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『ドイツ写真の現在』

 杉本博司を特集したBRUTUSでホンマタカシが「必修」と言い切った写真展『ドイツ写真の現在 かわりゆく「現実」と向かいあうために』を観た。例によって超会期末。
 ベルント&ヒラ・ベッヒャーによるモノクロームの写真が素晴らしかった。炭坑の採掘塔や砂利工場などの産業のための構造物の写真たちなのだけれど、野又穫のドローイングのようだった。同じような写真を集める「タイポロジー」という表現のアプローチも興味深かった。近代産業遺構を再評価する動きが広く見られるようになってきているけれど、「無名の彫刻」と称する彼らの視点は、それとはまた違うものであるような感じを受けた。
 アンドレアス・グルスキーの大判の作品もおもしろかった。サンパウロのセー駅の積層する空間を写した写真もよかったし、ライン川を写した写真も素敵だった。緑の岸辺と流れる水面、曇り空。ミルフィーユみたいにこれらが積み重なった風景のリズムが気に入った。
 ベアテ・グーチョウが提示した風景写真も興味深かった。もっとも、これは解説なしでは感じ入るところがなかったかも知れない。変哲もない風景なのだが、これらは20〜30カ所の風景をデジタル合成した一種のコラージュなのだ。ごくごく自然でありふれた風景写真が、現実世界のどこにもない風景であるというアイロニカルな作品だ。写真はあるがままを写し取り、絵画は心の赴くままに描き得るという古き常識(?)が葬り去られている。レタッチというようなレベルでもなければ、コラージュ作品でもないのだ。写真にとってデジタルというのは本当に革命的な出来事だったのではないかと思う。
 その他の作家の作品では、ポートレートが多かったのだが、それらが醸し出す雰囲気は恐怖や不安や狂気だった。病んでる、僕からすればそう思うようなポートレートだった。いくつかの作品のモティーフになっていたのだけれど、ナチスと東西分裂はドイツにとってものすごく大きな傷を与えているんじゃないか、そう思った。でも、もしそうだとすれば、傷つきながらも自らの忌まわしい過去と真摯に対峙しているということかも知れず、日本も同じような「病み方」を示してもいいのかも知れないはずなんだよなぁ、ということも考えさせられた。いわゆる靖国問題とかすらピンと来ない僕には、ドイツの写真家たちが表現しようという内的世界を理解することなど、到底かなわないのかも知れない。
by mono_mono_14 | 2005-12-17 23:59 | 文/cultura
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