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劇団カクシンハン公演『タイタス・アンドロニカス』

 ウィリアム・シェイクスピア。もちろん名前は知っているし、いくつかのタイトルも知っている。もっとも、ちゃんと読んだことがあるかとか舞台を観たことがあるかとか英語で綴れるかというと、バツの悪い感じでうつむいてしまうのだけれど。

 劇団カクシンハン公演『タイタス・アンドロニカス』、観た。シェイクスピア初期の戯曲とのこと。感想的なものを残しておこうと思い。以下、ネタバレを含むかもしれないが、ひとまず今回公演は終了したようなので、まあよいのではないかと。

 会場は吉祥寺シアター。傾斜のある観やすい客席の小劇場で好印象。ざっくり200席くらいか。開演を待つ舞台の中央には無機質な台。校長先生が朝礼で上りそうなニュアンスな。その後ろにスクリーンのように掲げられた大きな白い布。モノクロの映像が映し出されている。ミニマル感あるしつらい。上手の奥にドラムセット。お、ドラムだ。なんかそれだけで説明不能な期待感を感じた(そしてそのドラムはものすごくよかった)。
定刻を過ぎ、ばらばらと白い衣装の役者が出てきて位置につき、そのまま開演。

 正しいあるいは詳細なストーリーは他に譲る。というか、ストーリーは追わない。というか、なんなら僕自身が改めて原作(の翻訳)を読む必要があるくらいなのだ。というわけで、Amazonで松岡和子さん訳のちくま文庫をポチッとしつつ、3時間弱の公演で感じたことを断片的に書き連ねておくことにしたい。

 ゴート人との戦いを制し、ローマに意気揚々と凱旋してきたタイタス・アンドロニカス(河内大和)。輝かしいその凱旋の瞬間からしかし、彼の運命は暗転の一途をたどる。落ちぶれる、没落するのとは違う。ただただなぜだか悲劇の坂を転げ落ちていき、自らも復讐の鬼と化す。タイタスに明確な落ち度があったとは思えなかった。結果として裏目に出る判断があったと言えないことはない。でも、それを責めるのは酷なことではないかという思いもする。都度の判断を逆にしていたところで、タイタスにとってめでたしめでたしというストーリーになるようには思えない。バシエイナスに皇位継承権を与え、タモーラの息子を赦していればよかったのに、という話ではないだろう。そんな単純にコトが進まない酷で苛烈な時代だったということかも知れない。いつの時代もそうかもしれないけれども。

 TED Talk もそつなくこなすエアロン(岩崎MARK雄大)。どんな正義だって見方を変えれば悪になり得る。彼が投げかけたひとことは、この作品を貫く主題的なものとして、成り行きを見守る僕に作用し続けていた。途中、役者のほぼ全員がエアロンと化す場面があった。誰もが「悪」に反転しやすいフラジャイルな「正義」を自らの内にいだいていることを表しているようだった。「正しさ(正義)」に立脚することの危うさ。逆に言えば、全ての「悪」も誰かの「正義」の横顔を持っている。狂言回し的な役目も負っていたエアロン。彼がこの戯曲において「何者」なのかは、近日中に手元に届くはずの原作(の翻訳)を読む時にも気を留めたいと思っている。

 演技の上では笑いにも片足を置いていたタモーラ(白倉裕二)。登場人物の中でも最も深い復讐の炎を燃やしている1人なのではないかとも思うが、笑いをもたらす演技とセットになっているので、その辺をつい甘く見積もってしまう。こういう笑いが混ざることについては賛否あるのだろうと思う。でも、時に苦笑や失笑も含め観ている僕が思わず漏らしてしまう笑いは、フレッシュに芝居の世界に入り込むために送り込まれる酸素のようなものだと思う。それにこういう笑いはとても演劇的な時間だし体験だ。

 紅一点のラヴィニア(真以美)。ほぼ全編を通して彼女には悲劇しか訪れない。それでいて胸に宿す復讐の念は、他の誰よりも薄いように思われた。両手と舌を切り落とされてからの佇まいは、もちろん痛々しかったし、同時に美しくもあった。どこまでも焦点の合わない哀しみに彩られていた。傷口からほとばしる鮮血を模した赤いロープの衣装(と呼ぶのでよいのか)がすごくよかった。

 この鮮血に限らず、パイプ椅子やガイコツを宙空に吊るす演出でもロープは大きな役割を果たしていた。かっこよかった。縦方向(上下)に空間を二分する照明もよかった。空間の高さを印象づけていたと思う。

 さらに、どうしても触れておきたいのはドラムのことだ(ユージ・レルレ・カワグチ)。劇伴に合わせてドラムが叩かれる。疾走とか怒涛とか表現できそうなそのドラム演奏は、ストーリーとプレイを支えるだけでなく、舞台によりいっそうのライブ感(生気)をもたらし、ストーリーが疾駆するトルクを与え、全編をグルーヴィに仕立てていた。ものすごくよかった。

 カーテンコール。どんな舞台でも、ラストシーンで暗転した舞台に再びあかりが点いた時の気分と雰囲気はなんとも言えない。高揚感、達成感、安堵感。万雷の拍手喝采。舞台に自分の居場所を見つけた人たちの近寄りがたいほどのアウラ。それを見上げる僕のいだく羨望とリスペクト。舞台上の彼らが味わっているような時間と感情のためにこそ人生はあるんじゃないかという思い。想像だけれど、舞台上から客席に対しては感謝しかないのではないかと思うのだけれど、客席の僕には、オマエはどうなんだという問いを突きつけられているような気もする。オレはどうなんだ。自問する。焦燥感がないとは言えない。ソールドアウトとかスタンディング・オベーションとか、そういう目に見える反応はあまりないけれど、僕は僕の舞台でベスト・パフォーマンスを心がけるしかない。

 ちょっとした過失を囃し立て、ネガティブな感情を増幅させ、双方の対立関係を煽り立て、ギスギスした居心地の悪い気分に追い込もうとする、寛容の足りない今日において、この救いのない復讐劇(最後には全員が死んでしまった)というボールを確信犯的に蹴り込んできたカクシンハン。僕としては、そのボールを柔らかくトラップし、軽やかなパスワークで鮮やかなカウンターを食わせたい。それこそが彼らの望むところなのではないかと思う。…まあ、実際には、そんなことを企てたら今度は右脚のアキレス腱を切ると思う(1年半ほど前に左のアキレス腱を切った)。大それたことは考えずに、自らの健康と家族を大事にしよう。唐突に「家族」の語を盛り込んだが、家族(親子や兄弟)のかけがえのなさ(時にやりようのなさも含む)も彼らから投げかけられたテーマの1つだったのではないかと思った。

 梅雨どきのような夏休みの最後に味わったいい時間だった。

 謝辞。この公演のことを知り、チケット入手にいたったのは、ひとえに糸井重里さんの絶妙なさじ加減のツイッター・プロモーションのおかげです。ありがとうございました。

 おかしいな。こんなに長くなる予定じゃなかった。

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by mono_mono_14 | 2017-08-21 16:03 | 芸/arte | Comments(0)

白と紅に見た時間(「建築はどこにあるの?」展)

 広いさとうきび畑にはざわわと風が通り抜けるだけなのだとすれば、白いとうもろこし畑には何が通り抜けていくのだろう――。

 強い主張を投げかけるわけでもなく、どちらかと言えばもやのような儚さとともにある白い「とうもろこし畑」は、近寄って見れば、ほとんど狂気のような意志のもとに立ち現れていたのだった。まるで水引のように細い紙製の棒を、シンプルな構成でひたすらに根気強く貼り合わせていく。その気の遠くなりそうな制作過程の現場がどのようなものであったかは知らないが、とにかくその過程を経てこの作品がここにある、ということだけはわかる。どうしたってわかってしまう。誰にでもわかってしまう。パソコンのモニタ上で同じ図形をコピペで増殖させていくようにはつくれない。1本の材を貼り、もう1本貼り、もう1本貼り、と、そのようにしかつくれない。その狂気に満ちた、しかし叫び出すと言うよりは息を詰めるような過程の果てに、この清楚なレースのような佇まいが現れている。驚愕だ。
 白い「とうもろこし畑」には、静寂をまとった人間の意志と時間が、降りしきった雪のように積み重なり、穏やかな光が満ちていた。「とうもろこし畑」、中村竜治の作品。

 白いとうもろこし畑には穏やかな光が満ちていたのだとすれば、紅い縞がにじむ暗がりには何が秘められているのだろう――。

 その空間に足を踏み入れたとたん、辺りがほとんど見えなくなってしまった。床に紅い縞模様が描かれているだけ。そこをおそるおそる歩いてみる。歩いてみただけに終わってしまった。腑に落ちず、脇でたたずむ。別の人たちが入ってきて、同じようにおずおずと紅い縞模様を歩いている。そのシルエットが紅い縞模様で移ろっていく。そうか。歩行者の目線では何も起こらないのだ。外からの眼差しが空間を紡ぎ出すのだ。再び歩く。自分の体を見ながら。紅い縞が浮かんで消える。手を前に突き出してみる。振ってみる。素早く動かしてみる。その都度、紅い縞は、思いがけない軌跡を空間化しながら闇へと戻っていった。何度も繰り返してしまった。建築はどこにあるの? 建築は僕の身振りの中にあった!
 白いとうもろこし畑に積み重なっていた時間、そんな時間のもうひとつの側面、ほんの一瞬で消え去ってしまう時間が濃密に身を潜めていた。一瞬の時間を三次元の空間として確かに浮かび上がらせては、すぐさま暗闇へと解き放ってしまう赤縞。動く自分の身体が「空間」に溶け込んでいくさまが魅力的で、それはおもわず声を出して笑ってしまうほどの愉快さだった。「紅縞」、内藤廣の作品。
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by mono_mono_14 | 2010-08-06 20:57 | 芸/arte | Comments(0)

「エレメント」展

 『「エレメント」構造デザイナー セシル・バルモンドの世界』展を覗く。こういう展示に足を運ぶのはものすごく久しぶりで、そのこと自体がポジティブな影響をもたらしてくれる機会だった。
 最先端の構造デザイナーの到達点は、見せかけの理系出身の僕には理解不能な遙か彼方だったけれど、華奢なチェーンとエレガントなH型のアルミプレートを組み合わせるだけで自立している構造体(H_edge)は圧巻だったし、バルモンドがインスピレーションを得ているという様々な自然の姿を大きなバナーに仕立てた展示は、自然の持つ精気が降り注いでくるかのようで、すがすがしい心地よさに溢れていた。とは言え、セシル・バルモンドが垣間見ている世界を自分も覗けたのだ、とはちょっと思えない「遙か遠くに置いて行かれてる」感を寂しく感じることともなった。
 ともあれ、例によって会期間際ながら、立ち寄れてよかった。
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by mono_mono_14 | 2010-03-11 10:35 | 芸/arte | Comments(0)

今さらながらに『ダニ・カラヴァン展』のこと。

 長らく書きそびれていた(ないしは書き忘れていた)。しばらく前のある週末、世田谷美術館で開催されていた『ダニ・カラヴァン展』に行った。ダニ・カラヴァンについて、僕が知るところはとても少なく、実際に見たことのある作品も「隠された庭への道」(札幌市・札幌芸術の森野外美術館)だけだ(と思う)。それはそれとして。そんなこと言っていたら、世の中はとてもとても狭くなってしまう。人は誰でも初心者なのだ。

 ダニ・カラヴァン自身の足跡を回顧する趣の強い展示構成は、その歩みで言えば後ろの方に当たる環境芸術分野での作品に関心のある僕にとってみれば、やや前菜が充実し過ぎていると言えなくもなかったのだけれど、今回の展示のために世田谷美術館につくられたインスタレーションで、十分だったと言うこともできる(何しろ最新作だ)。「水滴」。
 庭を望む展示室の一隅に砂が敷き詰められ、石炭で築山がしつらえられている。築山のひとつに竹樋が渡され、わずかにわずかに水が流れ伝ってくる。先端でしずくに膨らんだ水が、表面張力の限界を超え落ちる時に水琴窟のような音が響く。その時間と空間に向き合う作品だ(と思う)。幸いにして(?)、鑑賞者が非常に少なく、しばらくの間、その場にとどまることができた。
 ある日の日経新聞の文化記事で、ダニ・カラヴァンが、その庭から見えるヒマラヤシーダーを取り込んで制作した作品だったことを知る。迂闊な僕は、当然、そのヒマラヤシーダー込みで作品を鑑賞するなどということは、してこなかった。しばらくの間、その場にとどまったにもかかわらず。

 この展示は、年末年始に長崎県美術館に回る。きっと、この美術館用の作品を制作するのではないか。環境に呼応する芸術であれば当然のことながら、森の中の公園にしつらえられたインスタレーションとは異なる趣の作品が、運河とともにある西国の美術館では創造されるのではないか。行ってみたい。この美術館がある公園は、ギョーカイ的にはいちおう押さえておいた方がよいタイプの公園でもある。
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by mono_mono_14 | 2008-11-03 23:18 | 芸/arte | Comments(0)

『舟越桂 夏の邸宅』@東京都庭園美術館

 東京都庭園美術館で開催中の『舟越桂 夏の邸宅』を観る。2003年に東京都現代美術館で開催された展示に誘われるがままに足を運び、舟越の紡ぎ出す(あるいは削り出す)空気感が僕はいたく気に入った。会期中に再訪までしてしまったほどだった。今回の展示のことは、とある駅ビルに地味に張り出された小さなポスターで知った。このポスターに気づかなかったら、僕はこの展示のことを知り得ただろうか。最近のアンテナの感度の悪さからすると、気づかず終いだったかも知れない。淡々とした日常を気まぐれにそよいでいくささやかな僥倖は、きっとこういうふうに頬をなでていくものなのだ。

 東京は、じりりと暑い夏らしい1日で、冷房の効いた地下鉄を降りて、会場へと向かい歩くほんの数分は、その後の小さなパラダイスに辿りつくためのちょっとした苦行のようでもあった。僕と同じ時間にそのような苦行を自らに強いた人は、僕の予想よりも心持ち多かった。若い人たちもいたし、年配の方もいた。僕のようにひとりの人もいたし、夫婦やカップルもいたし、家族連れもいた。

 庭園美術館は、朝香宮邸として建てられた瀟洒な建物をそのまま美術館にしたものだ。75年の時の流れに耐え、かつそれを自らの魅力としてまとっている空間の質の高さが、鑑賞者に降り注いでくる心地よい美術館だ。ホワイトキューブとは対極にあるようなデコラティブなその空間と、舟越の作品が放つ空気感がどのように呼応するかという楽しみもある展示だ。

つづき
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by mono_mono_14 | 2008-08-15 23:59 | 芸/arte | Comments(0)

『ペルジーノ展』

Sono andato a vedere una mostra intitolata "Perugino: il divin pittore". E' stata molto interessante nonostante non sono quasi mai preparato per vedere quelle pitture.

「ペルジーノ展に行ってきたよ。おもしろかったよ。」
「ペルジーノ? おいしーの?」
「・・・何だか寒めだねぇ。食い物じゃないよ。画家さ。『甘美なる聖母の画家 ペルジーノ展』というんだ。」
「画家? がっかり。」
「・・・。」
「黙ることないじゃないか。こんなに食いついてるのに。どんな絵を描いてた人なのさ。」
「よし、教えてやろう、いいか、よく聴けよ。ペルジーノっていうのはな、えっと、ラファエロが・・・」
「何、ちらちら見てんのさ? 僕にも見せてよ。なになに、『ジュニア版ブックレット』? 子ども用の解説じゃないか。」
「いや、これがすごくよくできてるんだよ。まるで展覧会に行った気になるよ。」
「行ったんじゃないのかよ。」
「いや、行ったんだよ。行ったからジュニア版ブックレットが買えたんじゃないか!」
「キレないでください。」
「キリスト教や聖書を絵解きしたルネサンス期の宗教画だね。おもしろかったんだけど、もう少し基礎知識があるともっとおもしろいんじゃないかな。」
「なるほどね。でも、無知でも無知なりに楽しむことはできるだろ、無知なりに。」
「そう無知って強調するなよ。面映ゆいよ。」
「別にほめてないから。」
「でも、無知なりにと言うか無知ゆえにインパクトを受けたのが「ケルビム」ってやつでさ。」
「ケルビム? 聞いたことないなあ。」
「なんか鴨の羽みたいなのを蜘蛛の脚みたいに生やしてる頭しかない物体なんだよ。しかも、それが天使階級ではいちばん偉いって言うんだぜ。」
「キミの言ってることがさっぱり理解できないんだけど。」
「そういう時に、このジュニア版ブックレットを開くのさ。ほら、ここにいるよ。」
「これが天使なの? これは、あれだろ。トレインスポッティングでみんながラリッてる間に死んじゃった赤ちゃんの幻影。ほら、天井を這ってた。」
「すごいのになぞらえたね。でも、実は僕もそう思ったんだよ。」
「じゃあ、さしずめ、それを見上げてるこの坊主頭がユアン・マクレガーだな。」
「ユアン・マクレガーは出て来なくていいんだよ。それは聖フランチェスコさ。清貧を説いた人だね。」
「ああ、あの清貧パスタのフランチェスコか。じゃがいもで増量してチーズで味つけするパスタで、地味だけど、案外、美味しいよ。」
「つくってやったのは僕じゃないか。そうそう、ちょっとおもしろかったのがさ、板に油彩って「olio su tavola」っていうんだよ。料理用語みたいだろ。」
「ああ、確かに、何となく。テーブルにオリーブオイルか。あれ? いま、なんかヌルッとしたぞ?」
「あ、それ、僕がこぼしちゃいました。オリーブオイル。拭いたつもりだったんだけどな。」
「なんだよ、ちっとも料理用語じゃないじゃん。敢えて言えば、うっかり用語だよ。」
「おかしいな。おっと、こっちには醤油が。」
「あ、それは僕がこぼしました。」
「拭いとこうよ。もうオトナなんだから。」
「ジュニア版ブックレット買ってる人に言われたくない。」

付記。本エントリの形式は、『住宅都市整理公団』の麗しき「団地データ」群のぐっとくるダイアローグへのオマージュである。「ペルジーノ? おいしーの?」と「画家? がっかり。」を思いついてしまったばっかりに、この形式を採ることとした。もしかすると、「渋松対談」へのオマージュにもなっているかも知れない。住宅都市整理公団については、最近では、その総裁がタモリ倶楽部に出演したことなどが広く知られている。オマージュについては、最近では、W田Y彦画伯がAルベルト・Sギ画伯に対して表したことが広く知られている。
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by mono_mono_14 | 2007-05-13 23:59 | 芸/arte | Comments(0)

『マリー・アントワネット』@帝国劇場

 新作ミュージカル『マリー・アントワネット』。本邦初演。というか世界初演。世界を廻るのかどうか知らないけれど。以下、いろいろネタバレてると思う。

 王妃の悲劇の部分は『エリザベート』を彷彿させ、フランス革命に向けてわき上がる群衆劇の部分は『レ・ミゼラブル』を彷彿とさせる。秀作のいいとこ取り風味。そして、そういう作品が、参照した(わけではないのだろうけれど)秀作を追い抜くことは限りなく困難であるという例にもれない。ただ、おもしろく観られる作品だと思ったことも強調しておきたい。

 以下、プリンシパル別一言感想文。
 マリー・アントワネットを演じる涼風真世は、序盤(というか第1幕を通して)、どうにも冴えない演技っぷりだなあ、一路真輝には遙かに及ばないなあ、と思っていたのだけれど、後半、収監されて以降は素晴らしかった。ヅカのトップを務めるような人は、やはりタダモノではないのだ、ということをまざまざと感じさせる。笹本との二重唱に、僕は危うく涙腺を緩めそうだった。
 山口祐一郎はいつものように朗々と高らかに素晴らしく歌い上げ、いつものように演技らしい演技はなかった。ただ、錬金術師カリオストロという役どころは、ストーリーの中にしっくりと収まっていなかったように感じた。それは脚本の問題だと思うが、も、もしや、山口の演技力の問題だったりするのか...?
 オルレアン公を演じた高島政宏の堂々とした佇まいは素晴らしかったが、メイクはどうなのか。コントだったのか。井上芳雄は出番少なめながら端正に歌い上げた。顔の表情とか、演技も伸びてるんじゃないかと思う。僕が観た舞台が初日だったという笹本玲奈は、出ずっぱりで歌い通し(誇張)みたいなマルグリット・アルノー役を元気にこなしていた。何となくハマり役のような気がする。ルイ16世の石川禅は、バカ殿風味のコミカルな演技もハマったし、ここぞというところでのアリアも聴かせた。舞台の狂言回し役を務めるボーマルシェの山路和弘は安定した司会ぶり(?)を披露したが、2階最前列の僕の席からはどうにも寺島進に見えて仕方なかった。
 そして、とてつもなく素晴らしかったのは、修道女アニエス・デュシャンを演じた土居裕子。この人を観たのは僕はたぶん初めてなのだけれど、演技も歌唱も素晴らしく、狂気に滑り落ちていくストーリーに凛と残るひとかけらのささやかながら揺るがない良心を丁寧に表現した。カーテンコールでの拍手が一段と高く鳴った。素晴らしいと思ったのは僕だけではなかったようだ。

 最後にぜひとも書き加えておきたいのだけれど、美術(舞台セット)と照明が素晴らしかった。これまでに僕が観た何本かの東宝ミュージカルの中では抜群だった。
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by mono_mono_14 | 2006-11-04 23:59 | 芸/arte | Comments(0)

『赤と黒の芸術 楽茶碗』@三井記念美術館

 大ぶりなお茶碗をいくつもいくつもひたすらに愛でるという地味な鑑賞。茶道にも茶碗にも作家にもまったく知識がないながら、しかし、いいもの観たなあという感じだ。桃山時代から現在まで十五代にわたって続いている樂家の代々の名品が並ぶ。16世紀の渋く力強い茶碗から、2005年作という較べてみればやはり相当にモダンな当代作の茶碗までが一連なりのものとしてあるということが、何とも言えない迫力となって迫ってくる。それでも、やはり初代長次郎の作品が圧倒的に素晴らしく思えたことは揺るがぬ事実で、代々ということの難しさみたいなこともうすぼんやりと思った。何代目の作品にも素晴らしい輝きはあったが、ある意味では、初代だけが何かを成し遂げたのかも知れないのだ。
 それにしても、鈍く光を放つ長次郎の「黒」は素晴らしかった。もちろん「赤」も味わい深くはあったのだが、僕により強く訴えかけてきたのは「黒」の方だった。
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by mono_mono_14 | 2006-11-04 23:59 | 芸/arte | Comments(0)

躍動する紅顔の美中年たち

 紅顔の美中年・今村ねずみ率いるザ・コンボイ。老体に鞭打って躍動する7人の中年侍。抗いがたいフィジカルの衰えとか、成功ゆえのマンネリズムとか、ここ数年はイマイチ評価しづらい部分も感じていたのだけれど、結成20周年(!)の今年、ビデオでしか観たことがなかった往年の名作『ATOM』を再演するというので観てみた。期待と不安が相半ばする。もしかすると時代の確かな終焉を体感することになるかも知れないのだから。

 結論だけ言うと、コンボイは死んでいなかった。それどころでなく感動的に闘っていた。メンバーのほとんどが僕より年上で、リーダーの紅顔の美中年・今村ねずみは48歳だ。「走り出したら止まらない」がグループのキャッチフレーズだが、その看板に偽りなく、疾走感をたたえたまま、2時間半のステージを走りきり踊りきった。ATOMに匹敵するような新作が書けるかどうかは、また別の問題としてあるにせよ、コンボイの気迫は、僕の胸を打った。胸だけでなく、彼らの引き締まった体躯は、僕の洋なし部分を容赦なく撃ち続けた。痛いです、痛いです、やめてほしいです。7人の猛る美中年に平伏そう。何につけすぐに平伏してしまう僕であった。今村ねずみにはカズと同じ匂いを感じるよ。

 もしかすると20年間追いかけているのかも知れないなぁ、という、妙齢のご婦人方(妙は自由に解釈されたし)も大勢いたが、今日、初めてコンボイに出会ったらしき妙齢の女性(妙は再び自由に解釈されたし)などもおり、はたまた野太い声援が飛んだりもしていたから男性客もそれなりにいた模様で、やはり闘うおじさんの姿は人々に訴えかけるナニカがあるのだなあと、洋なし部分をエンドレスに攻撃されながら思った次第。

 舘形比呂の肉体と舞踊は、そっちが本業だから当然かも知れないが、すさまじいものがあった。圧倒された。当然のことながら、自分のナイスバディは見ないように努めた。
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by mono_mono_14 | 2006-09-21 23:59 | 芸/arte | Comments(0)

『インゴ・マウラー展』

 招待券をもらった展示を会期ギリギリに観に行く。東京オペラシティのアートギャラリーにて『インゴ・マウラー展』。光の魔術師、インゴ・マウラー。・・・誰? 照明をデザインしている人のようだけれど、作品は、プロダクツというよりはアートであった。僕の家に出番があり得るような照明はひとつもなかった。

 ランプ(光源)を緩やかに囲むように白い和紙の短冊(美人画のような絵が入っている)をいくつも配したシャンデリアは、エキゾチックで雰囲気があった。ヌーベル・シノワのお店なんかに合いそう。
 真っ白な箱の中で白熱灯が振り子のように揺れる。壁には白い小さな角材が垂直に取りつけられており、電球が規則正しく揺れるのに合わせて、角材の影も伸び縮みしながら規則正しく白い壁の上を揺れる。「スウィンギング・バルブ」というインスタレーション。シンプルだけど、とてもきれいだった。平べったいオブジェを浮かべ、金魚を放った浅い水盤に天井からのスポットライトで照らすインスタレーション「タブロー・シノワ」もおもしろい。たぶん、水盤の底が鏡になっていて、水盤で跳ね返った光景を白いスクリーンで受け止める。水の揺らぎを透明感のある影が幻影的な水墨画を描き出す。ナム・ジュン・パイクの「フレンチ・クロック」は、この両者を足して2で割った感じのインスタレーションだ。
 どこかで見たことがあった白熱灯(要は裸電球)に天使の羽をつけたランプも、一見チープだけれどおもしろい(でも僕の家には要らない)。このランプには「ルーチェリーノ」という名がつけられている。イタリア語の光と小鳥(luce+uccelino)から来ているそうで、そのセンスはいいなと思う。このルーチェリーノをいくつか束ねたシャンデリアも展示されていたが、帰宅してからたまたま見ていたテレビで、それをインテリアに用いているチェコのレストランの風景が映し出された時は、思わず「あっ」と声が出てしまった。不思議なタイミングってあるものだと思う。
 これらの作品を写した写真も展示されていたのだが、不思議なことに、現物よりも写真の方が遙かに魅力的に見えた。
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 雨模様の東京。オペラシティギャラリーの窓に、マウラーの作品がほのかに浮かんでいた(へたくそな写真の右端中段の窓)。電球の周りにピンク色のカンパリの小瓶をぐるっと取りつけてシェードにした、その名も「カンパリ・ライト」。雨に煙る鉛色の初台にぼんやりと浮かび上がる艶っぽい朱色。

 このギャラリーでは10月初旬から年内にかけて『建築|新しいリアル』と題された伊東豊雄の展示が行われる模様。これは招待券をもらえなくても観に行こうと思う。
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by mono_mono_14 | 2006-09-17 23:59 | 芸/arte | Comments(0)