映画『Fly Me to Minami ~恋するミナミ~』観た

 映画『Fly Me to Minami ~恋するミナミ~』、DVDで観た。
 大阪ミナミで交錯する東アジアの若者たちの日常と恋模様。香港・ソウル・大阪を行き交いながら、必ずしも晴れの日ばかりではないシゴトや恋愛に、懸命に向き合うひとりひとりの心と時間が、道頓堀に映り揺らぐミナミの灯りのように、輪郭を滲ませながら煌めいている。とってもチャーミングでラブリーでチアフルな映画。タイトルに引っ張られるのも込みで『恋する惑星』を想い起こしたりした。

What is your dream?
How about you?

 お互いに好意を覚え、ぎこちなく距離を縮めつつあるふたりの男女の間で交わされたやりとり。もしかすると、いつの時代でも、誰もが、誰かに訊いてみたくて、自分が訊かれたらどんな答をするんだろうと思案したりするこのテーマが、耳に届くせせらぎとか頬をなでるそよ風のように、映画を通して静かに流れて続けているように感じた。
 アジアを行き交う行動の中に輝く未来があるんだよ。“Dream”が宿るんだよ。
 この映画は、そういうサジェスチョンでありマニフェストなのだと思う。まるでその証左であるかのように、入れ替わり耳に届く韓国語も広東語(香港語)もとてもチャーミングに響く。これまで、これらの言語が、こんなに素敵に僕の耳に届いたことはなかった。この映画では広東語(香港語)・韓国語・日本語(大阪弁)・英語が混じり合うのだけれど、そのどの言葉もドリーミングな彩りを添えてやってくる。この異なる国の言葉たちが響き合うさまがこの映画の魅力だと思う(泥酔ソウル女子たちが奏でる韓国語とかすごく素敵だった)。

 こういう映画をつくろうという人がいて、実際につくられて、いくらか遅まきながらも、僕がその存在を知るところとなり、DVDがわが家にやってくるなんて、なんだかすごい時代だ。

 都市計画界隈の人としてつけ加えると、この映画を観ているだけでも、人の心にとって、都市の水辺がどれだけ大事かということが感じ取れると思う。

 この映画を知った『若者よ、アジアのウミガメとなれ 講演録』によれば、このインディな映画のプロモーションとして、ロケ地を紹介するような、これまたインディなフリーペーパーがつくられたそうなのだけれど、それはもしかなうことであれば見てみたいなと思う。

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謝辞。加藤順彦さん・田中泰延さん、これをつくったり知らせたりしていただき、ありがとうございました。


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# by mono_mono_14 | 2017-10-16 02:16 | 文/cultura | Comments(0)

加藤順彦『若者よ、アジアのウミガメとなれ 講演録』

 加藤順彦『若者よ、アジアのウミガメとなれ 講演録』。加藤順彦さんが自らの歩みを振り返りながら、これからの時代を生き、拓いていく若者たちに向けて送ったエールを記録したものだ。


 「ウミガメ」というのは中国語の「海亀」のことで、中国では、若くして海外に飛び出し、学び、何かをなしとげて凱旋帰国した起業家たちをこう呼ぶのだそうだ。加藤さんは、これからの日本の若い世代にも、そういう「ウミガメ」のような人になってほしいという。加藤さんのその期待と熱望が文章のはしばしにほとばしっている。その圧と熱さに満ちた語りは、若者にしか響かないというものではなかった。くたびれた大人の、淀み静まった心の水面にも胸騒ぎのようなさざなみが立ち、ちょっと帆を上げてみないかと誘うかのような風が吹く。


 僕は、何かに二の足を踏むのを喘息のせいにしてきた。実際、この疾患は、僕のような比較的に軽い症状であっても、実際の行動に対する制約にはなるし、何かにつけ慎重に判断し行動することを求められる。発作が起きて医者に行けなかったら…という想像は、それなりの恐怖として実感できるものだ。大学生の頃からβ2刺激薬(気管支拡張剤)を頓用できるようになり、生活面での制約は劇的に小さくなったが、発作の怖さが消えることはなく、一方で薬効を過信した軽率な振る舞いも多くなった(喫煙習慣なんて、その最たるものだった)。僕は、そういう小さな軽率さは平気で積み重ねたくせに、ウミガメ的なマインドは一向に育てようとしなかったのだ。


 この先、ウミガメを取り巻く大海がどうなっていくのかはわからない。そもそも大海原に泳ぎ出るウミガメは、全体のボリュームから見ればほんの一握りではあるだろう。浜辺でのんびり暮らすシオマネキとして生きたいと思うかも知れないし(いや、シオマネキが浜辺でのんびり暮らしているのかは知らないが)、それも決して悪くない。それでも、ウミガメ精神を必要とせずに生きられる時代は、もう終わってしまうだろう。それは若者だけでなく、中年だろうと老人だろうと同じだと思う。むしろ、年齢を重ねていればいるほど、変化や挑戦を心がけないと、慣れ親しんだルーティンに居心地よく絡め取られ、静かに静かにバイタルを下げていく。そうならないための1つのアプローチが、ウミガメたちのマインドを胸に、どんなにささやかなものであれ、何かを願い、挑む日々を生きることなのだと思う。



 この本を手にしたのには、大きく2つの理由があった。1つは、僕の書棚の「未来への扉になるかも棚」に置いておきたいなと思ったことだ。いや、そう名づけられた書棚などない。が、子どもから見た父親の書棚なんて、わけのわからん縁遠さが居並ぶ中に、たまに一条二条のかすかな光を感じたりするものだろう。遠くない将来のある日、僕の書棚のこの本が、その背表紙から細い光を放つかも知れない。

 もう1つの理由は、巻末解説あらため巻頭演説となった田中泰延さんの6,900字を読んでみたいと思ったことだ。


 巻頭演説は圧巻だった。淡々とした語り口ながら、この本を書いた(講演をした)のがどういう人なのか(加えて、それを紹介している自分がどういう人なのか)を、軽い笑いも盛り込みつつ必要十分に紹介しながら、本文(講演)のテンションとグルーヴにぐんぐんと合わせていってバトンを渡す。ほら、オープニングのデトロイト・ロック・シティに先立つ “You wanted the best, you got the best. The hottest band in the world... KISS!!” みたいなやつだよ。すごかった。巻末でなく巻頭に置かれるべき文章だった。巻末に置かれる時には、JBにマントを掛けに来た感じの文章になるのだと思う。


 加藤さんと田中さんをつなぐエピソードの1つとして紹介されていた映画『Fly Me to Minami ~恋するミナミ~』。観てみたいなと思ったのだけれど、きっともう上映館もなければテレビでやったりもしないんだろうな…と半ばあきらめていたところ、ふと覗いてみたアマゾン川をゆらゆらと流れていた。おお、アマゾン、すべてを飲み込み流し続けるおそるべき大河よ。オンデマンドDVDの在庫ありという、いささか哲学的な状況にとまどいつつポチった。無事に届けば週末三連休のどこかで観る。あとは、「春夏冬 二升五合 大阪城」の湯呑みの寿司屋でおまかせを握ってもらう日をめざすのみだ。のみって。




 謝辞。この本(+恋するミナミ)にたどり着いたのは、改めて言うまでもなく田中泰延さんのツイッターをはじめとする惜しみのない(というか大盤振る舞いの)情報発信のおかげです。ありがとうございました。「泰延」を「やすのぶ」と打って変換していることは秘密。


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# by mono_mono_14 | 2017-10-05 23:34 | 本/libro | Comments(0)

指南役『「朝ドラ」一人勝ちの法則』

 指南役『「朝ドラ」一人勝ちの法則』読了。正直、これまであまり読んだことのないテーマの本。「すこし長めの、はじめに」は、「ドラマを愛する全ての人々へ、この本を捧げます。あなたのドラマ作り、ドラマ選びの一助になれば幸いです。」という文章で締められている。一義的には、ドラマを題材にドラマ好きの人たちに向けて書かれた本なのだろう。そういう意味では、最近、朝ドラこそ時計も兼ねて観てはいるものの、特にドラマ好きというわけでもない僕は、読者として想定されていないような気もするが、まあ何かの縁で手にしたわけだし、気楽に読み始めてみた。そして、得るもの多く読み終えてしまった。

 5章立てで、そのうち最初の4章が朝ドラや連ドラの浮き沈みの読み解きに充てられている。へー、そうなのかー、なるほどねー、と、それこそリビングでドラマを見ているように楽しく読んだが、いかんせん、取り上げられているドラマ自体をあまり知らない(し、必然的に脚本家もさほど知らない)ため、ドラマ好きからしたら堪えられないのだろう解説のおもしろさを味わいきれていないだろうことは確かで、そのことは、ちょっと惜しまれるというか残念ではあった。
 しかし、最後の5章。連ドラ復活の処方箋の体裁をとったこの章が、すんごくよかった。この部分は、仕事であれ、日々の暮らしであれ、何かにクリエイティブに向き合いたいという心持ちがあれば、テレビドラマへの興味の濃淡は関係なく刺激的に読めると思う。

 5章へのブリッジとなる4章の最後の辺りにこう記されている。
 日本も強くなりすぎたテレビ局や芸能プロダクションが、大きな曲がり角に来ている。その先に待ち受けるのは、クリエイティブで勝負する制作会社の時代であり、真に能力で判定される俳優個人の時代である。(p.157・強調原文)
 ドラマの制作現場の将来展望として書かれているけれども、この「制作会社」と「俳優個人」のところは、自分の生きる世界に照らした置き換えが可能だ。僕は(というかおそらく誰もが)、ある時は制作会社として社会と接し、ある時は俳優個人として振る舞っている。「連ドラ再興の話をしますけど、これ、あなたの世界に当てはめて読めると思いますよ」という著者の思惑が伏流水のように流れている。少なくともこれに続く5章はそう読めるように書かれている。

 中身の詳細な紹介は控えるけれど、僕は、自分に引き寄せた時に、大事なことは次の2つだと受け止めた。1)先輩方はこいつはという若い人に思い切って大きなチャンスを与え、その人を支えよ(抜擢された若い人は大いに奮い立て)、2)そこで紡がれるストーリー(ドラマでいう脚本で、仕事の局面によってはロジックなどに当たる場合もあるだろう)は一から十までオリジナルである必要は全くなく、むしろ先人たちのすぐれた仕事を大いに参照しつつ、そのアップデートに注力することが大事だ。この2つだ。
 「あの本、読んだ?」「いえ」。
 「この作品、知ってる?」「いえ」。
 どんなに張り切ったとしても、こんなところでオリジナリティとクリエイティビティにあふれた何かが生まれる可能性はゼロだ。…我が身を振り返ってうなだれて押し黙る場面となってしまうが、それでも、過去に頼って未来を描いていいんだという示唆は、改めて僕の視界をずいぶんと明るくしてくれる。もちろん、すぐれた過去を参照する必要はあるけれど、すぐれた過去は文献だろうと事例だろうといくらでも思い当たるものだ(進行中の現在をいかに注意深く察知するかということが、案外、難しいかも知れない)。
 ここで、ふいに『知ろうとすること。』での早野龍五の言葉を思い出す。
 端的にいえば、自分が研究したり、発言したりする分野において、過去に何が起きて、いまどこまでがわかっていて、どこからがわかってないかというようなことは、勉強しなくちゃいけない。それは必須です。(早野龍五・糸井重里『知ろうとすること。』新潮文庫、pp.150-151)
 グーグルに気楽に訊いてわかったような気になる日々を、もうずいぶんと過ごしてきてしまった。ネット検索のない世界には戻れないし、戻る必要もないけれど、その便利さや気楽さにとどまらないで、過去の蓄積と進行中の現在に敬意を持って向き合いながら、未来を思い描き、なんとかそこに向かおうとする。そうありたいし、あらねばな、と改めて思った。うん、怠惰に流されがちな凡人がまた少し気を引き締めたという、ドラマのかけらもない話になってしまったな。愛くるしい。
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 謝辞。ふだん手に取らないようなテーマの本を楽しく読んでしまったのは、ひとえに田中泰延さんの紹介ツイートを目にしたおかげです。ありがとうございました。

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# by mono_mono_14 | 2017-09-20 12:27 | 本/libro | Comments(0)

寄藤文平『デザインの仕事』

 寄藤文平『デザインの仕事』読了。街の小さな本屋のレジ前にある平台の片隅に積んであったその脇を、素通りしかかったところでふと目が会い、手に取り、一瞬の躊躇の後にレジへと持っていった1冊。風に乗ってたまたま窓から入り込んで手元に届いたみたいな本だ。それがとてもおもしろかった。

 グラフィックデザイナーの寄藤文平が、自らの歩みと作品を「デザインの仕事」という枠組みからふり返って思うことが綴られている。現時点において自らの信ずるところを足場として、淡々とと言っていいほど飾り気なく、率直かつ穏やかに繰り広げられる語りは、静かな熱とグルーヴを放ちながら、読んでいる僕に入り込んでくる。僕は、自分の置かれた状況に照らし合わせながら、大きく頷いたり、目を見開かされたり、眉間にシワを寄せたり、虚空を仰ぎ見たり、ふうっと深い息を漏らしたりすることになる。とても楽しく豊かな時間だった。

 読みながら感じるワクワク感や胸騒ぎは、まるで冒険譚でも読んでいるかのようだが(実際、ここに綴られているのは寄藤の冒険の実録だが)、そこにドラマティックな演出はほとんどなされていない。むしろ慎重に遠ざけられている。章立ても、緻密で劇的というよりは、ざっくりとした割り切りのもとで組み立てられている。一歩引いた位置から冷静に全体を見渡している。デザインしすぎない構成デザインにより、そこに込められた穏やかな熱のようなものが伝わりやすくなっている。少しでも多くの何かが読み手に伝われば(少しでも多くの何かを読み手が受け取れれば、と言った方がよいかも知れない)…ということが編集の意図だとすれば、それは成功しているように思う。

 印象に残ったところを挙げればキリがないし、そもそも読む人それぞれが感じ取るべきお楽しみの部分なので、ここではあまり内容に立ち入らないことにするけれど、イラストレーターやデザイナーの社会的な立ち位置を巡ってぎりぎりと考え抜いている部分や、ロジックやストーリーに大きく依存する風潮への危惧、スランプとの向き合い方、デザインやアウトプットの技術を体系的な学問として組み立てられるのではないかという示唆の辺りなどが、強く印象に残った。

 本書の著者は寄藤ひとりだが、聞き書きを務めた木村俊介も、共著者と言ってもよいような、ものすごく重要で優れた仕事をしている。感じ入るところ大きかった。


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# by mono_mono_14 | 2017-09-14 13:37 | 本/libro | Comments(0)

劇団カクシンハン公演『タイタス・アンドロニカス』

 ウィリアム・シェイクスピア。もちろん名前は知っているし、いくつかのタイトルも知っている。もっとも、ちゃんと読んだことがあるかとか舞台を観たことがあるかとか英語で綴れるかというと、バツの悪い感じでうつむいてしまうのだけれど。

 劇団カクシンハン公演『タイタス・アンドロニカス』、観た。シェイクスピア初期の戯曲とのこと。感想的なものを残しておこうと思い。以下、ネタバレを含むかもしれないが、ひとまず今回公演は終了したようなので、まあよいのではないかと。

 会場は吉祥寺シアター。傾斜のある観やすい客席の小劇場で好印象。ざっくり200席くらいか。開演を待つ舞台の中央には無機質な台。校長先生が朝礼で上りそうなニュアンスな。その後ろにスクリーンのように掲げられた大きな白い布。モノクロの映像が映し出されている。ミニマル感あるしつらい。上手の奥にドラムセット。お、ドラムだ。なんかそれだけで説明不能な期待感を感じた(そしてそのドラムはものすごくよかった)。
定刻を過ぎ、ばらばらと白い衣装の役者が出てきて位置につき、そのまま開演。

 正しいあるいは詳細なストーリーは他に譲る。というか、ストーリーは追わない。というか、なんなら僕自身が改めて原作(の翻訳)を読む必要があるくらいなのだ。というわけで、Amazonで松岡和子さん訳のちくま文庫をポチッとしつつ、3時間弱の公演で感じたことを断片的に書き連ねておくことにしたい。

 ゴート人との戦いを制し、ローマに意気揚々と凱旋してきたタイタス・アンドロニカス(河内大和)。輝かしいその凱旋の瞬間からしかし、彼の運命は暗転の一途をたどる。落ちぶれる、没落するのとは違う。ただただなぜだか悲劇の坂を転げ落ちていき、自らも復讐の鬼と化す。タイタスに明確な落ち度があったとは思えなかった。結果として裏目に出る判断があったと言えないことはない。でも、それを責めるのは酷なことではないかという思いもする。都度の判断を逆にしていたところで、タイタスにとってめでたしめでたしというストーリーになるようには思えない。バシエイナスに皇位継承権を与え、タモーラの息子を赦していればよかったのに、という話ではないだろう。そんな単純にコトが進まない酷で苛烈な時代だったということかも知れない。いつの時代もそうかもしれないけれども。

 TED Talk もそつなくこなすエアロン(岩崎MARK雄大)。どんな正義だって見方を変えれば悪になり得る。彼が投げかけたひとことは、この作品を貫く主題的なものとして、成り行きを見守る僕に作用し続けていた。途中、役者のほぼ全員がエアロンと化す場面があった。誰もが「悪」に反転しやすいフラジャイルな「正義」を自らの内にいだいていることを表しているようだった。「正しさ(正義)」に立脚することの危うさ。逆に言えば、全ての「悪」も誰かの「正義」の横顔を持っている。狂言回し的な役目も負っていたエアロン。彼がこの戯曲において「何者」なのかは、近日中に手元に届くはずの原作(の翻訳)を読む時にも気を留めたいと思っている。

 演技の上では笑いにも片足を置いていたタモーラ(白倉裕二)。登場人物の中でも最も深い復讐の炎を燃やしている1人なのではないかとも思うが、笑いをもたらす演技とセットになっているので、その辺をつい甘く見積もってしまう。こういう笑いが混ざることについては賛否あるのだろうと思う。でも、時に苦笑や失笑も含め観ている僕が思わず漏らしてしまう笑いは、フレッシュに芝居の世界に入り込むために送り込まれる酸素のようなものだと思う。それにこういう笑いはとても演劇的な時間だし体験だ。

 紅一点のラヴィニア(真以美)。ほぼ全編を通して彼女には悲劇しか訪れない。それでいて胸に宿す復讐の念は、他の誰よりも薄いように思われた。両手と舌を切り落とされてからの佇まいは、もちろん痛々しかったし、同時に美しくもあった。どこまでも焦点の合わない哀しみに彩られていた。傷口からほとばしる鮮血を模した赤いロープの衣装(と呼ぶのでよいのか)がすごくよかった。

 この鮮血に限らず、パイプ椅子やガイコツを宙空に吊るす演出でもロープは大きな役割を果たしていた。かっこよかった。縦方向(上下)に空間を二分する照明もよかった。空間の高さを印象づけていたと思う。

 さらに、どうしても触れておきたいのはドラムのことだ(ユージ・レルレ・カワグチ)。劇伴に合わせてドラムが叩かれる。疾走とか怒涛とか表現できそうなそのドラム演奏は、ストーリーとプレイを支えるだけでなく、舞台によりいっそうのライブ感(生気)をもたらし、ストーリーが疾駆するトルクを与え、全編をグルーヴィに仕立てていた。ものすごくよかった。

 カーテンコール。どんな舞台でも、ラストシーンで暗転した舞台に再びあかりが点いた時の気分と雰囲気はなんとも言えない。高揚感、達成感、安堵感。万雷の拍手喝采。舞台に自分の居場所を見つけた人たちの近寄りがたいほどのアウラ。それを見上げる僕のいだく羨望とリスペクト。舞台上の彼らが味わっているような時間と感情のためにこそ人生はあるんじゃないかという思い。想像だけれど、舞台上から客席に対しては感謝しかないのではないかと思うのだけれど、客席の僕には、オマエはどうなんだという問いを突きつけられているような気もする。オレはどうなんだ。自問する。焦燥感がないとは言えない。ソールドアウトとかスタンディング・オベーションとか、そういう目に見える反応はあまりないけれど、僕は僕の舞台でベスト・パフォーマンスを心がけるしかない。

 ちょっとした過失を囃し立て、ネガティブな感情を増幅させ、双方の対立関係を煽り立て、ギスギスした居心地の悪い気分に追い込もうとする、寛容の足りない今日において、この救いのない復讐劇(最後には全員が死んでしまった)というボールを確信犯的に蹴り込んできたカクシンハン。僕としては、そのボールを柔らかくトラップし、軽やかなパスワークで鮮やかなカウンターを食わせたい。それこそが彼らの望むところなのではないかと思う。…まあ、実際には、そんなことを企てたら今度は右脚のアキレス腱を切ると思う(1年半ほど前に左のアキレス腱を切った)。大それたことは考えずに、自らの健康と家族を大事にしよう。唐突に「家族」の語を盛り込んだが、家族(親子や兄弟)のかけがえのなさ(時にやりようのなさも含む)も彼らから投げかけられたテーマの1つだったのではないかと思った。

 梅雨どきのような夏休みの最後に味わったいい時間だった。

 謝辞。この公演のことを知り、チケット入手にいたったのは、ひとえに糸井重里さんの絶妙なさじ加減のツイッター・プロモーションのおかげです。ありがとうございました。

 おかしいな。こんなに長くなる予定じゃなかった。

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# by mono_mono_14 | 2017-08-21 16:03 | 芸/arte | Comments(0)

『カウボーイ・サマー』

 前田将多『カウボーイ・サマー 8000エイカーの仕事場で』読了。すごく楽しかった。それになんか元気になった。それが小説であれノンフィクションであれ、冒険の物語が読み手の心に届けてくれるエールというのは確かにあると思う。

 少なくとも僕くらいの年齢でカウボーイという語を知らない人はあまりいないと思うけれど、同時に、カウボーイの実際を知っている人もそんなにいないのではないかと思う。僕のカウボーイ像には、カウボーイハットとロデオ、それに西部劇やらカントリーミュージックやらのイメージが、残念なくらい適当に入り混じっている。シェーン、髪バック! すらカウボーイ枠にあるかも知れない。髪は長い友だちであることがわかりすぎるライフを送っている僕なので、それもやむを得ないと思う。2017年ともなれば、そもそもなんの話なのかわからない人たちが多いかも知れないが、それもやむを得ないと思う。

 『カウボーイ・サマー』は、40歳を前にして会社を辞めてひと夏のカウボーイ修行に臨んだ男の冒険の記録だ。目に映る景色、耳に届く音、鼻をくすぐるにおい、ほほに触れる空気、全身を試すような力仕事、何もかもが新鮮で衝撃的でもあっただろうその日々が、さながら観察日記とか業務日報のような抑えた筆致で綴られている。たぶん、なによりもまず著者自身のために、すべてをできるだけきちんと書き留めておきたかったのだと思う。そして、記録と記憶を冷静に丹念に綴じ込めた1行1行が、実はそこに熱い思いを湛えていて、亜熱帯化する東京の片隅で鈍った身体を持て余しながらページを繰る僕を、めくるめく冒険旅行に連れ出してくれる。カウボーイ的にはよくあるできごとでも、ショータと仲間たち(読者だ)には一大事で、緊張する場面では息を呑み、ひとつ解決すると大きく息をつく。缶ビールの1本でも開けざるを得ない。久しぶりにクアーズを飲みたくなったりした。買って帰ろう。…と思ったのだが昔のようには売っていないのだった。見つけたら絶対に買うボーイ! …すまん。

 もう20年近く前になるけれど、仕事で福島県原町市(現・南相馬市)にいくたびか通う機会があった。野馬追のまちだ。普通のまちより遥かに乗馬の機会が身近にあった。金曜日が打合せで、翌日の土曜日に馬に乗せてもらったことがある。機会をつくってくれたのは仕事の相手方の1人で、打合せの席からは想像もできないくらい元気ではつらつとしていた。こわごわと馬に乗り、いや、僕が馬に乗ったのではなく、馬が僕を乗せてくれたのだけど、小さな馬場をゆっくり周回した。横から見ることの多かった馬の首は、太くたくましいものだと思っていたのだけれど、鞍上から見下ろす馬の首は細くしなやかで美しかった。その印象のことをよく覚えている。僕を乗せてくれた馬もいいヤツだったが、著者がひと夏をともにした馬たちもすばらしいヤツらだったようだ。
 夢のような夏が終わろうとする夕刻。サマー・カウボーイは、すべてを慈しむようにゆっくりとクワッド(一人乗り四輪バギー)を走らせている。このクワッドを降りたら、あとはもう帰国の支度だけが残っている。ふと見ると、行く手に数頭の馬たちが並んでいたのだと言う。ショータ、帰るらしいよ。馬耳東風などというけれど、馬たちは風のたよりを聞き逃さなかったのだ。馬たちと分かち合う最後のひととき。詩情あふれる美しいシーンだった。馬の首にやさしく添えられた手、その場を離れない馬たち、カウボーイの目からあふれだす涙。クローズアップで描かれていたその場面が、ぐんぐん空撮の映像に変わっていく(僕のなかでだ)。8000エイカーのただなかにたたずむカウボーイと馬たちを見守る画面が広がっていく。そんな気がした。きっと空からやさしい眼差しで見ていた人がいたのだと思う。
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# by mono_mono_14 | 2017-07-10 22:12 | 本/libro | Comments(0)