カテゴリ:本/libro( 113 )

『カウボーイ・サマー』

 前田将多『カウボーイ・サマー 8000エイカーの仕事場で』読了。すごく楽しかった。それになんか元気になった。それが小説であれノンフィクションであれ、冒険の物語が読み手の心に届けてくれるエールというのは確かにあると思う。

 少なくとも僕くらいの年齢でカウボーイという語を知らない人はあまりいないと思うけれど、同時に、カウボーイの実際を知っている人もそんなにいないのではないかと思う。僕のカウボーイ像には、カウボーイハットとロデオ、それに西部劇やらカントリーミュージックやらのイメージが、残念なくらい適当に入り混じっている。シェーン、髪バック! すらカウボーイ枠にあるかも知れない。髪は長い友だちであることがわかりすぎるライフを送っている僕なので、それもやむを得ないと思う。2017年ともなれば、そもそもなんの話なのかわからない人たちが多いかも知れないが、それもやむを得ないと思う。

 『カウボーイ・サマー』は、40歳を前にして会社を辞めてひと夏のカウボーイ修行に臨んだ男の冒険の記録だ。目に映る景色、耳に届く音、鼻をくすぐるにおい、ほほに触れる空気、全身を試すような力仕事、何もかもが新鮮で衝撃的でもあっただろうその日々が、さながら観察日記とか業務日報のような抑えた筆致で綴られている。たぶん、なによりもまず著者自身のために、すべてをできるだけきちんと書き留めておきたかったのだと思う。そして、記録と記憶を冷静に丹念に綴じ込めた1行1行が、実はそこに熱い思いを湛えていて、亜熱帯化する東京の片隅で鈍った身体を持て余しながらページを繰る僕を、めくるめく冒険旅行に連れ出してくれる。カウボーイ的にはよくあるできごとでも、ショータと仲間たち(読者だ)には一大事で、緊張する場面では息を呑み、ひとつ解決すると大きく息をつく。缶ビールの1本でも開けざるを得ない。久しぶりにクアーズを飲みたくなったりした。買って帰ろう。…と思ったのだが昔のようには売っていないのだった。見つけたら絶対に買うボーイ! …すまん。

 もう20年近く前になるけれど、仕事で福島県原町市(現・南相馬市)にいくたびか通う機会があった。野馬追のまちだ。普通のまちより遥かに乗馬の機会が身近にあった。金曜日が打合せで、翌日の土曜日に馬に乗せてもらったことがある。機会をつくってくれたのは仕事の相手方の1人で、打合せの席からは想像もできないくらい元気ではつらつとしていた。こわごわと馬に乗り、いや、僕が馬に乗ったのではなく、馬が僕を乗せてくれたのだけど、小さな馬場をゆっくり周回した。横から見ることの多かった馬の首は、太くたくましいものだと思っていたのだけれど、鞍上から見下ろす馬の首は細くしなやかで美しかった。その印象のことをよく覚えている。僕を乗せてくれた馬もいいヤツだったが、著者がひと夏をともにした馬たちもすばらしいヤツらだったようだ。
 夢のような夏が終わろうとする夕刻。サマー・カウボーイは、すべてを慈しむようにゆっくりとクワッド(一人乗り四輪バギー)を走らせている。このクワッドを降りたら、あとはもう帰国の支度だけが残っている。ふと見ると、行く手に数頭の馬たちが並んでいたのだと言う。ショータ、帰るらしいよ。馬耳東風などというけれど、馬たちは風のたよりを聞き逃さなかったのだ。馬たちと分かち合う最後のひととき。詩情あふれる美しいシーンだった。馬の首にやさしく添えられた手、その場を離れない馬たち、カウボーイの目からあふれだす涙。クローズアップで描かれていたその場面が、ぐんぐん空撮の映像に変わっていく(僕のなかでだ)。8000エイカーのただなかにたたずむカウボーイと馬たちを見守る画面が広がっていく。そんな気がした。きっと空からやさしい眼差しで見ていた人がいたのだと思う。
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by mono_mono_14 | 2017-07-10 22:12 | 本/libro | Comments(0)

『ボクたちはみんな大人になれなかった』

 『ボクたちはみんな大人になれなかった』の読後感は、ページに綴られている映像的で音楽的な魅力をも放つ文章だけでなく、タイトルそのものにも大きく引きずられ、広げられている。うつむき、息を潜めている、いまひとつ大人になれていない自分。そんな自分を意識の表側にぐいっと引きずり出し、向き合わせられる。読んでいる僕のそのバツの悪さ、落ち着かなさと、「ボク」が生きているヒリヒリするフラジャイルな日常、グルグルと揺れ動く心情の描写とがないまぜになるうちに、疾走感あるグルーヴに飲み込まれ、読み終えている。

 どういう時代に20代を生きることになるのかは、たまたま与えられた運命的なものだ。60年に生まれれば80年代を、70年に生まれれば90年代を、それぞれの20代として生きるよりほかない。その80年代がたまたまバブル経済期だったり、90年代がたまたま失われた10年と呼ばれる時期だったりするのは、もう、どうすることもできない。そんな時代と年代の運命的な巡り合わせが瑞々しくグルーヴィに綴られている。読み進めながら、誰もがその人なりに持っている若き日の衝動をレファレンスする。僕の生きた20代は、「ボク」が駆け抜けた映画のような日々ではなかったけれど、それでも自分に置き換えて思い起こすことができるあれやこれやが散りばめられていた。「ボク」が先の見えない焦燥感のなかでエクレア工場に勤め始めた1993年、遅まきながら僕もまた社会に出たのだった。

 話は変わる。これは、たまたま今朝、若干の経緯はありつつもなんとなくイラッとして家人につっけんどんな態度を取ってしまい、それを俯瞰しているメタな自分が「これはちょっとモラハラ的なんじゃない」などと評論し、そのメタ評論を感じ取っている自分が「あいかわらず人間できてないなー」と自己嫌悪的な気分に包まれていたときに不意に湧いてきたことなのだけれど、世のあらゆるハラスメントは加害者側の甘え、つまるところ「大人になれていない」ことのなせるわざなんじゃないか。
 うっかり送られてきた友達リクエストを承認した彼女が、「ボク」の投稿にたくさんの「ひどいね」を並べるなかに1つだけ「いいね」を打つ。その行為から甘く苦いセンチメントとともに伝わってくるのは、寛容であり、信頼であり、受容である。この態度がまさに「大人」なのではないか。

 場面は穏やかながら、背後でどんどん圧を高めて疾走していくようなエンディング。すべてを包み込み、すべてを解放する、宗教的とすら言えそうなカタルシス。「A Day in the Life」の最後の和音のような響きと余韻。そして、新しい一歩を踏み出せるよう、そっと背中を押してくれる。キミも大丈夫だよって。

 この本は、今日を生きる僕らに奏でられた救済の歌だ。
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by mono_mono_14 | 2017-07-08 03:38 | 本/libro | Comments(0)

倉方俊輔『吉祥寺ハモニカ横丁のつくり方』

 倉方俊輔『吉祥寺ハモニカ横丁のつくり方』読了。おもしろかった。
 本書がその「つくり方」を解明したかと言えば、まだ道のりは長いと思うが、記録すべき時に記録しておくことの価値は大いにアピールできたと思う(形見さんの語りなど、その証左となった)。「つくり方」としては、設計者よりもむしろ、地権者の話やファイナンスの話などがあるとよかったようにも思うけれど、もっとも、どこまで解き明かしたとしても「つくり方(方法論)」にはならないのかも知れない。それでも、倉方さんが言うように、横丁に対する感興を記述する計画言語がないのは事実だし、問題でもあるし、計画的につくれるような道筋を探るさまざまな作業、試行錯誤が必要で、この1冊がそのストラグルであることは確かだと思う。ナラティブ・プランニング、語られし思いからなる計画論(みんなの意見をポストイットに記してグルーピングして何かが見えた!といった営みとは決定的に違うものとして)の一端が見えた…ような気がした。…錯覚かも知れない。そう思うほど仄かにではあったけれど。目次をぱらぱら見るとまるで姉妹本のような三浦展『人間の居る場所』を続けて読んでみる(…予定)。
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by mono_mono_14 | 2016-04-15 18:08 | 本/libro | Comments(0)

寺井暁子『10年後、ともに会いに』

Spero che tanta gente legga il primo libro di Akiko Terai per pensare la sua propria vita in questa era di cambiamento. Un buon libro, mi piace molto.

 アーティスト自らが手売りしているようなインディーズなCDを、この1年かそこらの間に5枚ほど買っている。ミュージシャンにとって、CDを制作するというのは、ずいぶんと簡単なことになったのだろうと思う。もしかすると本もそうなのかも知れない。人気ブログが次々と書籍化されたり、オンライン入稿的な自費出版もずいぶんとお手軽になっている。
 もっとも、それらはいずれもブツにするところのハードルが下がっただけで、中身をつくることや、広く買ってもらうことのハードルが下がったわけではない。だから、誰かが書いた読むに値する文章が本の形を取り、僕の手元に届くということは、その間にいくつもの偶然が折り重なった結果であることもあいまって、ちょっとした奇跡のような、喜んでよいことなのだと思う。

 今年の9月だったか、新宿タイムズスクエアの紀伊國屋書店にトークイベントを見に行き、その時に買い求めた1冊をようやく読み終えた。寺井暁子『10年後、ともに会いに』、クルミド出版。この本がひとりでも多くの人に読んでもらえたらいいのに、と思っている。勝手に。

つづき
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by mono_mono_14 | 2014-12-30 17:12 | 本/libro | Comments(0)

『「自分メディア」はこう作る!』と『多眼思考』

Ho letto i due libri tascabili di chikirin, famosa per i suoi blog e twitter, e mi sono piaciuti tutti i due. Sono molto interessanti, stimolanti e suggestivi, e credo che meritino di essere rileggere frequentemente.

 ちきりんさんの、たぶん二部作と言ってもいいんだろうと思う2冊、『「自分メディア」はこう作る!』(以下『自分メディア』)と『多眼思考』。とてもおもしろかった。おもしろいだろうことは予想していたのだけれど、想像以上だった。なんて言うか、気持ちのいい&気前のいい本だった。どちらも。スタンディングオベーションだ。・・・とiMacの前に座って書いているけれども。

 僕は、ちきりんさんがブログの固定読者層に引き込みたいと思っている潜在ターゲット層に入っていただろうと思うし、そしてわりと最近のことではあるけれど、すでに(とびきり熱心とは言えないにしても)いちおう固定読者のひとりとなっているわけなので、『自分メディア』の方で披瀝してくれているブログ読者増強戦略のところなどは、わがことを振り返っているかのようにおもしろく読んだ。僕がちきりんさんの「術中にはまった」ように見えるけれど(実際そうと言えばそうだけど)、でもそれはむしろ逆で、僕(ら)に合わせて術を組んでくれているだけなのだ。いやー、よくわかってるよなー、そうなんだよねー。という感じだった。感嘆。紙版を出してもらえてよかった。
 ちきりんさんがブログを始めたのは2005年の3月らしいので、それでいくと僕の方が半年ばかり早かったりして驚くのだけれど(日記をつける習慣もなかったのにさ)、ブログに対するビジョンやそのクオリティ、その後のスケール感の違い等々はまったく無視した上で言うと、運営方針みたいなものにところどころ近しいものを感じ、なんて言うか、嬉しかったり勇気づけられたりした。ま、もう少しちゃんとエントリを上げないとダメだけどー。ええ…。はい…。がむばります…。

 『自分メディア』の方は、そういうことに関心のある人ほど楽しめると思うけど、ツイッターからつくった『多眼思考』の方は、これは誰が読んでもおもしろいのではないかと思う(どちらか1冊ならこっちをより多くの人に勧めたい)。
 耳障りのいいことや溜飲を下げるようなことばかりが書いてあるわけではなく、むしろ耳の痛いことやトゲがチクっと刺さるところも多いと思うけど、だからこそ誰もが自分ごととして読めると思う。
 「感想? まぁ、総じて言えばおもしろかったな」と思えたかどうかという辺りに実は線があり、その線の向こうとこっち(おもしろかったか、響かなかったか)では全然違うんじゃないか、訪れる未来や手元に引き寄せるシアワセが。そんなリトマス試験紙か踏み絵のようなところもある。
 章立て(章タイトル)が「お題」で、ツイート群(各ページ)がちきりんさんの(現時点での)自由回答。膝を打ったり腹を立てたりしたら、そこから悶々と自分の回答案を考えなきゃいけない。もし、どこかのページを読んでカチンと来たりしたら、それはもう、最高の反応のひとつだと思う。超チャンスだ。そのカチンを一所懸命に考えてみれば、自分のシアワセについて一所懸命に考えているってことになると思う。ちなみに僕は、カチンと来ることはなかったけれど、自分に照らしてしょんぼりするところはちらほらあった。どこを開いてもいろいろ考えさせられる文章だらけだった。ま、考えているだけだとダメだけどー。ええ…。はい…。がむばります…。

 ツイッターからつくられた本は世にたくさんあるのだろうけれど、ツイッターからこういう本をつくれる人は、ほんとうに少ないだろうと思う。その都度のツイートが素材として優れていないといけないし、私的な事柄ではなく社会的な事象に触れてないといけないし、でもそれをいかにもなまとめやクリシェでなく表現するのはそんなに簡単ではないし、てか、それどころか「自分らしさ」が漂っていないといけないし、そういうツイートを折に触れ発し続ける(=考え続けている)必要があるし。ほんとにすごいことだと思う。敬服。
 あと、編集。材料(ツイート)と調理(編集)が合わさって絶妙な一皿(一冊)になっているわけで、編集という行為の価値や意義もびしびしと感じられた。編集にも敬服。

 最後に、これは本当にたまたまだ(と思う)けれど、ちょうど国政選挙になったので、20代、30代、まあ40代も入れよっか、そういう人たちが、『多眼思考』を読んでから投票に行くといいんじゃないかと思ったり、した。

 そんじゃーね。
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by mono_mono_14 | 2014-12-03 22:08 | 本/libro | Comments(0)

『知ろうとすること。』

Mi sono letto un libro tascabile intitolato "far saperne" da Hayano ed Itoi. Con i dialoghi tramite le attivita' per sapere le condizioni radioattive in Fukushima, i due autori ci danno un'atteggiamento per sapere qualcosa di piu', soprattutto ai giovani.

 早野龍五・糸井重里『知ろうとすること。』をするするーと読み終える。東日本大震災後の福島をフィールドとした早野さんの取り組みを素材として、糸井さんと早野さんがしゃべりあったことをまとめた本。
 彼らが何をしゃべりあっていたのかと言えば、福島の現在と未来のようでもあるけれど(そして実際、その貴重で信頼できそうな情報でもあるのだけれど)、自分のよって立つ足もとをきちんと固めて、より明るい未来を見通そうとする態度についてだ。そういう「知ろうとする」態度やふるまい方を、これからを生きる人たちは身につけるべきだという信念であり、そうしようよという提案だ。
 ほんとうにするするーと読める文庫本なので(著者の2人だけでなく編集者の貢献も大)、内容は手にとってそれぞれに感じ取ってもらいたく、ここでは特に触れない。

 …とは書いたものの、以下、自分メモも兼ねて、いくつか断片的に書き残しておきます。

 『糸井 ……ぼくが測定に立ち会う係だったら、「カリウムのことは先に言いましょうよ」って提案すると思います。』(p.125)
 話題は、乳幼児でも全身の放射線量を測定できるベビースキャンの性能と使い方。放射性カリウムの影響が測定結果に出るということをあらかじめ聞いておいた方が検査に興味が持てるし、結果に安心もできるはずだ、と瞬時に反応して口をついたこの瞬発力。日頃、どれだけ真剣に受け手(消費者)目線で考えぬいているのかと。

 『糸井 ぼくは、昔、……ひとりであれこれ考えていたことがあるんですよ。……原子と電子であらゆるものができているんだとしたら、この路傍の石と俺は親戚じゃないかって思ったんです。』(p.143)
 そんなことを考えていたこと、そしてその考えにひとり感動したということに、ただただ感嘆した。単に僕がそんなことを考えたことがなかったというだけのことかも知れないけれど、吹き出しそうなコメントの裏側にひるむような深みを見たような。

 『早野 ……自分が研究したり、発言したりする分野において、過去に何が起きて、いまどこまでがわかっていて、どこからがわかってないかというようなことは、勉強しなくちゃいけない。それは必須です。』(pp.150-151)
 早野さんが淡々と、でも揺るがぬ信念として語った言葉は、科学者にのみ当てはまることがらではなく、誰もが自らに繰り返し問いかけるべきことがらだ。あらためて声高に宣言するようなことではなくても、でもそんなの当たり前だろと気にも留めないということでもなく。正直、ややうつむき加減になってしまう自分を感じたりもする。僕の手元の読み終えた1冊には、このページにしおりを挟み込んである。
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by mono_mono_14 | 2014-10-01 16:30 | 本/libro | Comments(0)

まほうの夏。

Divertiamoci l'estate! (voglio andare al mare!!)

 夏休みがぐっと短いものになり、下手するとブツ切れになったり、もっと下手するとロクになかったりするようになってから、早20年が経ったけれど、今年は「夏休み」ということにマトモに向き合うことになった。いや、夏休みは相変わらず短く、かつ、これといったプランに満ちているわけでもないのだけれど。

 『まほうの夏』は、夏という季節がいかに素晴らしいか、どれだけ大切かということを、改めて思い起こさせてくれる、それこそ魔法のような絵本だ。ほんとうにすばらしい。くりかえし読んでしまい、そのたびにじぃぃぃんと胸にせまるものがある。日本中の家という家にこの本があればいいのに。それだけで日本がぐんとシアワセな国になるんじゃないか。そう思う。一家に一冊。

 明日から8月(早い!)。で、今年の8月は2回は海に行きたい!(・・・なんてささやかな願望なのでせう。。。)
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by mono_mono_14 | 2013-07-31 21:04 | 本/libro | Comments(0)

公共事業が日本を救うとして。

 藤井聡『公共事業が日本を救う』。読み終えたのはしばらく前のことで、手に取ったのはさらにずいぶん前のことだ。

 乱暴に要約してみる。
(1)実は日本の公共施設(道路、港湾、ダムなど)はまだまだ足りない。遠からぬうちに訪れる首都直下地震などを考えると、耐震化・不燃化を急がなければいけない既存施設(道路、橋梁、学校、住宅等々)も山ほどある。
(2)そんな財源はないというけど、デフレの今は国債をじゃんじゃか発行して大丈夫。いざとなればお金を刷りまくれば必ず借金(国債)を返せる。ユーロを刷るわけにはいかなかったギリシャとは違う。大丈夫。心配ない。デフレがインフレに転じるまではこの作戦で問題ない。
(3)デフレ脱却には、誰かがおカネを使いまくらなければいけない。現在、おカネを使う目的があって、おカネを使う余力があるのは政府だけ。ちまちま配るのではなく、自分で使わねば。使い道としては公共事業が最適だ。
(4)せっかく公共事業に投資するのだから有意義に使わなければいけない。不要な穴を掘って埋めるというようなことではいけない。つくらなければいけない公共施設はまだまだあるのだから、それをつくるような公共投資を急がねばならない。
(5)以上より当然の帰結として、デフレがインフレに転じるまで、「日本を救うための真に必要な公共事業」を「日本経済を救うためのマクロ経済政策」としてどんどん進めるべき。公共事業が日本を救う。

つづき
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by mono_mono_14 | 2012-02-14 18:09 | 本/libro | Comments(0)

日本人はどう住まうべきか?

 『日本人はどう住まうべきか?』。解剖学者・養老孟司と建築家・隈研吾の勝手放談。震災復興、都市開発、エネルギーなどを巡る。日経ビジネスオンラインでの連載対談の加筆修正版だそう。簡単に読めてしまう。
 都市計画とか、もうほんと言われたい放題。それを売り言葉として読んでしまったら、たぶん、得るものはとても少なくなってしまう。中には言いがかりに近い指摘もあると思うし、場合によっては好き嫌いの問題に過ぎないという場合もあると思う。でも、半ば悔しく半ば嬉しいことに、ヒントに富んでいる部分も少なくない。フンと鼻白んで本を閉じてしまう、そもそも読もうとしない、という選択肢もあるだろうが、僕は、自分にとって有益なようにいいところ取りをする方を選ぶ。
 僕が備忘的な傍線を引いた箇所をいちいち挙げるようなことはしないけれど、ものすごくつづめてしまえば、「都市計画は、大局観を持って長期的な未来を考えながら、「だましだまし」やれ、「だましだまし」やるその現場を大事にしろ」という感じ。・・・「だましだまし」はこの本(対談)のキーワードのひとつ。ただ、都市計画に引き寄せたときのそのニュアンスの捉え方は難しい。・・・「だましだまし」の感じがうまく捉えられないのは、たぶん、「都市計画」の未来の描き方に問題があるのかもしれない。・・・などということをあれこれ考えてみる誘い水にはなるはず。
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by mono_mono_14 | 2012-02-14 00:17 | 本/libro | Comments(0)

夜の公園

 街の小さな書店の片隅。呼び止められたように、ふと目がとまったタイトル。その時は、空耳だったことにしたのだが、後日、そのタイトルを書架に探していた。川上弘美『夜の公園』。単行本発刊から3年ほどしてなった文庫化、そこからまた3年ほどが経過した、間抜けなほどの今さらながらに、僕は呼ばれたようだった。

 リリ、幸夫、春名、暁という4人の、それなりにもつれた恋愛模様が、それぞれのまなざしから順繰りに描き出されている。裏表紙に載せられた短い紹介文には「長篇小説」と書いてある。読んでいるときには短篇集のように読んでいたような気もするけれど、読み終えたいまの感じからすると、やはり長篇、ひとつのものがたりだったのかなと思う。いつの間にか読み終えてしまった。

 恋愛に限らないことだけれど、気持ちのやりとりにおいて、誰もが、いくらかは相手を痛めつける加害者になり、いくらかは相手に痛めつけられる被害者になる。痛めつけるが過言であれば、重荷になっている、憂鬱にさせている、というくらいに言い換えてもいいが、そういう気持ちのバランスシートに、誰もが、どうにか折り合いをつけている。帳尻を合わせている。その帳尻合わせは、とても冷静で孤独な作業だ。その冷静で孤独な帳尻合わせの上に、淡々とした日常がある。もしかすると、その帳尻合わせのことを日常と言うのかもしれない。いったん帳尻を合わせ損なうと、暁の兄の悟のように無理心中を図ったりすることになるのだから。

 僕自身も、いろいろなところで冷静に(あるいは冷静を装って)帳尻を合わせている(だろうと思う)のだけれど、じゃあ、そこで取り繕っているのはいったいなんなのさと問えば、どうしようもなくちっぽけな自尊心の切れっ端にすぎないように思われて、そのことも僕をいくぶん哀しい心持ちにさせたりもするのだけれど、それよりもなによりも、そうやって保ったなけなしの自尊心みたいなものの向こう側に、僕としては何としても結実させたいんだと願うようなふつふつとしたナニカを、ひょっとしてほとんど持ち合わせていないんじゃないの、という、慄然たる思いがふとよぎることが、哀しいを通りこしておそろしい。ヘコむ。(こんな感じにヘコむたびに、そうだ、また教科書クッキングの日々を取り戻さねば、などと思ったりするわけなのだけれど、なかなか行動が伴わずにいたりするわけでもあるので、ここに記して尻をたたいてみたわけなのだけれど、さて。)

 僕が「呼ばれた」のは、「公園」という単語にだった(と思う)。この作品のなかで、公園が占めていたのはどういう位置だっただろう。考えた。「公園」は、あらゆる帳尻の合わせ方を肯定して、受け入れてくれる機制のように思えた。街のなかの公園が、そこにたたずむ人を、静かに肯定してくれるような場所であったとしたら、そういうふうに公園のことを考えたことはなかったけれど、それはちょっぴり素敵なことのように思える。
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by mono_mono_14 | 2012-02-13 22:49 | 本/libro | Comments(0)