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岡本太郎『日本の伝統』

Finalmente ho letto "tradizioni giapponesi" scritto da Taro Okamoto. Che impatto! E' scritto un mezzo secolo fa ma e' assolutamente effettuoso anche oggi, anzi ha grande importanza in piu'. Taro era un artista pero' le parole che ci legava sarebbero utilissime per la nostra vita.

 岡本太郎の『日本の伝統』をようやく読み終えた。平易な文章のすらすら読めそうな本で、実際にすらすら読めるのだけれど、するとたちまち消化不良を起こしてしまう。見かけよりずっと手強い本だった。まとまった時間と、それ以上にまとまった精神状態を要請された。結果、僕の遅読のせいもあるにしても、読むのがゆっくりゆっくりになってしまって、ずいぶんと時間がかかった。読んで、大プッシュされている光琳を見たくなったし、京都の庭の話が熱心に熱心に語られるものだから、京都に行きたくもなってしまった。
 岡本太郎がぶつけてきた魂の言葉の百本ノックを、そうそう簡単に受け止められたとは思えない。大半を捕り損ね後逸してしまったに違いない。それでもグラブに当てられた何本かを書き記しておきたい。それにしても、この遺産が660円なんていう廉価なのは、ちょっと申しわけなく思ったりするほど。引き続き申しわけなく思いつつ、さらに廉価な『今日の芸術』(520円!)を読む予定。



伝統とは銀行預金のようなものか(pp.60-65)
 この本が書かれた昭和30年頃にして、早くも醜悪な景観批判というものがなされていたらしい。今でこそ、ロードサイドの看板や無数の電線、壁や屋根のちぐはぐとした素材と色づかいなど、いくら何でも見苦しく貧しすぎるのではないか、ということがしきりと言われ、景観法なんていう法律もできたりしているのだが、戦後復興から高度成長へ移行する頃にもすでに、駅前景観のとりとめのない乱れっぷりが嘆かれていたようなのだった。
 しかし、岡本太郎は、自分もこの景観を悲劇と思うと述べつつも、口先だけで嘆くだけの知識人らに対し、自分だってそんな景観にお似合いの冴えない背広姿をしてるんじゃないの、と毒づいた後で、「もし日本中の駅前広場が狂気の沙汰ならば、それ以上の現実をつくり、生きがいを押しだしてゆくことだ。いかにしてそれを変え、ゆたかに充実した世界に高めてゆくかというほうにエネルギーを投げつけるべきです」と言い放つ。その前向きな創造の中にこそ伝統が宿ってくる。この一見逆説的なスタンスが、この本を通して終始訴えられていることなのだ。

中世の庭(pp.140-269)
 本書の半分を占めるハイライトをなす1つの章からいくつか抜き書き。
 「意味が分からないなんてことこそ、意味がありません。……独自であるからこそ、感動的であり、芸術なのです。つまり「意味」ではなく、美意識に受けいれられるか、られないかの問題です。」(p.164)
 「いつも思うのですが、どんなにけっこうでも、できあがったお庭をただそのまま、かしこまって拝見するだけではつまりません。そのときどきに、見る人が庭の趣向に参加し、つくり、かつ眺めるという、生きいきした庭があったらすばらしい。」(p.180)
 「過去において、借景式の名園がどのように意味づけられていたかはべつとして、私には近代芸術の課題に通じる本質的な方法として、現実的に興味がもてるし、このポイントは今後の近代庭園の構想にも、一つの重要なプログラムとして研究されなければならないと考えます。今日の都市計画などでも、とかく見うしなわれがちな面ですが。」(p.192)
 「すべての他の庭が、それぞれにたどった運命。そのあらゆる可能なばあいが想定できます。だから、すでに述べたような、煩雑な考証にこだわらぬこと。大事なのは現在の、ありのままの姿であり、そこから豊かにこちらのイマジネーションを展開させ、高度な意味を汲みとったほうが、はるかに、われわれにとって正しいと思います。」(pp.214-215)
 「すぐれた芸術のばあい、材料自体は、なんでもない、むしろ平凡なものであることが多い。それらが創造者の芸術的な置きかえによって、ただごとでない性格を輝かしはじめるのです。そこに凄み、感動がある。素材のおもしろさとか珍しさで見せているようなものには、かえって芸術的感動を受けません。」(p.219)
 「われわれとしては、つくられた動機いかんにはこだわらず、あくまでも今日の芸術のもっともきびしい、高度な立場でそれらにぶつかるべきです。時代時代のそのような対決に堪えぬいたものだけが、伝統として今後にのこされ、受けつがれてゆくのです。」(p.269)
 うーん、打たれまくりだ。庭園に限らず美術鑑賞のような場面で示唆的であるというだけでなく、何て言うのか、生き方の原理原則みたいなところにもずんと響く感じがする。アタマでっかちにならず、カラダでぶつかってこそ、何かが得られる。どこまでも圧倒的に行動主義的な思想で、これは今後、ますます有効になりそうなスタンスに思える。もちろん実践はまったくもって容易ではないけれど(と言うか、こういう口先でしたり顔をする姿勢こそが痛烈に批判されているのだった、シマッタ、猛省)。50年前に名指しで批判された都市計画は、21世紀の今日もまったく同じ批判に甘んじそうだ。
by mono_mono_14 | 2005-07-12 19:52 | 本/libro
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