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『岡本太郎が撮った「日本」』

 秋田。長崎。京都。出雲。岩手。大阪。四国。沖縄。青森。出羽。広島。紀州。『「日本」最深部への旅』との見出しのもと、今からおよそ40-50年前のディープな日本をえぐるように切り取った、ものすごい迫力のモノクローム写真。撮ったのは岡本太郎。
 厳寒の秋田駅のプラットフォームを撮した写真に軽い衝撃を受ける。この謂いでは語弊があるが、ものすごく貧しく見えるのだ。スカーフで頭を覆い、コートにすっぽりと身を包み、長靴を履いた女性たち。貧しいという言い方はやっぱり適切ではない。けれど、何て言うか、運命だからと何かを受け入れた諦観のような空気が漂ってくる。そして、このような空気は、秋田の写真にとどまらず、あちこちから感じられるのだ。
 たぶん、これは、生きることの姿なのだ。チョイワルオヤジとかジコジツゲンとかカブカジカソウガクセカイイチとか、そんなことを思い巡らせてる場合じゃなく、ただひたすらに生きるという難事業にぶつかり合っているところから立ちのぼってくる何かなのだ。ほんの少し前の日本は、かくも一生懸命に生きていたのだ。牛小屋で当たり前のように藁を編む農家の女性たち。黙々と和紙を漉き、友禅を染め、鋳物をつくる職人たち。田畑で、港で、町工場で。誰もがみな必死で働いている、生きている。そして、このように一生懸命に生きている日本の街には、シゴトがそこかしこに溢れ出ている。暮らしと仕事は渾然一体となって街にあった。僕の父は会社勤めをしていたから、僕の幼き日の思い出の中には仕事の影はとことん薄い。おとーちゃんは会社で働いてる、という、ちっとも理解できていない知識だけがあった。父が、母が、必死で働いている、生きている、そのサマを、その背中を、子どもは見ながら育つ方がいいんじゃないか。父の仕事がどんなだか何もわからないままに自分も会社勤めを始め、父は定年を迎えた。僕は、人生のジグソーパズルの何ピースかをもしかして失ってしまったんじゃないか。
 必死で生きる日本には、北だろうが南だろうが、子どもたちが大勢いた。みんな、うっすら薄汚れていて、ほんのりブサイクで、ものすごいピュアなたくましさを放っている。子どもたちの写真はものすごくいい(本の中で岡本敏子もそう言っている)。
 子どもたちに負けず劣らず鮮烈な印象を残すのは、各地の祭の力強さ。秋田のなまはげ、岩手の鹿踊り、鬼剣舞。徳島の阿波踊り、広島の婦人田楽、花田植。呪術の気配すら色濃く残すこれらの祭の装束の迫力、身ぶりの躍動感。たぶん、これも「生きること」と対になっているのだろう。僕が、エアコンの効いた部屋でアップルのキーボードを叩いて知ったかぶりをしながらこれを書きブログにアップする時代には、祭は去勢され人の命は軽くなった。僕がうっかり「貧しい」と描写した人たちには、僕らはとてつもなく哀れに見えたりするのだろうか。クリックが生きることの推進力であったりするような時代に、野生はどこに宿るんだろうね。自分の生命力につい思いを馳せる1冊。『岡本太郎が撮った「日本」』。冒頭に列記した街の半分以上を訪れたことがない(訪れたことがある街もほんのアリバイ程度の滞在に過ぎない)のも何だか恥ずかしい。
by mono_mono_14 | 2006-07-12 21:35 | 本/libro
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