容であり、信頼であり、受容である。この態度がまさに「大人」なのではないか。

 場面は穏やかながら、背後でどんどん圧を高めて疾走していくようなエンディング。すべてを包み込み、すべてを解放する、宗教的とすら言えそうなカタルシス。「A Day in the Life」の最後の和音のような響きと余韻。そして、新しい一歩を踏み出せるよう、そっと背中を押してくれる。キミも大丈夫だよって。

 この本は、今日を生きる僕らに奏でられた救済の歌だ。
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by mono_mono_14 | 2017-07-08 03:38 | 本/libro | Comments(0)

倉方俊輔『吉祥寺ハモニカ横丁のつくり方』

 倉方俊輔『吉祥寺ハモニカ横丁のつくり方』読了。おもしろかった。
 本書がその「つくり方」を解明したかと言えば、まだ道のりは長いと思うが、記録すべき時に記録しておくことの価値は大いにアピールできたと思う(形見さんの語りなど、その証左となった)。「つくり方」としては、設計者よりもむしろ、地権者の話やファイナンスの話などがあるとよかったようにも思うけれど、もっとも、どこまで解き明かしたとしても「つくり方(方法論)」にはならないのかも知れない。それでも、倉方さんが言うように、横丁に対する感興を記述する計画言語がないのは事実だし、問題でもあるし、計画的につくれるような道筋を探るさまざまな作業、試行錯誤が必要で、この1冊がそのストラグルであることは確かだと思う。ナラティブ・プランニング、語られし思いからなる計画論(みんなの意見をポストイットに記してグルーピングして何かが見えた!といった営みとは決定的に違うものとして)の一端が見えた…ような気がした。…錯覚かも知れない。そう思うほど仄かにではあったけれど。目次をぱらぱら見るとまるで姉妹本のような三浦展『人間の居る場所』を続けて読んでみる(…予定)。
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by mono_mono_14 | 2016-04-15 18:08 | 本/libro | Comments(0)

寺井暁子『10年後、ともに会いに』

Spero che tanta gente legga il primo libro di Akiko Terai per pensare la sua propria vita in questa era di cambiamento. Un buon libro, mi piace molto.

 アーティスト自らが手売りしているようなインディーズなCDを、この1年かそこらの間に5枚ほど買っている。ミュージシャンにとって、CDを制作するというのは、ずいぶんと簡単なことになったのだろうと思う。もしかすると本もそうなのかも知れない。人気ブログが次々と書籍化されたり、オンライン入稿的な自費出版もずいぶんとお手軽になっている。
 もっとも、それらはいずれもブツにするところのハードルが下がっただけで、中身をつくることや、広く買ってもらうことのハードルが下がったわけではない。だから、誰かが書いた読むに値する文章が本の形を取り、僕の手元に届くということは、その間にいくつもの偶然が折り重なった結果であることもあいまって、ちょっとした奇跡のような、喜んでよいことなのだと思う。

 今年の9月だったか、新宿タイムズスクエアの紀伊國屋書店にトークイベントを見に行き、その時に買い求めた1冊をようやく読み終えた。寺井暁子『10年後、ともに会いに』、クルミド出版。この本がひとりでも多くの人に読んでもらえたらいいのに、と思っている。勝手に。

 凡庸な高校生だった僕にとってすら、高校時代は特別な時間だった。何が特別だったかを説明するのは難しい。でも、確かにかけがえのない特別な時間だった。寺井さんの高校生活は、僕の知っているような凡庸な高校生活とはずいぶんとかけ離れていて、寺井さんが感じているだろうそのかけがえのなさを僕は想像しきれない。でも、きっと特別な時間だったに違いないと思っている。その高校時代の同級生を世界中に訪ね歩く旅がもたらした物語、それをみずみずしく編み上げた本だ。
 3部構成になっている。第一部がヨーロッパ・北米編、第二部がイスラエル・パレスチナ編、第三部がエジプト編。それだけでもう、どんな高校だ、という話だ。

 アキコがヨーロッパやアメリカにかつての同級生を訪ね歩く旅を綴った第一部の文章は、僕にどこかしらアツコを想い起こさせた。客観的で冷静なフィルターを通して自分の感情をどちらかと言えば淡々と吐露しながら、私的世界にとどまらない広がりや余韻を読み手(端的には僕だ)に与えてくれる、そんなところが似ているんじゃないかと思った。アキコの方がその文章にみずみずしく初々しいところはあるが、それも当然と言えば当然で、アツコが初めての単著『ミラノ 霧の風景』を世に送り出したのは還暦を過ぎてからのことだ。
 いくらか緊張しながらも状況を冷静に捉えられていた(ように見える)第一部と比べると、第二部、そして第三部は、自分が直面する状況や感情を受け止めきれていない濁流感というか疾走感にあふれていて、とてもグルーヴィだ。とりわけエジプト革命のただ中に身を置いた第三部がすごくいい。この時代、そのような場所に、寺井さんのような感性と知性が居合わせたことは僕らにとって幸運なことだと思う。このような感性と知性は、きっと今後もいろいろな場面に遭遇することになるのだろう。それらがまた本の形を取って手元に届いてきたら、それはやはりちょっとした奇跡のようなこととして喜びたいと思う。Let's see what happens later.

 「ねえ、あなたにとっての光と影ってなに?」(p.19)

 「そんな風に考えたら先生たちが悲しむよ。それにもし同じ理由でみんなとも疎遠なら言わせてもらうけれど、私はとてもあなたに会いたかった」(p.68)
 「会えてよかった。君は僕に光を運んできてくれた。君がこの旅をしていることが光だと思う。だから僕のためにも続けてね」(p.70)
 ……世界を変えるというのは誰もが当たり前に持っていていい想いなんだというひとつの原点に連れ戻してもらえる気がした。それぞれの場所で。それぞれのやり方で。(p.117)
 ただ、気になっている。それだけで会いに言ってもいいのだと思ってみる。(p.122)
 うらやましいのはどっちだ、と私はこっそり思った。仲間たちと志をともにして、自分のアイデアで事業を1歩1歩積み上げていく。そのすべてが自分の歩みだ。観客の私は、彼らを見て喜ぶことや感動することはできても、1歩1歩の本当の味を噛み締めることはできない。(p.138)

 「イスラエルの友達が言った。僕たちは学校で3年間アラビア語を勉強した。やっと平和になると思っていたんだ」(p.249)
 「パレスチナでお茶をと家に招き入れてくれた人が言った。私は人生で3回の戦争に遭いました。メリークリスマス。来年こそは平和が訪れますように、と」(p.250)

 「革命を見に来い」(p.270)
 「それに私たちの世代ってさ、変化を起こすために生まれてきたんだよ!」(p.297)
 「たぶんね、エジプトの人が革命によって気づいたのは、『自分たちは自分たちが思っているよりも多くのことを自分たちでできる』ってことだよ」(p.304)
 「また明日」──その明日が来ることはなかったのに。(p.381)
 今までの自分だったら、どんなことでも自分にできることを何か思いつけただろうか。画面にかじりつきながら、私はモナやアリアのことを考えた。ツイッターで人を動かし続けた彼女たち。そのそばにいて自分も変わったんだ、という確かな手応えを感じた。(p.387)

 「そういえば、ホゼがクリスマスに帰ってきたとき、アキコと再会したときの話をずいぶんとしていたよ」(p.395)

 私たちは、今でもきっと、お互いに影響しあって生きている。(p.395)


 最後にこっそり書きつけておくと、恥ずかしながらこのことには初めて気づいたのだけれど、旅の途中の寺井さんの会話は基本的には英語でなされていたはずなので、ページにみずみずしく滑らかに記されている会話は、著者が訳者となって翻訳しているのだ、ということ。著者が日本人で、日本語で書き下ろしたとしても、それが翻訳文学であることがあるんだということに、初めて気づいたのだった。今ごろなのかよとあきれる向きもあるでしょう。ええ、今ごろなんです。そして、僕が惹かれやすい日本人の著作は──須賀敦子にしろ、堀江敏幸にしろ──、翻訳のニュアンスを帯びた書き手が送り出しているものなのかもな、と思った。大発見だ。僕以外の誰にとっても意味がないが。かつてのアツコの会話もイタリア語だったはずなんだな。

 冒頭、本を手軽につくれる時代などと書いた。この本は、そんな時代に逆行するかのように丁寧に丁寧につくられた本だ。よくこんな値段(税抜き2,500円)でつくれるなーと驚いてしまう。ぜひ、1冊、お手元に。

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by mono_mono_14 | 2014-12-30 17:12 | 本/libro | Comments(0)

『「自分メディア」はこう作る!』と『多眼思考』

Ho letto i due libri tascabili di chikirin, famosa per i suoi blog e twitter, e mi sono piaciuti tutti i due. Sono molto interessanti, stimolanti e suggestivi, e credo che meritino di essere rileggere frequentemente.

 ちきりんさんの、たぶん二部作と言ってもいいんだろうと思う2冊、『「自分メディア」はこう作る!』(以下『自分メディア』)と『多眼思考』。とてもおもしろかった。おもしろいだろうことは予想していたのだけれど、想像以上だった。なんて言うか、気持ちのいい&気前のいい本だった。どちらも。スタンディングオベーションだ。・・・とiMacの前に座って書いているけれども。

 僕は、ちきりんさんがブログの固定読者層に引き込みたいと思っている潜在ターゲット層に入っていただろうと思うし、そしてわりと最近のことではあるけれど、すでに(とびきり熱心とは言えないにしても)いちおう固定読者のひとりとなっているわけなので、『自分メディア』の方で披瀝してくれているブログ読者増強戦略のところなどは、わがことを振り返っているかのようにおもしろく読んだ。僕がちきりんさんの「術中にはまった」ように見えるけれど(実際そうと言えばそうだけど)、でもそれはむしろ逆で、僕(ら)に合わせて術を組んでくれているだけなのだ。いやー、よくわかってるよなー、そうなんだよねー。という感じだった。感嘆。紙版を出してもらえてよかった。
 ちきりんさんがブログを始めたのは2005年の3月らしいので、それでいくと僕の方が半年ばかり早かったりして驚くのだけれど(日記をつける習慣もなかったのにさ)、ブログに対するビジョンやそのクオリティ、その後のスケール感の違い等々はまったく無視した上で言うと、運営方針みたいなものにところどころ近しいものを感じ、なんて言うか、嬉しかったり勇気づけられたりした。ま、もう少しちゃんとエントリを上げないとダメだけどー。ええ…。はい…。がむばります…。

 『自分メディア』の方は、そういうことに関心のある人ほど楽しめると思うけど、ツイッターからつくった『多眼思考』の方は、これは誰が読んでもおもしろいのではないかと思う(どちらか1冊ならこっちをより多くの人に勧めたい)。
 耳障りのいいことや溜飲を下げるようなことばかりが書いてあるわけではなく、むしろ耳の痛いことやトゲがチクっと刺さるところも多いと思うけど、だからこそ誰もが自分ごととして読めると思う。
 「感想? まぁ、総じて言えばおもしろかったな」と思えたかどうかという辺りに実は線があり、その線の向こうとこっち(おもしろかったか、響かなかったか)では全然違うんじゃないか、訪れる未来や手元に引き寄せるシアワセが。そんなリトマス試験紙か踏み絵のようなところもある。
 章立て(章タイトル)が「お題」で、ツイート群(各ページ)がちきりんさんの(現時点での)自由回答。膝を打ったり腹を立てたりしたら、そこから悶々と自分の回答案を考えなきゃいけない。もし、どこかのページを読んでカチンと来たりしたら、それはもう、最高の反応のひとつだと思う。超チャンスだ。そのカチンを一所懸命に考えてみれば、自分のシアワセについて一所懸命に考えているってことになると思う。ちなみに僕は、カチンと来ることはなかったけれど、自分に照らしてしょんぼりするところはちらほらあった。どこを開いてもいろいろ考えさせられる文章だらけだった。ま、考えているだけだとダメだけどー。ええ…。はい…。がむばります…。

 ツイッターからつくられた本は世にたくさんあるのだろうけれど、ツイッターからこういう本をつくれる人は、ほんとうに少ないだろうと思う。その都度のツイートが素材として優れていないといけないし、私的な事柄ではなく社会的な事象に触れてないといけないし、でもそれをいかにもなまとめやクリシェでなく表現するのはそんなに簡単ではないし、てか、それどころか「自分らしさ」が漂っていないといけないし、そういうツイートを折に触れ発し続ける(=考え続けている)必要があるし。ほんとにすごいことだと思う。敬服。
 あと、編集。材料(ツイート)と調理(編集)が合わさって絶妙な一皿(一冊)になっているわけで、編集という行為の価値や意義もびしびしと感じられた。編集にも敬服。

 最後に、これは本当にたまたまだ(と思う)けれど、ちょうど国政選挙になったので、20代、30代、まあ40代も入れよっか、そういう人たちが、『多眼思考』を読んでから投票に行くといいんじゃないかと思ったり、した。

 そんじゃーね。
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by mono_mono_14 | 2014-12-03 22:08 | 本/libro | Comments(0)

『知ろうとすること。』

Mi sono letto un libro tascabile intitolato "far saperne" da Hayano ed Itoi. Con i dialoghi tramite le attivita' per sapere le condizioni radioattive in Fukushima, i due autori ci danno un'atteggiamento per sapere qualcosa di piu', soprattutto ai giovani.

 早野龍五・糸井重里『知ろうとすること。』をするするーと読み終える。東日本大震災後の福島をフィールドとした早野さんの取り組みを素材として、糸井さんと早野さんがしゃべりあったことをまとめた本。
 彼らが何をしゃべりあっていたのかと言えば、福島の現在と未来のようでもあるけれど(そして実際、その貴重で信頼できそうな情報でもあるのだけれど)、自分のよって立つ足もとをきちんと固めて、より明るい未来を見通そうとする態度についてだ。そういう「知ろうとする」態度やふるまい方を、これからを生きる人たちは身につけるべきだという信念であり、そうしようよという提案だ。
 ほんとうにするするーと読める文庫本なので(著者の2人だけでなく編集者の貢献も大)、内容は手にとってそれぞれに感じ取ってもらいたく、ここでは特に触れない。

 …とは書いたものの、以下、自分メモも兼ねて、いくつか断片的に書き残しておきます。

 『糸井 ……ぼくが測定に立ち会う係だったら、「カリウムのことは先に言いましょうよ」って提案すると思います。』(p.125)
 話題は、乳幼児でも全身の放射線量を測定できるベビースキャンの性能と使い方。放射性カリウムの影響が測定結果に出るということをあらかじめ聞いておいた方が検査に興味が持てるし、結果に安心もできるはずだ、と瞬時に反応して口をついたこの瞬発力。日頃、どれだけ真剣に受け手(消費者)目線で考えぬいているのかと。

 『糸井 ぼくは、昔、……ひとりであれこれ考えていたことがあるんですよ。……原子と電子であらゆるものができているんだとしたら、この路傍の石と俺は親戚じゃないかって思ったんです。』(p.143)
 そんなことを考えていたこと、そしてその考えにひとり感動したということに、ただただ感嘆した。単に僕がそんなことを考えたことがなかったというだけのことかも知れないけれど、吹き出しそうなコメントの裏側にひるむような深みを見たような。

 『早野 ……自分が研究したり、発言したりする分野において、過去に何が起きて、いまどこまでがわかっていて、どこからがわかってないかというようなことは、勉強しなくちゃいけない。それは必須です。』(pp.150-151)
 早野さんが淡々と、でも揺るがぬ信念として語った言葉は、科学者にのみ当てはまることがらではなく、誰もが自らに繰り返し問いかけるべきことがらだ。あらためて声高に宣言するようなことではなくても、でもそんなの当たり前だろと気にも留めないということでもなく。正直、ややうつむき加減になってしまう自分を感じたりもする。僕の手元の読み終えた1冊には、このページにしおりを挟み込んである。
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by mono_mono_14 | 2014-10-01 16:30 | 本/libro | Comments(0)

まほうの夏。

Divertiamoci l'estate! (voglio andare al mare!!)

 夏休みがぐっと短いものになり、下手するとブツ切れになったり、もっと下手するとロクになかったりするようになってから、早20年が経ったけれど、今年は「夏休み」ということにマトモに向き合うことになった。いや、夏休みは相変わらず短く、かつ、これといったプランに満ちているわけでもないのだけれど。

 『まほうの夏』は、夏という季節がいかに素晴らしいか、どれだけ大切かということを、改めて思い起こさせてくれる、それこそ魔法のような絵本だ。ほんとうにすばらしい。くりかえし読んでしまい、そのたびにじぃぃぃんと胸にせまるものがある。日本中の家という家にこの本があればいいのに。それだけで日本がぐんとシアワセな国になるんじゃないか。そう思う。一家に一冊。

 明日から8月(早い!)。で、今年の8月は2回は海に行きたい!(・・・なんてささやかな願望なのでせう。。。)
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by mono_mono_14 | 2013-07-31 21:04 | 本/libro | Comments(0)